第89話 策謀(三)

「無礼者――その手を放しなさい!!」


 夏凛は陳索ちんさくの腕を振り払おうと必死にもがく。

 武芸には縁のない優男とはいえ、大人の男と少女の膂力の差は歴然としている。

 陳索はじたばたと暴れる夏凛を見下ろし、嗜虐心に満ちた笑みを浮かべるばかりだった。


「相変わらず威勢のいいことだ。お元気そうで安心しましたよ、夏凛姫」

「ふざけないで!! 陳索、せつになにをしたの……!!」

「その娘は従者の分際で貴女の名前を騙っていたのですよ。どうせ貴女になりすましたつもりのならばと、を身代わりに受けてもらったまでのこと……」

「まさか……」


 夏凛の顔から見るまに血の気が引いていく。

 陳索は愉快げに目を細めると、そっと耳打ちするように囁きかける。


「いやはや、死んだ李旺りおうにも見せてやりたかった。自分の妹が私の思うままに嬲られ、獣のように泣き叫ぶさまを……ね」


 陳索の言葉の意味を理解して、夏凛は愕然と目を見開いた。

 それもつかのま、少女の面上をかつて経験したことがないほどの激しい憎悪が染め上げていく。

 怒りに身を任せた夏凛は、柳眉を逆立て、射殺さんばかりの視線を陳索に向ける。


「よくも薛を……!! 許さない……殺してやる!!」

「感心しませんねえ、そんな汚い言葉をどこで覚えられたのやら。それに、まるで私だけが悪いような物言いは筋違いというものですよ」

「だまれ!! おまえのれ言など聞きたくない!!」

「元はと言えば、貴女が素直に私の妻にならなかったのがすべての原因なのですからねえ。言ったでしょう? 彼女は貴女の身代わりだと」


 罪状を言い渡す法吏のような陳索の言葉に、夏凛は強く唇を噛むことしか出来なかった。


 身代わり――たしかに陳索の言うとおりだった。

 二年前の夜からずっと、薛は主人が負うべき責めを代わりに受けてきたのだ。

 今日まで彼女がどんな思いで過ごしていたのかを考えると、堪えていた涙が止めどなく溢れ出しそうになる。

 身体ごと真っ二つに引き裂かれてしまいそうな胸の痛みをどうすればいいのか、いまの夏凛には見当もつかなかった。

 

「ところで夏凛姫、ひとつ私と取引をしませんか」

「取引……?」

「貴女が私のものになるのであれば、あの娘はすぐにでも解放しましょう。下賤な端女はしためなど、本来であればこの私が触れてやる値打ちもないのですからね」


 夏凛は言下に拒否しようとして、声にならぬ悲鳴を上げていた。

 いつのまにか下半身に伸びた陳索の長い指が、スカート越しに太腿をついと撫でたのだ。

 毒蛇が這いまわるようなおぞましい感触に、夏凛の背筋を悪寒が駆け抜けていく。


 そんな夏凛の様子を流し見て、陳索はにんまりと目尻を下げる。


「おやおや、これは意外なほど初々しいこと。二年も李旺と一緒に暮らしていたなら、とうに奴に傷ものにされていたと思っていたのですがね……」

「その汚らわしい口を閉じなさい!!」

「いい加減観念なさったらいかがです? 紆余曲折はありましたが、貴女は最後にはこの陳索のものになる宿命だったということですよ、夏凛姫。このさき朱鉄しゅてつが七国を滅ぼし尽くしたとしても、貴女が私の子を産めば、聖天子の尊い血は残る……」


 言いつつ、陳索はもう一方の手を腰帯へと回す。

 これまで培ってきた熟練の手練手管をもってすれば、娘ひとり籠絡するのはたやすい。

 陳索はちらと夏凛の顔を見上げて、そのまま全身を強張らせた。


 つう、と赤いものがひとすじ、薄桃色の唇から流れ出したのはそのときだった。

 白い肌を無残に染めながら、鮮血は咽頭のどから胸元へと流れていく。

 たんに唇を噛んだのではないことはひと目で分かる。

 

「姫、なにを……!?」

「それ以上触れたら舌を噛み切る。私は本気よ」

「愚かなことを……!! 自分で生命を絶たれるおつもりか!?」

「薛が味わってきた苦しみに較べれば、このくらいなんでもないわ」


 夏凛の気迫に圧倒されたみたいに、陳索は数歩もあとじさる。

 その瞬間、貴公子の秀麗な面貌によぎったのは、隠しようもない恐怖の相だった。


「ご自分の生命を盾に取って、私を脅迫するおつもりですか?」

「そのとおりよ。私が死んでも構わないというのなら、そのまま続けるといい」

「小賢しい真似をなさる――」


 陳索は吐き捨てるように言って、くるりと身体を翻していた。

 夏凛は安堵から全身の力が抜けそうになるのを懸命にこらえて、ぐっと足を踏ん張る。

 まだ倒れる訳にはいかない。

 ここで気を抜けば、すべてが水の泡になる。


「ああ、そうそう……」


 陳索はすばやく扉まで移動すると、ふいに夏凛のほうを振り返った。


「李薛はそこに置いていきます。存分に旧交を温めるがよろしい。もっとも、麻薬くすりのせいでろくに会話も出来ないでしょうが」

「陳索、薛を元に戻しなさい!!」

「もちろん解毒剤を差し上げてもいいのですよ。貴女がその気になりさえすればいつでも……ね」


 夏凛が追いすがるより早く、陳索の姿は扉の向こう側に消えていた。

 直後、かんぬきが降りる音を耳にして、夏凛はようやくこの部屋が牢獄であることを理解したのだった。


***


「夏凛が消えたと?」


 文机に向かったまま、袁王妃は冷えた声で反問した。

 すでに時刻は夜半を回っているが、王妃の私室は一晩じゅう灯りが絶えることはない。

 夜が白みはじめるころまで仕事を片付け、それから朝食まで短い睡眠を取るというのが、いまや国の最高権力者となった彼女の日常だった。


「王宮内は隈なく探したのかえ」

「は……不寝番とのいの兵も、それらしい姿は見ていないと申しております」


 答えたのは司馬準しばじゅんだ。

 軽装の甲冑よろいをまとった食客は、頭を深々と垂れたまま王妃に言上する。


「王妃さま、もしや……」

「皆まで言わずとも分かっておる。あの子は成夏王家の最後の生き残りじゃ。従属派にかどわかされた可能性は充分あろうのう」

「朱鉄の歓心を買うために、姫殿下をボウ帝国に差し出すと?」

「やりかねん連中よ。情けないことだがの」


 呆れたように言って、袁王妃はため息をつく。


 従属派――すなわち、馬氏と姜氏の動向は把握している。

 彼らが水面下で昴帝国の使節とひそかに接触し、交誼を通じていることも、また。

 それでもここまで野放しにしてきたのは、行政と警察を司る両氏を不用意に刺激すれば、文字通りの意味で国が割れることを危惧したがゆえであった。

 現在の沙蘭国は、勢力を拡大しつつある従属派に対して、司法の袁氏と軍事の王氏が戮力りくりょくすることでかろうじて均衡バランスを保っているのである。


 二つの派閥の内訌ないこうは、一歩間違えれば武力衝突に発展するおそれをはらんでいる。

 馬・姜の両氏は、どちらも千人からの食客を抱え、その規模はほとんど私兵と呼んで差し支えない。

 戦力こそ国軍の比ではないが、そのぶん身軽で神出鬼没ということもあり、有事の際には侮りがたい脅威となるはずだった。

 国王・蘭逸らんいつの意識が戻らないまま内戦に突入すれば、いかに辣腕の袁王妃といえども、事態の収拾はまず不可能である。

 その混乱に乗じて昴帝国や周辺の蛮族が動き出せば、沙蘭国はまたたくまに滅亡の途を辿るだろう。

 次期国王たる王太子・蘭苒らんぜんが正式に即位するまでは、従属派の所業に目を瞑ってでも、国内の静穏を保つ必要があるのだ。

 

「司馬準、お前はすぐに王扶建おうふけんの屋敷にお行き」

「王将軍に協力を仰ぐのですね?」

「それもあるがの。子季しきにこのことを知らせるのよ」


 袁王妃は顔だけで司馬準を振り返ると、ふっと相好を崩した。


「ここまで夏凛を守り、一緒に旅をしてきたのはほかならぬ子季だからの。夏凛の身が危ういとなれば、まさか見捨てるような真似はすまい。いまはあの子の力が必要じゃ」


 司馬準は拱手の礼で応えると、音もなく部屋を辞去した。


 ふたたび文机に向かおうとした袁王妃の耳に飛び込んできたのは、けたたましい足音だった。

 三、四人ばかりの人間がこちらにむかって廊下を駆けてくる。

 深夜の王宮内を走り回ることは、ふつうであれば罪に問われる行為だ。

 むろん、喫緊の問題が生じた場合はそのかぎりではない。


「王妃さま!! 王妃さま、大変でございます――」


 入室の許可もそこそこに部屋に転がり込んできたのは、官服をまとった太りじしの男だった。

 さらに三人、団子になって王妃の前にまろび出る。

 秘書官主席の金鴈きんがんとその部下たちである。

 

「なんじゃ、騒がしい。わらわに用件なら落ち着いて話すがよい」

「そ、それが……宰相の馬粛ばしゅくさまと、御史大夫(警察長官)の姜嘉きょうかさまが、王妃さまに面会したいと王宮に――」

「ふむ、こんな夜更けにか?」

「どうしてもお話しなければならないことがあるとおっしゃっています。いかがいたしましょう?」


 袁王妃はしばらく思案するような素振りを見せたあと、ほうと長い息を吐いた。

 やがて、固唾を飲んで見守る金鴈と部下たちにむかって、王妃はあくまでそっけなく言ったのだった。

 

「ちょうどよい――わらわもあの者たちに話があったところじゃ」


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