第51話 昔日(三)

 濃密な砂塵が視界を覆っていた。

 怜は馬に跨ったまま、風の吹くに任せている。

 身にまとうのは、鉄の小札こざねを綴り合せた甲冑よろいと、氈鹿かもしかの角をあしらった兜。

 右手に握りしめるのは、身の丈ほどもある長大なげきであった。

 なぜ自分はここにいる――胸のなかに沸き起こった疑念は、しかし、すぐに消えた。


――そうだ。

――おかしなことなど何もない。

――ここは、なのだから。


 怜はわずかに首を巡らせ、背後をちらと振り返る。

 甲冑に身を固め、軍馬に乗った兵士たちが、自分のすぐ後ろに木像みたいに堵列しているのがみえた。砂煙のなかで、その数は数百とも数千とも知れない。どの顔も鼻より上は墨で塗りつぶしたように黒くにじんでいる。

 砂塵がすこしずつ薄くなっていくように感じられたのは、錯覚ではない。

 やがて怜の目交まなかいを埋めたのは、はるか地平線の彼方まで続く荒野であった。

 くすんだ空の下には、磊々たる岩石と白茶けた砂だけがある。

 と、前触れもなく彼方に黒い影が湧いた。

 それはひとつの生き物であるかのように蠢いたかと思うと、いくつもの小群グループに分かれていった。


「敵だ――」


 叫んだのは誰だったのか。


蛮族やつらを殺せ」


 勇ましい言葉とは裏腹に、その声は悲鳴によく似ていた。

 言われるまでもなく分かっている。


――殺さなければ、殺される。


 怜は馬の腹を蹴り、先陣を切って駆け出していた。

 兵士たちも遅れまいと疾走に移る。無数の人馬は巨大な波涛となって突き進み、耳を聾する地響きが乾いた大地を揺さぶる。

 怜は群れのひとつに狙いをつけると、迷いもなくそのなかに飛び込んでいった。

 馬上で戟を振るうたび、四方で血柱が吹き上がる。

 あらゆる色が欠け落ちたような荒野に、血の朱があざやかに映える。

 夢とも現実うつつともつかないおぼろげな世界にあって、死だけが唯一たしかなものだとでも言うように。


 蛮族の戦士は、聞き取れない言葉を口々に叫びながら、怜にむかって殺到する。

 怜が戟をくるりと回すと、するどい刃が宙空に銀の弧を描いた。

 刹那、曲刀を握った逞しい腕は肩から切り落とされ、精悍な髭面は頭頂から両断されていた。断末魔を上げる暇もなく、ただ酸鼻な屍だけが累々と連なっていく。

 倒れた蛮族てきを無慈悲に踏みしだき、怜は次の標的へと馬首を向ける。


「白面鬼――」

「血混じりの忌み子――」

「殺すことしか能のない半蛮族――」


 地鳴りのような呪詛の声はどこから流れてきたのか。

 どす黒い怨嗟と憎悪に満ちた言葉の数々が、自分に向けられたものであることを、怜は理解していた。


――だから、なんだというのだ?


 戦場にあっては戟を振るい、ひたすらに敵を殺す。ただそれだけのことだった。


 同じことを何度繰り返しただろう。

 気づいたときには、周囲は薄闇に塗られていた。

 天を振り仰げば、三日月が冴えざえとした光を降らせている。

 敵も味方も忽然と姿を消している。屍体はおろか、血が流れた形跡すらない。

 見渡すかぎりの空漠たる荒野に、怜はただ一騎でぽつねんと佇んでいるのだった。

 凄絶な殺し合いのすえに、この世の一切合財は烏有に帰したのか。

 それとも、すべては一睡の夢にすぎなかったのか。

 戟を無造作に放り、兜を脱ぎ捨てたのは、べつに疲労を覚えたからではない。

 それらが、もはやのように感じられただけのことだ。

 深く息を吸い込んで、怜はまぶたを閉じる。


 ふたたび両目を開くと、周囲の景色は一変していた。

 怜を取り巻くのは、殺風景な荒野ではなく、よく手入れの行き届いた豪奢な庭園であった。

 ちょっとした湖のような庭池には白鳥が遊び、花壇には色とりどりの花々が咲き乱れている。

 ところどころに人が立っているように見えるのは、すべて石造りの彫像である。七国の芸術品とはあきらかに趣を異にする写実的で肉感的な造形には、異国の影響が見て取れる。

 青々と茂る生け垣の向こうに目を向ければ、いくつもの尖塔をそなえた壮麗な宮殿が陽炎かげろうにかすんでいる。

 外壁が白く輝いているのは、このあたりで産出される特殊な石材をふんだんに用いているためだ。


「兄様、ここにいたのね」


 背後から無邪気な声がかかった。

 はっと振り返った怜の胸に飛び込んだのは、十歳になろうかという少女だった。

 息を切らして駆けてきたためだろう。絹の襦裙ドレスのひんやりとした触感の奥には、熱いほどのぬくもりが息づいている。


「おかえりなさいっ!! 子季しき兄様!!」


 弾むような声で言って、少女は怜の胴に手を回す。

 怜の蜂蜜色の髪よりなお明るい、輝くような黄金の髪と、乳白色の雪膚。

 瞳の色は、怜とおなじ藍青色ラピスラズリであった。


「ただいま、明蓮めいれん――」

「今度のいくさはどうでした? いっぱい手柄を立たのでしょう?」

「ああ……」


 悪気もなく問うた明蓮に、怜は言葉を濁す。

 初陣以来、戦功にかけては他人の後塵を拝したことはない。この手で数えきれないほどの蛮族てきを殺し、配下を率いては堅固な砦を次々に陥落させてきた。

 それでも、戦場の残酷さを知らない妹に、本当のことなど言えるはずもない。

 血に汚れた手を清めることが出来ないなら、黙して語らなければよいだけのことだ。

 少女の世界には、ただ美しく楽しいものだけがあればいい。


「兄様、どうかしたの? あまりうれしくないみたい」

「そんなことはない。俺もまた明蓮に会えてうれしいよ」


 明蓮の可憐な顔をよぎった不安をかき消すように、怜は笑ってみせる。

 次の瞬間、「きゃっ」と明蓮が驚いた声を上げたのは、怜がふいにその身体を持ち上げたためだ。

 久しぶりに触れた妹の身体は、紙人形みたいに軽かった。

 長く戦場に身を置くうちに、刀槍の重さに慣れすぎてしまったということもある。

 この世でたったひとり血を分けた妹の存在は、目を瞬くあいだに消えてしまいそうなほど儚く、頼りなく、そして愛おしかった。

 

「兄様……どうして泣いているの?」

 

 明蓮に問われて、はじめて怜は自分が涙を浮かべていることに気づいた。

 

「どうしてかな――」

「変な兄様。もしかして、お腹が痛いの?」

「涙が出るのは、痛かったり、悲しい時だけじゃないんだよ」

「そうなの?」

「いつか明蓮にも分かる日が来るさ」


 違和感を覚えたのはそのときだった。

 両手に感じていた明蓮の体重が、ふっと軽くなったのだ。

 愕然と目を見開いた怜のまえで、最愛の妹からみるみる色彩が欠け落ちていく。

 陽光にきらめいていた髪は灰色に、淡雪のような肌は乾いた土の色へと。

 藍青色ラピスラズリの瞳を染めたのは、闇よりもなお深い漆黒であった。

 

「ねえ、兄様――私があげたお守り、ちゃんと大切にしてくれている?」

「もちろん……」


 言いさして、怜は肌身はなさず首にかけていたはずのそれがないことに気づく。

 琥珀をあしらった首飾り。初陣に臨む兄の無事を祈って、明蓮が腕利きの職人に作らせたものだった。


「……失くしてしまったの?」


 ちいさな手を伸ばし、明蓮は怜の頬にそっと触れる。

 陽だまりの温もりを宿していたやわらかな手は、氷に劣らぬほど冷たく硬かった。

 後じさろうにも、足を置くべき地面はどこにもない。

 いつのまにか庭園も空も消え失せている。

 天も地もないまっさらな世界のなかに、兄と妹のたった二人だけが取り残されたようだった。


 明蓮の唇が動いた。

 声は聞こえない。それでも、何を伝えようとしているかは分かる。

 怜の双眸からひとすじ、ふたすじと光るものがあふれ、頬を流れていった。


***


「明蓮――――」


 怜は寝台の上で目を覚ました。


「……夢、か……」


 ひとりごちながら、怜はすばやく全身に視線を走らせる。

 腹に巻かれたさらしには薄血が滲んでいるが、そのほかには外傷らしい外傷も見当たらない。昨夜の戦いで頬に受けた切り傷は、眠っているあいだに軟膏でも塗られたのか、痛みはすっかり引いている。

 手足に残るわずかな痺れは、毒矢の成分がまだ完全に抜けきっていないためだろう。

 全身が水浴びでもしたみたいにじっとりと濡れているのは、毒を代謝する際に激しく発汗したためか、それともあの夢のせいか。


(どこだ、ここは……?)


 怜はゆるゆると上体を起こし、周囲を見渡す。

 飾り気のない室内はよく整頓され、床には塵ひとつ落ちていない。

 およそ生活の気配を感じさせない部屋の様子に、怜はどこか不気味なものを感じずにいられなかった。

 かすかな軋りを立てて扉が開いたのはそのときだった。

 とっさに顔を向ければ、鷹徳が扉に手をかけたままの姿勢で呆然と立ち尽くしている。


「怜!! 目を覚ましたんだな!?」


 感極まったように言って、鷹徳は怜のもとへ駆け寄る。


「本当によかった……僕はもう駄目かもしれないと……」

「ベタベタくっつくんじゃない。そんなことより、ここはどこだ……?」

「あなたを診てくれた医師の庵だ。あのあと、僕と凛殿でここまで運んできた」


 鷹徳はふと思い出したように怜の顔を見つめる。


「そういえば、さっき『明蓮』と叫んでいるのが聞こえたが……」

「おまえには関係のないことだ。忘れろ」


 一切の感情が欠け落ちた声で、怜はぽつりと呟いた。

 その態度にただならぬものを感じ取ったのか、鷹徳もそれ以上問いを重ねることはなかった。


「で、その医者というのはどこにいるんだ?」

「さっきから探しているのだが、どこにも見当たらない。凛殿も姿が見えないし……」

「あいつをひとりにしたのか!?」

「僕が目覚めたときには、もうどこかに行った後だった。あの医師せんせいと一緒なら、それほど心配することもないと思うが……」


 鷹徳の話に耳を傾けながら、怜は上体をほとんど垂直ちかくにまで起こしていた。


「怜、何をするつもりだ?」

「凛を探しに行く。昨晩の連中があれで諦めると思うか。この場所も、奴らはとっくに嗅ぎつけているはずだ」

「その怪我では無茶だ!! 動けばまた傷が開くかもしれない。凛殿は僕が探しに行くから、あなたはここでじっとして……」

「この程度の傷でいつまでも寝込んでられるかよ」


 ぶっきらぼうに言って、怜は寝台から降りる。

 脇腹のするどい痛みに眉をしかめたのも一瞬のことだ。

 寝台のそばに畳んであった上衣うわぎを引っ掴み、やはり床に置かれていた長剣を腰帯に差し込む。

 その機敏な挙措は、ほんの数時間前まで生死の境をさまよっていた人間とも思えない。


「何ボーッとしてんだ。さっさと行くぞ、鷹徳」

「探すとは言っても、凛殿と医師がどこへ行ったのか見当もつかない。その身体で闇雲に歩き回るのは危険だ。ここはやはり僕だけで……」

「この庵に井戸はあったか?」

「いや――」

「だったら、たぶん水を汲みに川に降りる道が近くにあるはずだ。谷筋の道を見つけられれば、あとはそこを辿っていくだけでいい」


 言い終わるが早いか、怜はさっさと歩き出していた。

 鷹徳もあわててその後を追いかけていく。

 庵を出た二人を迎えたのは、まばゆいほどの夏の日差しであった。

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