第35話 四人の食卓

「こんばんは」

 俺が頭を下げると、東子とうこが微笑んだ。

 広告写真の中で見せるような、完璧な笑顔の東子。


「初めまして」

 彼女が言った。


「初めまして」

 俺もそう返す。


 初めまして、って言うからには、彼女、この場では俺と初対面っていうことで通すらしい。

 まさか、わずか数ヶ月のうちに、数年一緒に住んだ俺の顔を忘れたってことでもないだろう。


「師匠、トーコさんもカメラがお好きみたいで、私が仕事場に持ってったF3のことで話が合って友達になったんですよ。私が、一緒に住んでいる師匠にカメラのこと教えてもらってるって言ったら、トーコさん、師匠のカメラも見たいっておっしゃって、お連れしました」

 景都が言う。


 景都が杏奈さんの紹介で、出版社のイベント設営のバイトに行ったのは知っていた。

 けれど、それが東子のイベントだなんて知らなかった。

 そういえば最近、彼女が写真集だかフォトブックを出すっていうのは、どこかで見聞きした覚えがある。

 それに関連したイベントなんだろう。


「大沢さん、カメラ、見せてもらってもいいですか?」

 東子が他人行儀に訊いた。


「ええ、どうぞ」

 俺も他人行儀に返す。


 リビングから廊下に出た。

「あっ、トーコさん、そっちは機材部屋じゃなくて、師匠の寝室です」

 東子が俺の部屋のドアを開けたから、景都が慌てて言う。


「あっ、そうなんだ。ごめんなさい」

 そう言いながら、東子が俺の部屋に素早く目を走らせたのが分かった。

 俺がこのマンションでどんな生活をしているのか、彼女はそれを確認しようとしたのかもしれない。


「ふうん、立派なコレクシュンですね」

 機材部屋で、防湿庫に入ったカメラやレンズを見ながら東子が言った。

 本当は彼女、この部屋にある機材を知っているはずで、そのカメラやレンズのほとんどは、彼女に向けられたことがある。

 彼女を写してきたカメラだ。

 けれど、東子はそんな素振りを少しも見せなかった。


 しばらく機材部屋を見たあと、俺達はリビングに戻る。


「師匠、トーコさんが私の料理を食べてくれるっていうので、一緒に晩ご飯にしましょう」

 景都がエプロンを着けた。

「彼女も一緒に食べるんだ」

「はい、こんなチャンス滅多にないですよ」

 景都は有名人の東子に完全に舞い上がっている。


「なんだか景都ちゃん、新婚の若妻って感じだね」

 エプロンを着けた景都に向けて、東子が言った。



 ダイニングテーブルで、四人で食卓を囲んだ。

 東子が俺の隣に座って、対面に景都と杏奈さんが座った。


「ふうん、大沢さんは、会社員をしていらっしゃるんですね」

 食事中の会話で、東子が白々しく訊く。

「ええ」

「写真はご趣味で?」

「ええ」

「今でも、フィルムカメラで撮ってらっしゃるんですか?」

「はい」

 俺は、短く返した。

 俺が短い返事しかできないのは、有名人と会って緊張しているだけだって、景都や杏奈さんが思ってくれればいいのだけれど。


「師匠は、私にフィルムカメラの使い方を教えてくれてるうちに、フィルムもいいなって、もう一度、フィルムに戻ったんですよね」

 景都が付け加えた。

「師匠には、毎週末のように撮影に付き合ってもらってます」

 俺の代わりに景都がしゃべる。

「師匠と海に行ったり、山に行ったり。昨日までは、師匠のご実家にお邪魔していて、お盆休みはずっとそこで過ごしてたんですよ」

 声を弾ませて言う景都。


「ふうん、ご実家、楽しかったでしょうね」

「はい、すごく楽しかったです! お母さんに浴衣ゆかたを直してもらったり、花火を見たり、お祭りに行ったり」


 初対面の人に、プライベートのことを簡単に話すのはよくないんだよ、って、俺は対面の景都に念を送った。

 けれど、悲しいかな、景都に俺のテレパシーは届かなかった。


「お姉ちゃんと私が師匠の前で水着になって、グラビアみたいな写真の撮り方を教えてくれたこともあります。私、その時、ビキニに挑戦したんですよ」

 景都が自慢するように言う。


「へえ、大沢さんって、本当に親切でいらっしゃるのね」

 言葉遣いが丁寧なのが、逆に恐い。


「はい、師匠はとても親切です」

 東子がこれ以上、景都から何か聞き出さないように、俺は祈るような気持ちでいた。

 口にする景都の料理の味が、まったく分からない。


「景都ちゃんのお料理、すごく美味しい。私、料理が全然ダメだから、うらやましいな。こんなお嫁さんが欲しいくらい。毎日こんな料理が食べられて、大沢さん幸せですね」

「そんなことないです。あり合わせで作った、平凡な料理ですみません」

 照れながら景都が言う。


 食事をしながら、言葉少ない杏奈さんが、俺のことをチラチラ見ていた。

 杏奈さん、なにか気付いたんだろうか?


 俺にとって拷問のような食事は、そのあと一時間ほど続いた。



「景都ちゃん、私そろそろ帰るね。タクシー呼ぶから」

 東子がスマートフォンを取り出す。


「いえ、そういうことなら、俺が送りますよ」

 俺が買って出た。

 このまま、もやもやしたまま別れたくなかった。

 なんとか二人だけで話したい。

 東子に訊きたいことは、山ほどあった。


「大沢さんって、紳士的なんですね。でも、いいのかしら」

 東子が訊く。


「いいんですよ、トーコさん。師匠に送ってもらってください。師匠、ミニっていう、可愛い車に乗ってるんですよ」

「へえ、そうなんだ」

 感心したように頷く東子。

 俺の車がミニなのは、彼女が選んだんだから当然知っている。



 景都と杏奈さんが、東子と俺をエレベーターまで送った。


「今日は来て頂いてありがとうございました」

 景都が頭を下げる。

「うん、お夕飯ごちそうさま。また今度ね」

 景都と東子、お互いに手を振って別れる。


 エレベーターの扉が閉まった。


「東子、どういうことなんだ」

 エレベーターの扉が閉まった瞬間、俺は訊いた。


「それはこっちのセリフ。私と別れた途端、和臣が女子高生のところに転がり込んでるなんてね」

 腕組みした東子が言う。

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