CASE.3-12
一時警部の娘と名乗る少女と別れてすぐに問い詰められた。
「いえ、まあ、そうですね…」
答えを用意していないという痛恨のミスに倉本は下を向いた。手には愚かにもコンビニの袋、さっき肉まんを頬張った証拠のごみが残ったままだった。
「おかしな奴だ」と一時は呆れた物言いでデスクに戻ろうとした。
「失踪について何か進展がありましたか?」
「どうしたよ。事件に口出しするなんて」
(警察官が事件に興味を持つことがそれほど奇妙なことか?それに娘には口が軽いじゃないか)と投げかけたい気分だったが、倉本は「いえ、親御さんのことを考えると心配ですから…」とそれとなく探りを入れた。
「そうだな…最近は子供を誘拐する凶悪事件が増えているからな」
あくまでも一般論といった様子で煙草の先に火をつけた。
「警部にはお子さんは?」
確信に近づきすぎず、かつ自然な流れで話題を移したのだが、返ってきた答えは思いもよらぬものだった。
「いない。うちは子供がいないんだ」
「え?」
あまりにも自然的に話す警部の姿に不意を突かれた気がした。目の前の上司と、突然の訪問者のどちらを信じるべきか、またはどちらが嘘をついているのか思いもよらない選択問題を突き付けられたのだった。
「何変な顔している?結婚していても子供がいない家庭なんて少なくないんだぞ」
吐き出した煙草の煙が倉本の顔に覆いかぶさった。煙草の臭いが嫌いな倉本には不快でしかない。思わず相手が上司であろうと顔に不快感をありありと現さずにはいられなかった。
「倉本君、さっきの娘さん何だったの?」
親し気にあざとく倉本の腕をつかんだのはこともあろうか、警部と何らかの関係が疑われる女性職員中原香だった。倉本自身彼女と親しいわけでもなんともない。ことさらに腕をつかまれる猫なで声で声を掛けられる所以など毛頭ない。
察するに見せつけているようだった。今目の前で煙草をふかしている警部に嫉妬させるためなのか、あざとく己をかわいく見せるための演技とでもいうのだろう。
確かなのは彼女が自分に優しくする姿は明らかに好いているというわけではなく、かわいい後輩だからというわけでもない。倉本はそれを心得ていた。
それでも女の魔性の力は絶大で思わず心を奪われそうになる。
倉本は引きつった顔でやんわりと彼女の手から逃れると訳を繕った。
「失踪した女の子の情報を持って来ただけです。まあ、大した情報じゃなかったんですけど。冷やかしみたいなものでしたよ」
「そうなんだ…。倉本君の彼女じゃないんだ」と女はしつこく腕をつかんで離さない。
「違いますよ。彼女はただ、世間話がしたかっただけですよ。困ったものです。それにあの子は高校生です。俺が手を出したら犯罪です」
「そうなの?少し前に流行ったアムラーみたいだったでしょ。スラっとしていたし、髪も今どきの子にしては珍しく黒髪のロングだったじゃない。女の子って成長速いものね」
「そうです。外見だけですよ。中身はまだ子供なんだから、大人の俺が手を出したら犯罪です」
「大人なんて…フフフ」
魔性の女は色っぽく笑った。まるで演じているようだった、それでも彼女にしては本気のようだった。この姿にどれほど多くの男が引っかかったというのだろう。彼女自身、魅力を演じているうちに男の操り方を学んだとでも言うかのように自信で満ちていた。
二人の会話を黙って聞いていた警部は、その間もずっと煙草を吹かせてはわざとらしく倉本の顔にめがけて煙を吐き続けていた。それを倉本は変な顔になりながらも我慢していたわけだが、気が付いた時にはその煙がカモフラージュのように仕草をごまかすこととなった。
警部の顔が明らかに青ざめていた。
倉本がしまったと思ったのと同時に煙草の臭いへの不愉快さが相まって、表面的にはいつもの煙を嫌うその顔にしか見えなかったのだろう。警部は倉本を問い詰めることなく自らのデスクへと向かっていった。
「警部ったらどうしたっていうのよ」
「さあ」
一人だけわかっていない彼女を残し倉本は足早に正面玄関に戻った。長いこと立哨業務を離れていたので、立ち位置にはすでに別の者が代わりを務めていた。
「河合さん、さっきの子なんだけど」
噂話好きの受付嬢は眼鏡の奥の目を輝かせて顔を寄せる。内密な話であることを感じとったようで、第一声はすでに抑えたものだった。
「一時警部の子だったんでしょ?」
「なんでそんな⁉」
倉本の声も自然と囁き声となっていた。
「ただの勘よ。それも強烈な女の勘ってやつ」
(それってなんだよ)と思いながらも話を続けた。
「聞かれても彼女は警部に会いに来たとは言わないでくださいよ」
「なんで?」
ねっとりとした話し方は相手を十分すぎるほどにイラつかせることだろう。
「あなたの言った通り、親子関係、家族の問題になる。これ以上に情報を複雑にはしたくないんだ」
「私嘘なんかつけないわ。もし聞かれたらどう話すべき?」
言っているそばから彼女は嘘をついているのは明白なのだ。噂好きの彼女に嘘が付けないはずはない。それに一時警部の浮気を知らないはずはないではないか。
「俺はあの子が持ってきた女児失踪の情報をガセ情報だったということにした」
「なるほどね。それならいいわ。あとで奢ってよね」
無下には断れない。倉本は仕方なく頭を縦に振って立哨業務に戻った。代わりを務めていた先輩に頭を下げるといつものように署内と外の様子を見回した。
その間も河合と目が合うことが多かったのだが、二回に一回のペースで河合があのねっとりとした顔つきで笑うのだ。そのたびごとに倉本は、試練に巻き込まれたなぁ、と苦笑いを浮かべたのだった。
その日の夜、二つの事件が起きた。
一つはとても小さな範囲での事件。もう一つはとても大きな事件だった。二つのなんの関係性も脈絡も見られない事件はある一点でつながるのだが、それが明らかになるのは少し後のことになった。
正気の沙汰ではなかった俊久は仕事に手が付けられない。
(こんな時にいったい何の用事があったというのだ?)
書類を斜め読みしたところで全く頭に入らない。なので一文字一文字上からしっかり目を通して読んでみたところで全く進捗しなかった。
中原香の見たという女子高生が娘であるという可能性自体を疑うべきではないか。そもそも、平日の昼間に娘がこの警察署に姿を現すということ自体がありえない。学生は授業中、娘の学校からは地下鉄三駅分は離れている。さぼったとしても、娘が父親の勤務する職場に顔を出すなんてこと自体が奇跡のはずなのだ。
それでもその中原香が見たという、倉本一輝が連れていたという女子高生が一時萌絵、つまり我が子であるような気がしてならなかった。
「俺を尋ねに誰か来たかな?」
気が付いた時には正面入り口受付の河合の前にいた。居ても居られなくなった俊久は無意識のうちに情報通の彼女の前にいた。
「何のことかしら~」
河合独特のねっとりとした返答は予想通りだったが、想定していた答えではない。別に期待していたわけでも予期していたわけでもないのだが、不思議な胸騒ぎが俊久の中にあった。
ふっと正面入り口に目を向けると、倉本がちらちらと気にしているのが分かった。わかりやすいほどに警戒していた。
「倉本が連れて歩いたっていう女の子って誰だったんだ?」
俊久は倉本を見つめながら河合に問うた。
「さあ、知り合いの子じゃないの。結構親し気にしていたし、見送った後も外で何やらしていたようだしね~」
「何だって⁉」
何故だか不思議と怒りを覚え、倉本の顔をキッとにらみつけていた。
倉本は全く気が付いていないのか、または本心を隠しているのか微動だにすることなく立哨体勢を崩すことはなかった。
「いいじゃないのよ。倉本君のことだから外でつまみ食いでもしていたんでしょう。ごみ袋持って歩いていたからきっとそうよ。さぼり癖でもあるのかしらん」
それはそれでよくない気もするが、なんだその語尾はというツッコミが即座に浮かぶ。
どちらにしても河合はこれ以上の情報を言うつもりがないらしいことは確かのようだと、諦めて踵を返そうとしたところ、誰かに呼び止められた。
そこには同期の立取芳伸がいた。昔から手癖が悪い男だが、不思議と職を追われない不思議な人間だ。彼のような人間が今ものうのうと勤務していること自体が間違えていると昔から思っていたからこそ俊久は自ら距離を取っていたのだ。
「倉本が探していたのは聞いたか?」
「今更、何でもなかったよ」
立取は不思議そうな顔をしながら鼻をほじった。
「何だよ。汚いなぁ」
「別に、倉本が急にこそこそして会議室に逃げ込んだのが見えたからさ、なんかまずいもんでも見たんじゃねえかとさ」と首にかけたタオルでその指を拭いた。
(どこぞのアイドルコンサート記念にと自慢していたタオルじゃないのか?)
立取を嫌う理由はいろいろあったが不潔感が大きい気がしてならない。これで上司間近ときたもんだから世の中不公平なものだと痛感させられる。
「何だよ、気になっていたんじゃないのか?せっかく耳より情報を教えてやろうと思ったのに」
俊久は何も言わず再び踵を返してデスクに帰って行こうとした。
「待てって」
立取が肩をつかんで行く手を阻んだ。
その手を俊久は思わず払いのけると勢いのまま床に腰を落とした。何も言わず立取は手を差し出してきたが、俊久はその手を無視した。
「わかったよ、教えてやる」と立取は勝手に降参し、ケラケラ笑い声を上げた。
不気味な目で向けながら立ち上がると、立取の出方を窺っていたのだが、周囲の目を気にし、一刻も早く立ち去りたい欲求に襲われた。
「悪かった。話を聞く」
根負けしたように言葉を絞って出たのが謝罪だった。
立取はひとしきりに笑った後満足したのかやっと話す気になったらしく、額の汗をその衛生的ともいえないタオルでぬぐって横の空いているベンチに腰を下ろして、指先を頭上に向けた。
「早い話、監視カメラ調べたらいいだろ」
俊久は舌打ちをして地下へと急いだ。エレベータを待つほどではないと階段を一気に駆け下りた。暗い地下の廊下の先にこじんまりとした部屋がある。そこが中央監視室。室内の安全を監視する部屋だ。
監視員にお願いし2時間前ぐらいから正面玄関配置のカメラ映像を再生してもらった。
そこまでする必要はないのだが、何よりも気になって仕方がない。むしろ別人であることを祈っていた。
早送りでもわかる。一瞬通り過ぎた姿に俊久は青ざめた。そして会議室に逃げ込んだという立取の証言。言い逃れはできない。見られたという羞恥心。顔が赤くなることはなく、むしろ血の気が引いていった。
監視員もさぞかし頭上に疑問符が浮いていただろう。早送りして何を調べたかったのか全く理解できなかったに違いない。突然現れた俊久はまたすぐに退出して行ったのだから。
「ねえ、どうしたのよ~」
猫なで声で図々しくも俊久の腕にしがみつく。人目をはばかってのことだろうか、階段を上ってきたところをたまたま目撃され磁石のごとく吸い付いてきては、即座に離れる。
俊久は会議室の前に立った。会議室は使用中のプレートが差し込まていた。
「確かめたいことがあってな」
「どうしたのよ~元気ないよ」
彼女を無視し目線を廊下の先の給湯室へと向けた。
そこで確信した。娘に見られたのだと。
デスクに戻っている足取りの間もずっと中原は付きまとってきた。やたらといつも以上にちょっかいをかけてくる。人目をはばかるなんて一切しようとしない。女の勘でも働いたとでも言いたいのか、心が離れていかないように本能的にやっているというわけか。体を摺り寄せたり上目使いの猫なで声、おまけに耳元に口を寄せる始末。
有無を言わず俊久はデスク上のすべての書類をカバンに詰め込み出勤票の自分の欄に『早退』の文字を書き込んだ。
「ちょっと、帰っちゃうの」
「急ぎの用事ができた」
「じゃあ、私も。用事が済んだら…フフフ」
この女は未だ図々しく帰宅にすら付きまとうつもりらしい。だからといって俊久は彼女を冷たく突き放すつもりはないのだ。
「また今度。中原くんは今日はしっかり勤めなさい」と軽くあしらうことしかしなかった。
案の定、中原はブーブー文句を垂れた。それが彼女にとって可愛げのある女性だと思って疑わないのだといわんばかりに、魔性の手は尽きない。
あまりにうるさいので彼女の手を引き階段室へと連れて行った。
「こんなところに連れてきて何?」
そのうるさい唇に唇を重ね再び俊久は女を諭した。
「香、今日だけはお願いだから俺の言う通りにしてくれないか?埋め合わせもする。この通りだから」
そう言って俊久は彼女を抱きしめた。
さすがに聞き分けの悪い女という立場を快く思っていなかった中原はそれ以上のわがままをあきらめた。その代わりに上目使いの上に涙さえ潤ませた悩殺テクニックで俊久を見つめては今度は彼女の方からキスをせがんだ。
そそくさと玄関へ抜ける。その際、河合は不敵な笑みを向けていたのが分かったが、リアクションすることなくシラを切ってやり過ごす。
肝心の倉本の姿はなく、代わりの男が立哨していた。
まっすぐ駅を抜け家路を急ぐ。昼間にいた例の行方不明の少女の母親はおらず、手製のチラシが地面に散らかっていた。
(五歳の女の子も見つけられず俺はのんきにも家庭に振り回されているのか)
身から出た錆であることを忘れて、自らの滑稽かつ冗談のような人生を嘆いた。電車内は多くの学生であふれていた。ちょうど下校時刻ということなのだ。本来なら娘の萌絵も乗っている頃合いだ。娘の年齢と同じと思われる生徒たちの間に挟まれ俊久は再び監視カメラの映像を思い出していた。
萌絵であることは明らかとなった今ですら、信じられなかった。口を利かない娘が父親である自分へ向き直したというのだろうか?口を利く気になったから職場に現れた。これだけは間違いのない事実。それ以上に西新東京署を訪れる理由などあるはずはない。
(もしかしたら自分はとんでもないミスを犯したのではないか。娘とやり直す大きなチャンスを無謀にも自ら棒に振った…)
どう弁解したものか電車に揺られながら立ち尽くしていた。
「ぎゃあー」
大きな悲鳴が車内に響く。品をみじんも感じられないその悲鳴に我に返った俊久は反射的に悲鳴のほうを確かめた。
娘がいた。
引きつった表情と身を隠すような捩った姿。
思わず俊久も悲鳴を上げそうになった。
賑わう車内での突然の悲鳴には当然ながら周囲の目を引いた。痴漢騒ぎだと思われかねないので、慌てて俊久は知らん顔を決め込んだ。仮に一連の出来事を監視していたのなら不自然に見えたかもしれない。そんな物好きはいないだろう、と高をくくっていた俊久だった。
「おっさん、萌絵に何したんだ?」
予想に反し何者かに肩を叩かれた。どう言い訳したものか心臓の鼓動が高まってくる。別にやましいことなどないはずなのだ。単純に一言弁解すれば済む話なのだが、プライド、見えない抑圧、お互いの溝、それら全てが邪魔をした。
振り向くと肩を叩いた人物が娘と同じぐらいの女子高生であることに気が付いた。
「アタシの父親」
助け舟を出したのは紛れもなく娘だった。ただ一言だけど『父親』と言われたことをうれしく思った。
「萌絵の父親⁉何だよ、てっきりストーカーなのかと思った。悪い悪い、おじさん」
感慨に浸る間もなく肩を叩いた女子高生が肩を組んできた。最近の若い子の感情の表現方法にはついていけないや、と老いを感じながら身をゆだねた。
娘の友達はそのあとも馴れ馴れしく俊久の肩を組んだまま萌絵と他愛ない世間話 (学校の先生への文句がメイン)をし始めた。気まずくないのだろうかと思ったが、娘の顔を覗き込むのも何だか気恥ずかしい。
「ああ、ここで下りないと」
自宅最寄駅から一つ前の駅で娘の友達は降りて行った。散々、騒いだ挙句に素っ気なく手を振って駆け足でホームを抜けて行った。
車内に取り残された二人だけが気まずく立ち尽くしていた。あれだけ大声で話していたのだ。周りの迷惑になっていたのは必至。二人が親子関係であることは見事に彼女にばらされているから変には思われないだろうけど、そう思われているのではないかと考えると余計に居心地が悪い。
「ねえ」
意識の外から声を掛けられ俊久は肩で驚いて見せた。まさかと思ったが、そのまさかだった。娘が声をかけてきたのだ。驚きのあまり俊久は目を大きく見開いて、まるで初めて見る生物を観察するような感覚で娘を眺めた。
「いいわ。後で」
それは電車内では気まずいという意思表示だと察した俊久は毅然とした態度を取り繕い、
「そうだな」などと本心を偽った。
電車から降りた帰り道、俊久は娘が何を語るのか気になっていた。何せ、数年ぶりの親子の会話なのだ。急いで早退してきた理由のことなんか忘れて浮かれていた。
親子二人で並んで夕暮れの道を歩いた。俊久にとっては夢のようなシチュエーションだった。
「女の子見つかった?」
唐突なその質問の意図はなんだろうか、と言葉が出ない。
「行方不明の女の子」
何故、そのようなことを聞くのか、問い詰めるようなことは極力しない。心を開き始めた娘に厳しいことは言えない。
「情報提供しに来たんだってね。有力情報じゃなかったって倉本君嘆いていた」
一瞬娘の表情が引きつったように見えたが、見ないふりを決め込んだ。
「別に、情報提供したわけじゃない。気になっただけ…だし」
職場に来たことは否定しなかった。
「興味があるのか?」
「それは…その…」
何やらモゴモゴと口に含みを持って思考を働かせているようだった。彼女なりに何か言いたいことでもあるらしかった。
「小さい女の子が突然いなくなったんだ。それは気になるよな」
あえて同意を求める形で娘を見た。しかし彼女は俊久を見ようとはしない。
「クラスの子が学校来ていないの。こういう場合も警察沙汰になるの?」
「誰か不登校なのか?」
「と言うか、家にも帰ってこない」
「家出か…」
俊久は頭を抱えた。どうこたえるべきか迷っているのだ。
現に隣を歩く娘が家出をした際、警察に届け出るようなことはしなかった。だからといって一般論ではないだろう。その親御さんの裁量による。間接的に通報しなかったことが心配の度合いに反比例しているとは思われたくはなかった。
「何日も返ってこなければ通報するだろうな。警察沙汰に動くのは事件性が明白だとか、本人に問題があるとか、そうでないと迅速に動くようなことはしないのが現状だなぁ」と結局事実を述べることにした。
「そう…」
娘の返答はそれだけだった。
「心配だったら生活安全課に頼んでみようか?」
「必要ない。どうせ彼氏のところに入り浸っているはずだから」と娘はなぜだか焦って答えた。
「そうか」
気まずくあり、幸せでもあったひとときは束の間の出来事でしかなかった。
血相を変えて早退してきた理由を今になって思い出した。
何を弁解するため、それとも探りを入れるつもりだったのか?それにしても娘はその話題を触れてこない。彼女の側からしても触れにくい話題ではあるが、それを差し引いてもこうして並んで歩いてくれている。それどころか数年間ぶりに口をきいてくれたのだ。
(見られていなかった?)
そんな淡い憶測が俊久の頭に浮かんでいた。
家に帰ると妻の凛子が夕食を作っていた。早すぎる夫の帰宅に妻は驚いていたが、それ以上に娘と一緒に帰ってきたことに思わず悲鳴を上げた。それも親子まったく同じ奇声であったため俊久も思わず笑いがこみあげてきた。
こんな家族めいた空間に込み上げてくるものを感じた。だが、それは幻覚。一瞬にして地の底へ突き落された。
「ママ、この人、浮気している」
幻聴だと思った。何かの悪い冗談とも。
「どうしてそんな?」
凛子は娘の発言を問い質した。
俊久からは顔が見えず、どんな表情なのか読み取れない。
「お昼に行ったら、女の人と抱き合ってキスしてた」
冗談だと言って欲しかった。血の気など一切ない。娘が小悪魔どころか大悪党に思えてくる。いったいどのような精神でいたら、父親の期待を裏切るほどの無慈悲な鉄槌を食らわせることができるのか。
「誤解だ。そんなことあり得ない」
死に物狂いの悪あがき。自分でも情けないのは承知していた。だが、男の悪い癖というものなのか、とにかく弁解せずにはいられなかった。
「萌絵、すぐに荷物まとめて」
凛子は火を止め、無意識に手にしたままだった菜箸を鍋の中に戻してそう言ったのだ。
萌絵は素直に二階へ駆けのぼった。
「どうしようっていうんだ」妻の行動にまさかと思ったが、聞かずにはいられない。
「出て行きます」
「出て行くのか?証拠は?萌絵の証言だけしかない」
俊久は悪びれることなく愚かな正論を振りかざした。
「あなたのそういうところも嫌い。ここは裁判所じゃないのよ」
『も』とは何だ?一度だってどこか嫌いなところがあるとは聞いていない。まるでそれ以外にも欠点があるということを暗喩的に指摘しているみたいではないか。
煮え切らない思いが瞬く間に俊久を襲いかかった。
「浮気がばれていないとでも思っているの?」
立ちすくむ彼を横に、妻の会心の一言がとどめを刺す。
打ちのめされているうちに二人は姿を眩ませた。あっという間の出来事。帰宅してからほんの数十分で、夢から地獄へ叩き落された。
これは俊久にとっての大きな事件だったに違いない。だが、世間からしたら本当に小単位の小さな事件。
もう一つの事件は同時進行形で明るみに出ていた。
俊久の携帯電話に着信があった。明かりもつけない暗い部屋の中でソファーに腰を下ろし、二つ折りの携帯電話を開く。そこには部下の名前の文字が躍る。
仕事どころではないが、仕事以外に心のよりどころがない。聞くだけでもと思い、耳に電話機をあてた。
「用件だけ伝えるように」
『女児の遺体が見つかりました』
「クソ野郎!」
俊久は電話に怒鳴りつけると家のカギを掛けることなく駅へと向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます