第93話 別離(三)
「これはいったいなんの騒ぎだ?」
陳索は部下を呼びつけると、いかにも不機嫌そうな声色で問うた。
用済みとばかりに
庭園のほうからは、いまこの瞬間も怒号と悲鳴、そしてするどい剣戟音がひっきりなしに流れてくる。
安眠を妨げられた苛立ちを隠そうともしない
「そ、それが……どうやら、屋敷に賊が侵入したようです」
「賊だと? 警備の者どもはなにをしていた?」
「目下のところ応戦中です。しかし……」
なんとも歯切れの悪い返答に、陳索はおもわず眉根を寄せる。
気まぐれで怒りっぽく、そして良心の欠如した男の機嫌を損ねるほど危険なことはない。
部下は意を決したように陳索に向き直ると、努めて落ち着いた声で報告する。
「こちらの警備兵がまるで歯が立たないのです。いまは
「なんという不甲斐ない連中だ――それで、賊の数は!? こちらよりも優勢なのか!?」
「それが、たったひとりだけとのこと……」
言い終わらぬうちに、陳索は部下の頬を扇子でしたたかに打っていた。
よほど腹に据えかねたのだろう。形のいい柳眉は逆立ち、秀麗な面貌は耳の先まで朱を注いだようになっている。
怒りに我を忘れ、倒れた部下の腹を蹴り飛ばした陳索は、吠え立てるように叫ぶ。
「揃いも揃って役立たずのゴミどもめ!! たったひとりの賊もまともに始末出来ないとは、なんのために禄を与えてやっていると思っているのだ!!」
苦しげにうめく部下には目もくれず、陳索の口はなおも聞くに堪えない罵詈雑言を吐き出していく。
「武芸しか能のない下賤の輩などしょせんこの程度ということか。護衛の任すら満足に果たせぬとは、ほとほと失望させてくれる……」
と、廊下のむこうから慌ただしい足音が近づいてきた。
鄭温が騒ぎを聞きつけて駆けてきたのだ。
陳索は
思慕してやまない男が自分に向ける冷たい視線に気づいていないのか、鄭温は心底から気遣わしげに陳索に声をかける。
「陳索さま、ご無事でなによりです。いったい何事が――」
「たいしたことはない。屋敷に薄汚い
「どこへ行かれるのです?」
女の物分りの悪さがよほど癇に障ったのか、陳索はだんと激しく床を蹴る。
驚きのあまり数歩もあとじさった鄭温が目にしたのは、先刻までの雅やかな貴公子の
いま陳索の面上を占めたのは、悪鬼のごとき凄まじい形相だった。
恐懼しきった様子の鄭温にむかって、陳索は声も枯れよと怒声を浴びせかける。
「
***
司馬準と警備兵が激しく争い合う音は、にわか作りの牢獄と化した部屋にも届いていた。
どこかで音が聞こえる。思い過ごしなどではない。
いくら耳をそばだててみても、部屋を十重二十重に取り巻いている壁に阻まれ、明瞭に聞き取ることは出来そうにない。
かろうじて識別出来るのは、多数の人間が大声で叫んでいるらしいということだけだった。
窓のない密室に閉じ込められている以上、外の様子を窺うことも出来ない。
夏凛はもどかしさと不安を押し殺しながら、あらためて薛の手を握る。
「大丈夫よ、薛。なにも心配いらないわ」
返事はなかった。
薛の意識はいまなお現実を遠く離れ、うつろな夢にたゆたっている。
二年ものあいだ筆舌に尽くしがたい辛苦と屈辱を味わったすえに、少女は生きる屍も同然の境涯へと至ったのだった。
夏凛は胸の痛みをこらえながら、なおも薛に語りかける。
「私がついてる。なにがあっても、薛を守るから――」
あの夜、あなたが私を助けてくれたように。
夏凛は言葉にならぬ思いを飲み下すと、そっと薛を抱き寄せる。
生気を失った少女には、しかし、たしかなぬくもりと鼓動が息づいている。
薛はまだ生きている。父や
ただひとり生き残った従者を守ることは、成夏国の王女として夏凛に課せられた使命でもあるはずだった。
部屋の外でけたたましい物音が生じたのはそのときだった。
立て続けに二、三度、男の野太い悲鳴が上がる。
悲鳴に混じって流れてきたひどく耳障りな音に、夏凛はたしかに聞き覚えがあった。
それは金属製の武器と武器がかち合った際に生じるものだ。
誰かがこの部屋の近くで戦っている。
先ほどの悲鳴の
だとすれば、彼らが戦っているのは、昴帝国に敵対する者とみてまちがいない。
そう考えたとたん、夏凛は、暗く沈んでいた心にひとすじの光明が差し込むのを感じていた。
もしかしたら、自分が王宮から消えたことに気づいた袁王妃が救援を送ってくれたのかもしれない。
上手く行けば、薛を連れて無事にここを出られる――夏凛は壁に耳をぴったりと密着させ、外の様子をすこしでも窺おうと努めている。
甲高い金属音はふいに熄み、ふたたび邸内を静寂が包んでいった。
一度は希望を見出した夏凛の心を、言いようのない不安が蝕んでいく。
おそらく戦いは終わったのだろう。
音だけでは、しかし、どちらが勝ったかまでは判然としない。
王妃が救援を送ってくれていたとしても、彼らが敗北しないという保証はどこにもないのだ。
ここが敵地であることを考えれば、返り討ちに遭うという可能性も充分に考えられる。
そうなれば、希望から一転、夏凛と薛はまたしても絶望の淵に落とされることになる。陳索の用心深く周到な性格を勘案すれば、二度と希望の光が差し込むことはないはずだった。
どこからか足音が流れてきたことに気づいて、夏凛はおもわず顔を上げていた。
音はすこしずつ大きくなっている。誰かがこの部屋に近づいている。
夏凛は祈るような気持ちで瞼を閉じる。
やがて、足音は部屋の前でぴたりと止まった。
わずかな間をおいて生じた硬質な音は、戸口にかかった
ぎしっ、とかすかな軋りを立てて戸が開いた。
室内に新鮮な空気が流れ込んでくる。
揺れる燭台の灯に照らされて、肩を寄せ合った夏凛と薛の影は、壁面に長い影を落としていた。
ややあって、夏凛はおそるおそる瞼を開く。
その
「怜――――」
夏凛は感極まったように呟いて、おもわず両掌で顔を覆っていた。
もしいま、まともに怜の顔を見たなら、きっと泣き崩れてしまうだろう。
心の奥底で助けに来てくれることを願ってやまなかった青年は、たしかに目の前にいる。
それでも、夏凛は澎湃と沸き起こる安堵と喜びを胸の奥へと押しやり、まだ気を抜いてはならないと自分自身を戒める。
薛を連れて無事にこの屋敷から脱出するまでは、わずかな油断も楽観も禁物なのだから。
「よう、凛。無事だったか?」
そんな夏凛の心中を知ってか知らずか、怜は常と変わらず飄々とした調子で語りかける。
近所を散歩するついでに立ち寄ったような、まるで緊張感とは無縁の佇まい。
それが夏凛を不安がらせないための演技であることは、着衣に斑斑と散った血飛沫をみれば一目瞭然だ。
司馬準が敵の主力を引きつけているため邸内の警備は手薄だったとはいえ、すんなりと事が進んだはずもない。
夏凛と薛が幽閉されている部屋を見つけ出すまで、怜は十人あまりの警備兵を斬り伏せながら進んできたのだ。
怜自身はかろうじて負傷を免れているとはいえ、上衣を染めた鮮血は、青年がくぐりぬけた過酷な戦いを物語っている。
「怜!! あのね……私……」
「いまはなにも言わなくていい。それより、早いとこずらかるぞ。あまり時間がねえ」
返答の代わりに、夏凛は薛の胴に手を回していた。
背格好は夏凛とさほど変わらないはずだが、そうとは思えないほどの重さが感じられる。
それも無理からぬことだ。意識がある状態ならまだしも、いまの薛の状態では、全体重がそっくり担ぎ手の負担になるのである。
夏凛の膂力では、立ち上がらせるのも精一杯であった。
「この子――薛も一緒に連れていく」
「本気で言ってんのか? どこの誰か知らねえが、おれたちだけでも逃げ切れるか分からねえってのに、他人の心配してる場合かよ」
「他人じゃない。……成夏国が滅ぼされたとき、私を逃してくれた恩人なの」
夏凛は、あえて従者という言葉を使わなかった。
怜はしばらく薛の顔を見つめたあと、真剣な面持ちで夏凛に向き直った。
「凛、この娘は……」
「分かってる。でも……ううん、だからこそ、ここに薛を置いていく訳にはいかないの」
「仕方がねえな」
怜は薛をひょいと抱き上げると、そのまま部屋の入口に足を向ける。
「ありがとう、怜……」
「感謝するのはここを無事に脱出してからだ。司馬準のやつが敵を引きつけてるうちに裏口に回るぞ」
「司馬準も私たちを助けに来てくれたの!?」
「まあな――あいつはどうもいけ好かねえ野郎だが、強さは本物だ。戦った俺が言うんだから間違いないさ」
怜のぶっきらぼうな物言いの裏には、たしかな信頼が宿っている。
実際に矛を交えた経験をもとに、怜は司馬準の卓抜した技量を評価しているのだ。
彼ほどの武人であれば、どれほど不利な状況に追い込まれたとしても、むざむざと生命を落とすような下手は打たないはずであった。
「凛、絶対に俺の手を離すなよ!!」
怜は夏凛の手を引きながら、広大な邸内を駆け抜けていく。
警備兵と遭遇しても、あえて戦おうとはせず、そのまま速度を落とすことなくやりすごす。
薛を抱え、夏凛の手を引いた状態では、いかに怜といえども勝てる道理はない。
そうしてしばらく走り回るうちに、三人はいつしか屋敷の裏手に出ていた。
背後に追手が迫るなか、怜は手近な植え込みにすばやく飛び込む。
たんに身を隠すだけでなく、体力を回復させようというのだ。
事実、怜の呼吸がまったく乱れていないのとは対照的に、夏凛は肩で息をしているありさまだった。
王宮にいたころとは比べ物にならないほど逞しくなったとはいえ、少女の体力にはおのずと限界がある。無理をさせては、裏口に辿り着くまえに動けなくなるおそれもあるのだ。
夏凛の呼吸がようやく落ち着き、追手が遠ざかっていったのを確かめて、怜は注意深く一歩を踏み出そうとする。
「おやおや、こんな時分にどこへお出かけですかな?」
あざわらうような声を浴びせられて、夏凛と怜はほとんど同時に背後を振り返る。
二人の視界をいっぱいに埋めたのは、まばゆいほどの松明の火だ。
警備兵はいつのまにか三人を取り囲み、植え込みの四方は完全に封鎖されている。追手が遠ざかっていったのは、包囲網を気取らせない策略であった。
兵士たちのあいだから進み出た人影を認めて、夏凛はおもわず両目を見開いていた。
「世にもめずらかな小鳥も、よく手入れの行き届いた鳥籠の中にあって初めて価値を持つのですよ。貴女もそうは思いませんか、夏凛姫?」
「陳索……!!」
「これしきの浅知恵で逃れられると思ったら大間違いですよ。いくら心の広い私でも、せっかく手に入れた宝物をみすみす盗人にくれてやるほど寛大ではありませんからね」
夏凛が憎悪の視線を向けるのをむしろ愉しむように、陳索は朗々と語りかける。
貴公子の面上をよぎったのは、どこまでも残酷な憫笑だった。
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