第2部 Lilith

第8章

8−1

 埃っぽい大気が都市の空を覆い、景色は白く煙っている。

 ジョージは春の強い風が吹く街を市庁舎の最上階から見下ろしていた。

 快適な温度設定が敷かれている建物内にいると、外気がどれほどのものなのかは感じ取れない。だから娘のいる草原の国がどのような気候なのか想像するしかない。

 遠い国から視線を外し、執務机を見る。

 机上には表紙に大体的に「リリス」の名称が用いられた新聞や雑誌が積み上げられていた。すべて目を通したいと大衆紙から芸能紙、果ては週刊誌まで秘書に命じて集めさせていた。付箋を貼り付けた箇所はすべて同じニュースを取り扱っている。

(……アマーリエ)

 娘の名を心の内で唱えたとき、ドアがノックされる。

 入室した秘書は背筋を伸ばしてはいたがどこか疲れた表情で報告を始めた。

「押し寄せていたマスコミはすべて退去させましたが、団体や市民からの問い合わせの電話が鳴り止まない状況です。メールも受信を続けており、サーバーダウンしそうだとシステム部が申しております」

 ジョージは肩を竦めた。

 現在市政は混乱状態にある。原因はアマーリエが友人たちに送ったメールだ。

(やれやれ、子どもだと思っていたのになかなかやるものだ。……それともリリスに懐柔されたのか?)

 いや、それはあるまい、と思う。

 元々警戒心の強い娘だ。故郷に帰りたいという思いがあるのなら夫となった男にも心を許すことはないはずだった。そう考えると都市にもたらされたアマーリエのメールは、彼女の助けを求める声だとも受け取れる。

「ご指示をお願いいたします、市長」

 ジョージは微笑み、有能だが人を食ったような市長の皮を被った。

「お望み通り会見をやってやろう。マスコミにはリリスと協議してから日程を決めると知らせておけ。ああ、他の市長にも連絡を回さなければね。私が哀れな父親役をやるなら説明役が必要だ。第一都市のボードウィンが上手くやるだろう」

「かしこまりました」

 退出した秘書を見送り、ジョージは再び窓の外の都市を見やる。春の気配が遠い硝子に覆われたその部屋で、彼方に咲く花を思う。

「……アマーリエ。待っていておくれ」

 窓に向かって手をかざす。

 伸ばした手をすり抜けていった彼女マリアのように、愛しい花を散らせはしない。

 今度こそ。



       *



 夢うつつに「わからないんです」とアマーリエは呟いた。

「あなたは、いつから私を?」

 雨の雫よりも柔らかな声はキヨツグの耳を甘くくすぐる。まるで付き合い始めたばかりの恋人たちの会話のようだが、これで新床の夫婦なのだからいささか面映ゆい。声に出さずに笑う気配が伝わったのか、アマーリエはゆるりと目を上げ、頬をうっすらと桃色に染めた。

「ほ、他に候補がいたんですよね? でも私を選んだ理由って……」

「……内々に潜入調査をした結果だ」

 リリス族はヒト族と比べて男女ともに長身であり、瞳の虹彩の形状が異なっている。だが目を隠し衣服さえ取り替えればほとんど気付かれずに都市に紛れ込むことができるのだ。

 アマーリエは目を瞬かせている。

「都市に入るために必要な通行許可証や身分証は……」

「……都市にはリリス族の協力者がいるゆえ、彼らを通じて様々なものを用立てている」

 これまで閉じられてきた草原だが、ヒト族の文明の発展は看過できないと考えた歴代の族長によってヒト族の都市には複数の密偵が放たれていた。彼らは都市社会に溶け込み、必要な情報や物資をこちらに送付する役目を担う。独自の体制を敷く彼らは都市中枢部に入り込むことのできる能力を有し、必要であれば身分を証明するものを偽造することも可能だ。

 そしてキヨツグは前族長の治世下においてその恩恵を受けて度々都市を訪れていた過去があったため、婚姻相手の候補者が定められたときに自ら足を運ぶことにしたのだった。

「……都市に入り、すべての候補者を調べた。その中にお前がいた。条件としてはお前が最もふさわしかった。中立派の市長の娘、婚姻に適した年齢で、性格も温和であると聞いていたが、実際に見てみなければわからぬものもある」

 アマーリエは怯えたように息を飲んだ。

「私と会ったんですか? いつ?」

 記憶にないと言いたいのだろう。だがキヨツグはそれを鮮明に思い出せる。

「……初夏だった。場所は大学の食堂。お前は友人と話していたが、彼女が去り、お前は一人になった。そして窓越しに友人とその恋人が仲睦まじそうに腕を絡めて歩んでいく様を見て『いいな』とひとりごちた」

 ぎょっとしたアマーリエはみるみる赤くなっていく。

「そ…………そんなの……」

 覚えてません、と言って毛布を口元まで引き寄せる。髪を掻き上げてやると赤く染まった耳が見えた。だがまだ続きがある。

「……その後お前も席を立ち、食堂を出た。私もそれを追った。長雨がようやく上がろうとしていた。日が差して周囲が明るくなった瞬間、空に虹がかかった」

 虹の橋を見たアマーリエは驚いたように立ち尽くし、素早く周囲を見回した。いま思うならそれは声をかける相手を探していたのだろう――美しいものを共有したいと思っていたのだ。

「……そのときお前は、見知らぬはずの私を見て」

 彼女はキヨツグを見つけ、ほっとしたように微笑んで空を指した。

『――虹。綺麗ですね』

「……そうして偶然隣にいただけの人間に美しいものがあると知らせて微笑むと、霧雨を浴びながら虹の下を潜るようにして走り去った。それが最初だ」

 アマーリエはしばらく何も言わなかった。キヨツグも黙って彼女の髪を梳いてその滑らかな感触を楽しんでいたが、やがて途方に暮れたような呟きがあった。

「……そんなことが私を選んだ理由なんですか?」

『そんなこと』と言うが、それがキヨツグの心を揺らしたのだ。

「……お前が誰かをひとすじに想うとき、どのような顔をするのだろうかと思ったのだ。どのように笑い、どんな喜びを見出すか、知りたいと思った。叶うならば、近くで」

 それが始まりだった。そうして数人いる候補者の中から彼女を選出した。

「……花嫁とするならお前がいいと思った。それがお前を傷付けたことだろう。すまなかった」

 これが、アマーリエが花嫁になった真の理由だ。たった一度きりの邂逅を理由に、キヨツグの一存で、彼女から約束された未来を奪い、都市から引き離したのだった。

 従わせるのではなく、義務からでもなく、そのありのままの心が欲しいと思っていたのは、このことがあったから。ひとえに己の我が儘だ。

 すると彼女は黙って毛布を被った。怒るのも無理はないとキヨツグは小さく嘆息したが、アマーリエがくぐもった声で何か言った。

「…………れ、ですよね、それ……」

 最初から口籠っていたらしく上手く聞き取れない。きちんと聞こうと何度か毛布を引いてようやく現れたアマーリエは、色でも塗ったのかと思われるほどの朱色の顔で涙目になっていた。そのまま身体を反転させてこちらに背を向けてしまう。

「……エリカ」

「ちょっ、ちょっと待ってください、あっだめ、ひゃっ……!」

 身を寄せて抱き込むようにすると腕の中で身体を竦める。他人の体温が近くにあることに慣れていないらしいアマーリエはかすかに震えていたが、怯えさせないように静かに囁く。

「……お前の心が欲しい。私を望んでくれ」

 アマーリエは息を吐いて再び身を返すと、キヨツグを不安そうに見上げた。そこにはかすかな寂寥があった。

 キヨツグの密かな思いは確信に変わった。

 アマーリエには拭えない寂しさがある。己の心を殺して周囲を尊重することを選び、本音を言わぬことで心を擦り切れさせてきた過去があるのだ。その傷から溢れ出す物寂しさはいまに限らず常に彼女を覆っている。

 キヨツグはアマーリエの頬に触れた。この寂しい娘を自分はどのように憩わせてやれるだろうと考えていた。どうすればその傷を忘れさせてやれるのか。ここは都市ではなくリリス、古いしがらみを捨て去ることができるはずなのだ。

「……言えなかったこと、叶わなかったことを、叶えられるのが未来だろう。私はそれを与えたい」

「……私は……」

 長い逡巡の末に彼女は目を閉じた。

 まだ心を明かすことはできないのだ。無理からぬことだった。硬く閉ざされた心はそう容易に解けはしない。

 だからキヨツグがこうして彼女を抱き寄せるのは、決して明かされない願いを汲み取り、それを叶えるためだった。

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