第62話

 ジョンは苦笑いしながら、麻貴を自分の荷物のあった場所に導く。


 すでに荷物は、ポーターの手で迎えに来ていた車に積み込まれていた。

 豪華なリムジンに収まった麻貴は、彼が機内でポーチを拾ってくれた男であることを思い出した。


『ストーカーかしら…』


 麻貴は警戒心を強めたが、芝居にしては彼が体中に刻んだ傷は確かに本物で痛々しかった。迎えに来ていた運転手が、ジョンの様子に驚いて、病院だとか警察だとか騒いでいたが、彼はそれを制して、まず麻貴のホテルに向かうように指示したのだ。


「人に殴られたのは初めての経験です」


 ジョンが、裂けた唇を指でさすりながら麻貴に話しかける。


「フェンシングできるなら、最初からやればいいじゃない」

「いや、こどものころに祖父に無理やり習わされただけで、今ではフルーレ(剣)も家でほこりをかぶっていますよ。僕は、John Tang(ジョン・タン)」

「私は、アサカ・マキよ」

「日本人ですね。こちらにひとりで何しに来たのですか?観光ですか?」

「…いくら助けて頂いても、初対面のあなたに話す理由はないわ」


 麻貴の返答にジョンは二の句が継げない。

 彼はその容姿と財力と教養のおかげで、人並み以上の数の女友達を持っているが、会話を続けるのにこれほど苦労する女性と、いままで出会ったことが無い。

 運転手は、笑いをかみ殺すのに苦労していた。


 Pan Pacific Manila(パン・パシフィック・マニラ)に到着すると、紳士は女性をフロントまで送るものだと、ジョンは運転手に荷物を持たせ麻貴についていった。

 麻貴は日本語で小さく「面倒くさい男だな」とつぶやいたが、多少の恩義もあるし、仕方なくジョンをかたわらに置いてフロントスタッフにチェックインを依頼した。

 すると、スタッフからリザベーションが見当たらないとの答えが返ってきた。驚いて再度の確認を強要するも、答えは変わらない。ならば、今からでいいからひと部屋をとリクエストしたが、残念ながら満室でご要望にお応えできないと慇懃な英語で断られてしまった。

 見かねたジョンが、再度介入。スタッフは、ジョンの顔を見ると態度を豹変させた。必死な面持ちで、カウンター内のキーボードを叩き始める。彼は案外有名人なんだと、麻貴が感心したのも束の間、今度はわざわざ支配人が出てきて、泣きそうな顔で国際会議のせいで全室埋まっておりどうにもならない、とジョンに返事を持ってきた。ジョンが少しいらついた表情を見せると、支配人もフロントも頭をカウンターにぶつけるほどの勢いで詫びる。


「もうこんな時間です。他のホテルをあたるより、ミス・マキさえよければうちのゲストハウスに泊まっていただいてもかまいませんが…。どうでしょうか?」


 交渉をあきらめたジョンが、麻貴にそう申し出た。

 麻貴はもちろん固辞したが、フロントスタッフが、今夜は国際会議のせいで市内のどのホテルも満室なはずだ。それに彼の家は豪邸だから、そこに泊まれるのはとても幸運なことだと盛んに勧める。


「あなたの家は、あなた以外の人もいるの?」

「ええ、家族と使用人がいます」


 麻貴はしばらく考えた。このままでは女性ひとり、危険な夜のマニラでどこへいくあてもない。


「それじゃ、みんなこっちに集まって」


 麻貴が、ジョン、運転手、そして支配人を集める。

 フロントマンに麻貴のスマートフォンを渡して、彼女を中心とした記念写真を撮らせた。なぜここでと唖然とする男達。一方写真を撮ったフロントスタッフは、麻貴が言った「ハイ・チーズ」という聞きなれない言葉の意味をしきりに質問するが、麻貴は質問を無視して、ジョンに写真を見せて言った。


「これを私のフェイスブックに載せるからね。もし私の身に何かあったら、あなたを犯人だと世界中の人が知ることになるわ。覚悟しなさいよ。じゃ、行きましょう」


 ジョンも運転手も記念写真の意味を知って、首を振りながら麻貴の後ろに従った。


 麻貴は再度リムジンに乗りこんだものの、ジョンと話しもせずに自分のスマートフォンの操作に忙しい。しばらくしてジョンの家に到着した。たどり着いた家は、豪邸どころか、麻貴の想像をはるかに超えた『宮殿』だった。実際彼女も帰国後に、ジョンの家を『マニラのベルサイユ宮殿』と友達に説明したほどだ。

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