空言ミストノーツ
青波零也
Vector to the Azure
Prologue
01:ゆめの青空
青――それは、遥か遠くに広がる色の名前だ。
俺とあいつの目の前には、一枚のカンヴァスがある。部屋を埋め尽くさんばかりの無数のカンヴァスの中でも、一際大きな一枚。
「今回はまた大作だな、オズ」
「まあな」
――青。
カンヴァスを埋め尽くすのは、青だ。だが、その青もカンヴァスの上下で色合いが異なる。上は、グラデーションを描く薄い青。そのところどころに、白い煙のようなものが浮かんでいる。そして、ちょうどカンヴァスの中心を走る線によって区切られた下半分は、深く、今にも飲み込まれそうな底の深い青を湛えている。ただ、表面には白いさざめきが散っていて、光を孕んでいることがわかる。
どこまでも広がる青空と、空を映す巨大な水面。
それはまさしく「この世の誰も見たことのない」光景だ。天が青いわけがない。こんな巨大な水溜りが存在するはずがない。カンヴァスを指差して笑う奴を何人も見てきた。
だが。
「また夢に見たのか? 青い空の夢」
「ああ」
俺は大げさに息をついて、傍らに佇む相棒を見上げる。
その澄み切った瞳は、真っ直ぐにカンヴァスに向けられているようで、きっと、遥か彼方を見ている。それは、鮮やかな光と、青に満ち溢れた世界だ。誰一人として見たことのない、もしかしたらこの世界ですらないかもしれない「どこか」を見据えて離さない。
やがて。
「なあ、ゲイル」
ぽつりと、青い沈黙に包まれていた部屋に響く、声。
「いつか辿りつけるかな、この景色に」
「決まってんだろ。そのために俺様がいんだから」
そう、俺は、俺たちは飛び続ける。
霧に包まれた空の向こう側、未踏の領域目掛けて。
「約束しただろ。俺様がお前の翼になる。霧を裂いて、吹き払う翼に」
「そして、俺が霧の向こう側を見通す目に」
「ほら、最高のコンビじゃねえか」
目を合わせることもなく、お互いに差し出した手と手を打ち鳴らす。『翼』と『目』である俺たちにとって、そのくらいは造作も無いことだったから。
そうだった。こんな他愛の無い約束を、無邪気に信じていたのだ。
――俺が、あいつを殺す日までは。
瞼を開けば、目の前に広がっているのは、白。
右も左も、それどころか上下すらも曖昧な霧の中、俺はたゆたう鋼鉄の船に身を預けている。シートに横たわる肉体を外側から眺めているような感覚は、重たい体に囚われた陸の上よりもずっと気が楽だ。
視界を覆う探知網に異常なし。今日も至って平和なもんだ。退屈と言い換えてもいい。
だからだろうか、遠い日の記憶を思い出してしまったのは。
――青。
それは、あの日カンヴァスに広がっていた色の名前だ。
あの頃のことは、思い出すこともないと思っていた。思い出したところで、二度と戻ってはこない。この船には俺一人しか乗り合わせていない。もう一つの席は、空っぽのまま、沈黙している。
だから、青いカンヴァスが増えることも、もう、ない。
「……つまらねえな」
思ったよりも、嗄れた声が喉から漏れた。案外長い時間眠っていたのかもしれない。我らが司令に「船の中で寝るなんて
ああ、つまらねえ。
もう一度口の中で呟いて、『エアリエル』に潜る。
体を置き去りにして、水中に潜るように、魂魄だけが『エアリエル』と同期する感覚を確かめて。長い尾を持つ細くしなやかな船体から伸びる、薄青の半実体の飛行翅を、強く、羽ばたかせる。
霧を蹴って、ぐん、と加速し、空気の塊が船体を叩くのを肌で感じる。それでも、まとわりつく霧を振り払うことはできない。
それはそうだ、魄霧の海は全ての源、俺たちが息をしてるのも、飯を食えるのも、魄霧のお陰だ。もちろん『エアリエル』が飛ぶのだって、大気中の魄霧を取り込んで、内部機関で圧縮して飛行力に変換しているから――訓練生時代に嫌ってほど習ったことだ。
だから、魄霧を振り切ることなんて、できるはずもない。仮にできたとすれば、それは『エアリエル』が墜ちる時だ。
なのに俺の脳裏にちらつくのは、いつだって、あの青いカンヴァスだ。光に満ちた青い空と、その青を鏡のように映しこんだ、遥かに遠くまで続く水面。
そして、そのカンヴァスを夢見るような目で見つめていた、あいつの姿。
「ああああ、畜生!」
吠えた声が、本当に俺の喉から出たものかはわからない。船体と同調していると『エアリエル』の駆動音ですら、自分の声と錯覚することがあるから。
それでも、叫ばずにはいられなかった。言葉にならない叫びが、誰にも届かないまま、風の歌一つ聞こえない静寂に飲み込まれていく。
いらいらして、むしゃくしゃして、たまらなかった。
どれだけ飛んでも、俺はもう、あの青には届かない。あいつが俺の側から消えた今、飛ぶための「理由」はすっかり失われた。
あれだけ気持ちよく響いていた風の歌も、聞こえなくなった。
それでも、飛ばずにはいられない。飛ぶために俺は生まれてきた。飛ぶことは俺の本能そのものだ。だから、俺は、つまらない海をたった一人で飛ぶ。意味もなく、目的もなく。
この、使い物にならない体が、消えてなくなるその日まで。
ああ、と。腹の底に溜まっていた声を使い果たして、最後には情けない呼吸が喉から漏れた。
叫ぶだけ叫んだら、何だか、気が抜けてしまった。がむしゃらに、真っ直ぐに飛び続けていた『エアリエル』の速度を落とし、意識を引き剥がしながら呟く。
「帰るか、『エアリエル』」
もちろん『エアリエル』は応えないから、勝手に同意だと思うことにして、基地の方角を確かめる。この白く濁りきった世界の中でも、『エアリエル』の目は霧を見通して帰り道を俺に示してくれる。
ゆったりと長い体を廻らせて、基地の方に頭を向けた、その時だった。
『……う……せい……』
「……ん?」
一瞬、魂魄の中に何かが割り込んでくる感覚があった。
通信記術。魂魄界を通し、対象の魂魄と情報を受け渡す記術だ。軍の基本的な通信方法で、『エアリエル』にも送受信用の魄霧機関が積まれている。どうやらそれが俺の魂魄に割り込みをかけてきたらしい。
ただ、基地からの通信とは明らかに波長が違う。とはいえ、魄霧の海を漂う無関係の通信を傍受したわけでもなさそうだ。こんな、魚一匹、鳥一羽見えない辺境の海を行く物好きなんて、そうそういるはずがない。
なら、今のは一体――?
最低限の機能だけを立ち上げていた『エアリエル』の視覚と、探知網を最大限に展開する。三百六十度を見渡す視界の只中に「俺」という存在が頼りなく浮かぶ錯覚に陥りながら、声の出所を探る。
その時、もう一度、先ほどよりもずっとはっきりと、声が。
『……を、要請します』
――青。
頭の中に閃いたのは、声と、溢れんばかりの色彩。
その色彩は、俺の頭の片隅にこびりつく記憶と結びついて、白く濁っていた視界に青い空のイメージが重なる。それは、あの日のカンヴァスと同じ、色。
もちろんそれは単なる幻視で、すぐに俺の目の前から消え去ってしまったけれど。それでも、呟かずにはいられなかった。
「青、だ」
魂魄を介した通信は、声だけを届けるわけではない。ものの形や色を伝えることだって、できる。
だが、こんなのは初めてだ。ただただ「青い」とだけ感じる、声は。
聞いているだけで背中の真ん中辺りを震わせる、機械的な声。もう一度、もう一度その声を聞かせてほしい。声の正体を、確かめさせてほしい――。
その願いどおり、今度こそ、俺の魂魄は明確にその声を受け止めていた。
『救援を、要請します』
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