第60話 引き継ぎ
待ち合わせたホテルのラウンジには、東子の方が先に来ていた。
彼女は窓際の席に座って、夜の街を見下ろしながら、ティーカップを傾けている。
黒のニットに、白いふわっとしたスカートの東子。
「私を待たせるなんて大物じゃない」
待ち合わせの時間五分前に着いた俺に対して、東子がそんな憎まれ口を叩いた。
彼女は、顔を半分覆うような大きなサングラスを掛けているのだけれど、そのモデルとしてのオーラが隠し切れていなくて、誰かに気付かれないかと、こっちの方が冷や冷やする。
ラウンジには、俺達の他に五、六組がいて、こっちを見ている向きもあった。
仕事終わりで来たから俺だけ仕事用のスーツで、着飾った人達のなか、場違いなのは否めない。
俺は、東子の前の席に座ってコーヒーを頼んだ。
「それで、話ってなに?」
腕組みした東子が訊いた。
サングラスをしているから、その視線を読むのは難しい。
「ああ」
俺は、コーヒーに口をつけて一呼吸置いた。
「これから景都ちゃんのこと、よろしく頼むよ。なにかと目をかけてあげてほしい」
俺はそう言って頭を下げる。
「ふうん、私に、他の女のこと頼むんだ」
東子はそう言って、偉そうに足を組んだ。
彼女の白いスカートがふわりと揺れる。
「
「おい!」
俺が言ったら、東子が吹き出した。
「嘘、嘘、和臣に頼まれなくても、あの子のことは大切にするよ。私を上手く撮ってくれるカメラマンになるかもしれないし、なにしろ、彼女真っ直ぐで可愛いし。見てると、こっちも元気になるからね」
東子が笑顔のまま言う。
「それに彼女、幸運のF3の持ち主だし」
東子がサングラス越しに俺の目を覗き込んだ。
「で、他には?」
「いや、それだけだけど」
「なーんだ。和臣が、私とよりを戻そうって言ってくれるのかと思ったのにな」
そう言って足を組み替える東子。
サングラスの下から、俺が困るのを見て楽しんでいる。
「そうだ、和臣が出ていくなら、私があそこに住もうかな?」
「えっ?」
「だって、あそこにいれば、景都ちゃんの美味しいご飯を食べられるし、帰るとお帰りなさいを言ってくれる人がいるし、いい考えだと思わない? どうせ、今のマンションは寝るために帰るだけだしさ。家賃だって節約できるでしょ? どう思う?」
「東子の好きにすればいいよ」
あそこで東子が一緒に暮らすのは、悪いアイディアではない気がした。
東子はこういう性格で、鼻っ柱が強いから、景都や杏奈さんを変なトラブルから守ることが出来るだろう。
詐欺や悪質な訪問販売は追い返すし、ゴキブリが出ても、新聞紙を丸めて立ち向かうし。
「それで、あなたの方はどうなの?」
今度は東子が訊いた。
「このまま、向こうに行っちゃうんだ」
「まあ、そうなる」
引き継ぎや向こうの研修センターの立ち上げなど、ここまで事態が進んでいて、もう後戻りはできない。
「誰か一人、向こうに連れて行っちゃいなさいよ。黙って俺についてこいって、強引にさ」
東子はそんなことを言い出した。
「和臣の周りの女の子、あなたがついてこいって言えば、誰だってついていくと思うよ」
彼女が続ける。
「それは、私も含めて」
東子はサングラスを外した。
サングラスの下の東子は、悪戯っぽい顔をしている。
モデルとして見る者すべてを魅了するプロの顔だ。
「からかうなよ」
俺は、石になる前に視線を外して、目を伏せるしかなかった。
「ずるいんだよね、和臣は。周りの女の子をみんな幸せにして、そして一人で去って行くんだもの。勝ち逃げだよね。カッコよすぎでムカつく」
「そんなことあるか」
確かに俺の周りには才能豊かな女性が多いけれど、それは、元々、彼女達に才能があったのだ。
もし、俺になにかしたことがあるとすれば、それは、彼女たちの才能が世に出るように、少しだけ手伝いをしただけだ。
「元カノとして、元彼には幸せになってほしいからさ。だから、冗談抜きで誰か一人連れてっちゃえば?」
「考えとくよ」
もう、これ以上議論してもしょうがないから、適当に言っておいた。
「景都ちゃんのことは分かりました。私が見守るし、カメラマンの
そう言うと、東子は席を立った。
コートを羽織って、ラウンジを出て行く。
誰もが、その姿に振り返った。
こんな完璧な彼女が、寝るときはいつも、お気に入りのタオルケットをカジカジ噛むのは、俺の胸だけに納めておこうと思う。
「師匠、おかえりなさい」
マンションに帰ると、景都が出迎えてくれた。
杏奈さんも顔を出す。
「こんなに遅くなって、やっぱり忙しいですか?」
「まあね。引き継ぎやらなんやらでね」
俺は嘘をついた。
でも、引き継ぎというのは、あながち、間違った表現ではないと思う。
「それじゃあ、最後の撮影は厳しいでしょうか?」
彼女が心配そうな顔で訊いた。
「いや。それは、なにをおいても絶対に行くよ」
今週末、俺は景都と最後の撮影に行く約束をしている。
それには、たとえ社長命令といえども断って出かけるつもりだ。
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