1− Ⅲ サヨナラを告げて。

 星空の下を一人歩く先に、男の住む家があった。元々彼の恋人であった男が住み、その死によって売りに出されたものを彼が買い上げたのだ。二十年以上変わらない木製のドアを開けて彼は静かに家の中へと足を踏み入れる。横着だった恋人はリビングにベッドを置いていたが、そのリビングにはダイニングテーブルセットとソファセットが置かれ、壁際には本棚が立ち並んでいた。電気も付けず暗い部屋の中を静かに歩く彼が、手の中にあった家の鍵を壁に作りつけられたフックへ掛ければ金属が擦れる小さな音が立つ。暗闇と静寂に満ちた家の中を窓の外から柔らかく射し込む月明かりだけを頼りに彼は二階へと足を進めていくのだ。そして向かうのは、かつての恋人が使っていた部屋で。中で眠っているだろう人間を起こさないように、男は静かにそのドアを開ける。音を立てないようにするりと部屋の中にその身を滑り込ませた男は、ベッドサイドに置かれた木製の椅子へと静かに腰を下ろす。そうしてベッドの中で眠る人影を静かに見つめるのだ。人の気配に気付いたのだろうか、ベッドの中の人影はもぞり、とその身を動かしてまだ重いのであろう瞼を薄っすらと開きながら男の姿を見詰める。

「ヴィン?」

 小さく開かれた唇からは男の名が放たれる。眠たそうなその声は鈴のような音で男の耳朶を擽った。年端もいかない少女の声に「まだ、夜中だ」と男は静かに告げる。「起こしたのは、ヴィンでしょう」少しだけ気分を害したようなその声に男は小さな苦笑を漏らす。「ごめんね、きみの顔が見たくて」男のそれと同じ、少女の柔らかなプラチナブロンドを静かに撫でながら彼は静かに言葉を紡ぐ。そんな男の様子に、少女は「ねぇ、ファーティ。どこにもいかないよね?」と不安の色に満ちた声色で男へと問う。男の養女である少女は普段、彼を愛称であるヴィンと呼んでおり、父と呼ぶ事は稀であった。そんな少女が男を父と呼んだ事は彼にとっても意外な事であり、少しだけ驚いたようにライトブルーの瞳を広げた彼は、彼女を安心させるように微笑む。

「珍しい名前で呼んでくれるんだね。大丈夫、どこにも行きはしないさ」

 少女を安心させる為だけに告げたその言葉に、彼女は「本当ね?」と最後にもう一度だけ念を押してから薄く開かれていたダークブルーの瞳を瞼の下へと隠すのだ。男は少女が静かな寝息を立てる迄、その柔らかなブロンドを撫で続けていた。

「嘘つきな父親でごめんね」

 寝息を立て安らかな眠りへと就いた少女には届いていないだろうと思いながらも男は彼女へ謝罪の言葉を告げる。「でも」と彼は静かに言葉を重ねる。

「きっと、嘘つきな父親なんて、から、大丈夫だよ」

 静かに告げられた男の言葉は、かつて彼の恋人が暮らし、そして今は彼の娘が眠る部屋の中で静かに消えていく。

「ゆっくりおやすみ、

 椅子から立ち上がった男は眠る少女へとそれだけを告げて、その部屋を後にした。

 

 そして彼が向かうのは、自身が使う部屋ではなくこの家の地下にあるコンクリートの壁が剥き出しになったままの空間であった。男が部屋の電気を点ければその部屋に置かれた洗濯機と物干し竿が照明に照らされる。そこには少女と男の衣類が掛けられたままだった。それらの服が乾燥しきっている事を確認した男は静かにそれを取り込む。淡い色の少女の服と、黒ばかりの男の服。二人分の洗濯物を丁寧に畳み終えた男は、その洗濯物を部屋の端に置かれたラックへと乗せる。そして足を向けたのは、少女には決して入らないようにと約束させた部屋のドアであった。元は一つの空間のみであった地下室に男が作った壁は、彼が作っていたものを隠す為に作られたものであった。それは、この社会の倫理に反する代物であったのだ。男が長を務める機関にも、家族にすら言う事は出来なかったそれは決して手を出してはいけない領域に存在するものであった。男が部屋の照明のスイッチを押せば、カチリという軽いプラスチックの音と共に金属が鈍くその照明を反射する。それは、幼い頃から天才と呼ばれた男の最後の傑作であった。一般的にタイムマシンと呼ばれるそれを、男はその人生をかけて作り出したのだ。コートを羽織ったまま、男は静かにその装置のスイッチを押して移動先となる時間軸の設定を行う。二十五年前のこの日、それが男の求めた移動先であった。デスクに置かれたシンプルなプラチナリングへと小さく口付けた男は、それを自身の薬指へと嵌める。それは、彼の恋人が彼へと贈ろうとしたものであった。それを彼が手にしたのは、恋人であった男が死んだ後で。対となるリングは今でも男が死んだ場所の近くに埋まっているのだろう。左手にプラチナを輝かせ、男は自分自身が作り上げた機械の座席へ座り最後のスイッチを押したのだ。

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