第11話 イタリアの双子 ※残酷な描写あり

 閑静であるべきシチリアの地上を、声にならぬ悲鳴がひときわ鋭く奔る。

 が、広大な草原に広がりきらぬうちに、その不吉な響きはすみやかに力を喪い、大気中に消えていった。


 ひとりの女が、丈の長い下草に足を取られそうになりながら走っている。悲鳴の主だ。

 長い黒髪を振り乱し、美しい細面には汗を浮かべながら、背後に追いすがる『何か』から必死で逃れようとしている。

 その身にまとっているのは、ひどく古めかしい法衣だった。だが、その服地はまるで炎に嬲られたかのように焼けこげていた。手足もひどく焼けただれ、無惨な熱傷を晒している。


 苦痛。喘鳴。きれぎれの呼吸。それは酷使された肉体が語りうる、ただひとつのメッセージだった。『――わが主よ、あなたの命運は尽きた』と。

 やがて、疲労は極に至り、それは疾く絶望を招き寄せる。女はその場にうずくまった。


 その丸まった背に、ゆっくりと人影が被さる。


「……ずいぶん長いこと走ったね。疲れたろう? そろそろ休んでもいい頃だ。そう、思わないかい」


 影の主は、ひどく棘のある声で、そう言った。


 女は、苦悶に喘ぎながらも振り向いて面を上げ、その声の主と相対する。


 そこに立っていたのは、姿だけ見れば可愛らしいとも言える少年だった。

 柔らかそうなブラウンの頭髪の下には、大きな瞳、そして整った鼻梁。

 だが、その秀麗な相貌にやどるのは、昏い衝動で満たされた苛烈な意志。


 女は、すぐに目を背けて、言った。


「……賢人……会議……なぜ……わたしを……追う……?」


 その問いを受けて、少年は頬を歪めて嗤った。


「あはははっ! 今はそれを聞くときじゃないと思うけどね」


 高らかに哄笑こうしょうする。その声は、顔つきと同じように幼い。

 太陽を背にして、かれは女を見下ろし傲然と立っている。


「もしかして君は『これで終わりだ』……とでも思っているのかい?」


「…………」

 女は答えず、ただ気力のみを頼りとして、少年を睨みつける。


「ほら。まだ君には余力がある。そうだよね、『完成者』さん? 全力を尽くさずにこんな所でぶっ倒れるのって、とても格好悪いよね。僕だったら恥ずかしくて死にたくなるだろうな」


 少年の愚弄に、女はまなじりに涙を浮かべ、そして諦めたかのように目を閉じた。

 彼女は、己の魔力が尽きたことを知っているのだ。


 少年は、そんな彼女の内心を見透かしたかのように、なおも告げる。


「……ほーんと、シチリアは美しいよね。まさに『風光明媚』ってやつ? 僕もこんなつまらない用事じゃなくって、観光旅行か何かでここに来たかったな。君もそう思うだろう? ここは良い所だよね。……特に」


 少年はすこし腰を落として、女の顎に右手の人差指をあてて、無理矢理におとがいを反らせた。女は抗う気力すら喪ってしまったのか、もはやその不愉快な指を叩き落とすこともできない。

 無抵抗な女の、苦悶、喘ぎ、そして涙。

 少年は微笑んで、言った。


「――そう。死に場所として、これ以上の場所はないよね」


 そして、少年は左手で素早く紋章を描き、「力ある言葉」を詠唱する。


「       」


 異様な韻律を紡ぎ終えたとき、少年と女を取り囲むように、炎の胸壁が生じる。


「……火焔密集陣パイロファランクス。君の貴い生命の終演を包むには、このぐらいに豪奢な柩が必要だろう」


 幾重にも重なり、少年と女を包み込む炎の壁は、天を焦がす逆しまの瀑布のように、轟然たる炎を噴き上げている。


「……もう……殺せ……」


 女は言った。火焔の照り返しを受けて、乱れた黒髪の上に茜色の輝きが舞い踊る。

 自暴自棄となった女の言葉に、少年はひどく残念そうに応えた。


「だめだよ。さっきも言ったろう。君はまだ全力を出し切ってないんだ。そんな死に様は御免だろう? だから、手助けしてあげるよ。……キアラ、こっちに来て!」


 炎の轟音に負けぬように、少年は再度、キアラ、と叫んだ。

 その呼び声に応える存在は、炎によって隔てられた領域の外にいるようだった。


「…………?」


 ひとたびは「死」を覚悟した女も、少年の異様な言動に、ふたたび頭をもたげた。

 彼女の視線の先……少年の背後、火焔の壁の中に、わずかな翳りが生じた。


 女のしぐさに気づいてか、少年はより歪んだ笑みを浮かべる。


「キアラ。さあ、こっちに来て。ひとつの命を極限まで輝かせる時が始まるんだ。そのためには、おまえの力が要る」


 火焔の中の翳りは、より大きさと密度を増してゆき、やがてそれは壁面を突き破った。


 現れたのは、球状の光の薄膜に包まれた少女だった。

 その少女は、背格好は少年によく似ていた。髪の長さは異なるものの、髪の色も同じブラウンで、整った眉目にも少年との共通点が多い。だが、その身にまとう雰囲気はまったく異なっていた。歪んだ苛烈さを秘めた少年と、謎めいた何かをひそやかに内包した少女。


 少女は清らかな霊光に包まれながら空中を浮揚し、やがて少年の脇に舞い降りた。

 そして、可憐な口唇を開いて、「ルーカ、私は何をすればいいの……?」と、呟いた。


「キアラ。この女に『力を貸し与えて』くれ」


 少年……ルーカは、そう命令した。


「……うん」


 返事とともに、少女は両手を女にむけて掲げた。


「……何を……する気だ……」


 後ずさる女に一切の注意を払うことなく、少女は聖句を紡ぐ。


「       」


 神に捧げるに足る言葉が少女の口から離れると、その言葉は瞬時にして「容れられた」。

 焼け焦げ傷ついた女の全身が、天より降りきたる柔らかい聖光に包まれ、無数の熱傷は驚くほどの速さで癒された。


 その様子を満足げに眺めていた少年は、

「そうだ、キアラ。それでいい。……どうだい、完成者さん。今度『こそ』、本気を出してもらえるよね」

 その言葉に呼応するかのように、少年と女をとりかこむ火焔の勢いがいや増した。


 少女は、すでに火焔の陣の外に待避していた。……少年の要請に応じて、何度でも「獲物」に活力を与えられるように。


 そして、女は少年の言葉に、魂を圧し潰すほどの呪詛をこめて答えた。


「……何度でも、わたしを弄び、焼き滅ぼすがいい! ……その驕慢きょうまんが、必ずや貴様をも滅ぼすのだから!」


 女は両腕を突き出し、そこに、少女より付与された魔力を集中させる。凝縮し、最大の破壊力をもたらす光球を、驕れる少年に叩き付けるために。


 結末は……決まっていた。渾身の魔力をこめた一撃は、しかし少年を屈服させるには至らない。 だが、ここで抗うことを諦めるわけにはいかない。

 女は、ただ、そう考えた。『完成者』の、その誇りを守るために。


 いずれ、あの少年に敗北を教える者が現れるだろう。その者の名が声高く呼ばれる日を夢見て倒れることが、無名の者の喜びだ……と、己に言い聞かせつつ。


+ + +


「……キアラ、今回のやつはひどく執念深かったな」


「うん」


「すべての敵意を刈り尽くし、生命の発露そのものを諦めさせるまでに、僕はいったい何度あいつを倒したんだろう?」


「……覚えてない」


「だろうね。完成者たちの長い長い生命にこびりついた、つまらないプライドや下らない執着をはぎとって燃やし尽くす。そうすることで、ようやく奴らは従順で純粋な、一個の「知識の結晶」へと変化しうるんだ。まったく大変だ。ぼくたちの仕事は因果なものさ」


「うん」


「さあて、次の仕事は日本だってさ」


「……遠い」


「ああ。でも、そのまえに、『こいつ』を本拠地に預けていかないとね」

 少年……ルーカは、背後に従えている霊光の柩を親指で指し示した。


 キアラの聖句によって生み出された光の柩の中には、さきほどまで延々と戦っていた、『完成者』の女の肉体が納められていた。衣服はひどく焼け焦げているが、肉体には全く損傷はない。全て、キアラが癒したのだ。ただ、その顔に宿るべき感情は摩滅しきっており、意思だけがなかった。


 その表情なき貌を見て、少女……キアラは、すこし悲しそうに眉根を寄せた。


「……あの」


「どうした?」


「わたしは、兄さんの言うことなら、ぜんぶ聞く。けど、こういうやりかたは……良くないと……思う」


「相手の心を叩きのめすのがかい?」


「…………」

 こくん、と、キアラは無言で頷いた。


「でもね、僕は力を示さなくちゃいけないんだ。敵を、そして、僕らの仲間面をしているバカどもを常に圧倒しておかないと、奴らは逆に僕らを嘗めてくるんだ。ぼくらはほら、残念ながら子どもといわれる年齢だからね。それにね、キアラ……ぼくは」


「…………」


 ルーカは歩みを止めた。


「ぼくはね、おまえを守りたいんだ」

 そう言って、ルーカは微笑んだ。


 キアラは、むりに笑みをつくって、そして俯いた。


 ルーカとキアラ。『イタリアの双子』というふたつ名で呼ばれる兄妹の笑みは、広大な草原の中にあって、余人にそれを見るものはいなかった。無人の地でのできごとだ。


+ + +


 余人にそれを見るものはいない筈だった。


 ……が、シチリアの遺跡を立ち去ろうとするイタリアの双子を、見下ろす者がいた。


 その者は、茫洋とした幻のような姿の騎士だった。

 身にまとった鋼の甲冑には、複雑な文様が刻まれている。

 跨る幻の馬は、ひとたびも嘶かず、鞍上の主人を支えていた。

 眼下の双子が曳いている光の柩を見つめる瞳は、兜の奥でわだかまる闇のようであり、外界の光を全く映すことはなかった。


 やがて騎士は、まるで「この世界に飽きた」とでも言いたげに、その茫洋とした姿を散華させていった。

 消える間際に、旧い言葉で呟いた。


「この戦、狩るには値せぬ」

 ……と。

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