ワールドエンド・ネクロマンシー
レライエ
プロローグ
あまりの騒々しさに、彼女は目を覚ました。
肉体は眠りながらも意識は覚めている、そんな秘奥に触れていたが故の悲劇とも言えた。
通常彼女と同じ状態になった場合、誰も周囲の騒がしさなど聞き届けることはできないだろう。ただいつまでも静かに、眠るだけだ。
彼女としても、それは忌々しい呪いのような才能と言えた。幼い頃から魔術の神の祝福により、彼女の魂は安らかな眠りには縁遠かったのだ。
肉体の限界を迎え、全身が乾ききり、彼女を恐れた不敬者どもの放った蠍の毒に蝕まれながらも、その呪いは解けることがなかった。
自分が何をした、と憤る日が無かったとは言わないが。
不幸にも、ヒトは適応するものだった。
彼女はさ迷える幻として都を駆け巡り、夜の内に交わされるあらゆる秘密を集め始めた。
人々が誉めそやす愛と睦事の正体を理解したとき、彼女は既に、恐怖の的となっていた。
そしてその恐怖が最高潮に達したのを見計らうように。
天文官が一筋の流星を見、預言を告げた――彼女こそ、生と死を操る夜の都の女王となる悪魔であろう、と。
そうして、彼女は殺された。彼女の運命を言い訳に、彼女の知識を恐れる者どもの手によって。
そして今。
不気味なほど単純な言語で、彼女の眠りを妨げようとする輩が現れた。
黒いローブに全身を包んだ彼らは、単調なリズムの呪文を繰り返し、唱え続けていた。
分析に数秒も掛からない幼稚な呪文ではあったが、効果はあるようだ。数千年の時を経てすっかり干からびた彼女の身体が、徐々に潤いを取り戻していく。
愚かな、と彼女は呆れた。
彼らは何も解っていない――半端な理解だけで、自分を解き放とうとしている。
呆れたが、しかしどうするつもりもない。
愚か者が自ら首をくくるのを、歓迎しない施政者がいるものだろうか。無能な味方が死に絶えた世界の過ごしやすさは、死後の安寧にも勝るだろう。
良いとも、と、彼女はほくそ笑んだ。
呼び掛けには応えてやろう――だが。
「……
言葉一つで、魔術師は息を忘れた。
その全身から水分が見る見る内に失われていき、そして、最後には塵となって彼らは消え失せた。
風に舞う愚者の末路を冷ややかに眺めながら、彼女は思った。
やがて、世界もこうなる。
エマ・クレイモアは今日も不安だった。
昼過ぎに目を覚ました時も、買い置きの田舎風パンにチーズクリームを塗った時も、カフェラテをかき混ぜている時も。
職場に着き、準備室でぬるめのシャワーを浴びた時でさえ、エマの脳裏から不安の文字は消えることがなかった。
まあもっとも、と制服である紺のジャケットに袖を通しながらエマは思う。不安を感じない日なんか、人生に一日としてなかったけれど。
スラックスを履いて、帽子を被る。
姿見に映して確認する――ネクタイは曲がっていないか、帽子の角度は正確か、ジャケットは汚れてはいないか、靴は?
問題ないことを確認しても、鏡に映る
幼い頃から、赤毛の中で斑に入った栗色の髪のように、心の何処かにはずっと、黒い影がわだかまっていた。
これで良いのかと問い掛ける声。
これではいけないと答える声。
ただ平凡に生きようが、波瀾万丈の人生を送ろうが、何をどうしてもどうしようもないという確信めいた疑いが、エマの心に住み着いていたのだ。
影法師にも似た、姿形のない漠然とした恐怖が、徐々に徐々に忍び寄ってくる妄想に怯える毎日を、エマは、二十二年間必死に生きてきた。
そして今夜、その不安は過去最大規模に膨れ上がっていた。
お気に入りのブーツの紐が切れたわけでもないし、カラスに糞を掛けられたわけでも、黒猫に左肩を飛び越えられたわけでもないが。
エマの盲信は啓示を得た――今日は、ヤバイと。
怯えは身を縮ませ、周囲に自信の無さを喧伝することに繋がる。
結果、彼女はこれもまた日常の一つを今日もまた、招き寄せてしまった。
「クレイモア!」
「っ、はい!」
おどおどと、それこそ自分の影にすら長い耳を立てて怯えるエマに、彼女の上司が怒鳴り声を上げた。
見ると、ロッカールームの入り口に
「いつも言っているがな、クレイモア君」
頭の上から頬の辺りに伸びた二本の角を撫でながら、男性、ノックス・クグロフは弛んだ顎を震わせた。「もっと堂々としてくれ。胸を張り、背筋を伸ばして、周りを睨み付けるんだ」
貴方のようにですか、とは言えず、エマは曖昧に頷いた。
五十の大台に差し掛かったクグロフ氏は、禿げ上がった頭頂部といい貫禄を溜め込んだ腹といい、戦士の血族たるハドホルンの特徴を何処かに置き忘れたとしか思えない。
が、それでも彼の態度には他人を従わせる圧が存在していた――エマには無縁の個性が。
そうでなくとも、エマはノックスには逆らえないが。
この初老の男性は、エマの前職の上司でもある。彼が引退し、そしてエマの経歴が一区切りを迎えた時に、ノックスは彼女を自分の職場に誘ったのだった。
当時エマは職を転々としていて、ろくな貯金も無かった。生きるために堅実な職を求めていたエマを、ノックスは拾い上げてくれたのだった。
恩を仇で返すわけにはいかない。
毎日毎日皮肉と嫌みを言われる、そんな職場であろうとも。
辟易するエマに気付いていない様子で、或いは気付いても無視して、ノックスは「良いかね、クレイモア君?」と続けた。
「私が部下に求めるものは、さして大袈裟なものではない。それは理解しているな?」
「は、はい、えっと……」
日頃の上司の言動を考え、エマは答えた。「忠誠ですか? 貴方の言うことに何もかも疑わずに従う、無私の忠誠心とか……? ……あー、その……違いますか」
「違う」
目付きや雰囲気でも伝わることを、ノックスはわざわざ口に出した。「君には必要かもしれないがね、そうではない。私が部下に求めることは忠誠心でも才能でもない。仕事をすることだ、クレイモア君。
私が依頼人から引き受け、君を含めた部下たちに割り振る仕事を、きっちりと、しっかりと。期待した通りにこなすことだ。
私が、君に期待することはなんだ?」
「……夜間警備です、ノックスさん」
「ハバルキリア美術館の夜警だ、クレイモア君。アズライト聖国唯一の、国家美術館。国が、国のために、選び抜いた美術品を展示する場所だ。良いかね、そこの警備を任される民間企業など、我が社をおいて他に無いんだ。私はそこの警備を、君に任せた」
「…………光栄です、ノックスさん」
「だから」
種族の特徴である、曲がりくねった乳白色の角。
金の鎖と、宝石のオーナメントで飾り立てた誇りを一撫ですると、ノックスはエマを睨み付けた。現役時代を思い起こさせる視線に、エマの姿勢が知らず知らず伸びる。
「期待に応えろ、クレイモア。君の仕事は泥棒を防ぐことだし、泥棒に諦めさせることだ。鏡を見たか? 猫背にきょどり眼、吃り癖。今のお前の態度は、泥棒のようだぞ!」
「……泥棒のようだぞ、は、言い過ぎじゃないですかね……」
自分と神様以外に聞こえないような小声で、エマは文句を言った。
内容は、愚痴に近い。
例え誰かに聞かれても怒られるようなものでもない文句を、誰にも聞かれないような声量で言う辺り、エマの性格が見える。
ましてや――周囲には誰もいないのに。
ため息を吐きながら、エマは携帯用の
ハバルキリア美術館の、二階。
【
世界中各地域に自生する固有種を採取し、それを材料として組み上げた床は、一歩一歩異なる色合いで来館者を出迎える、美術館独自のレッドカーペットだ。
全体を俯瞰すると、モザイク画の手法で一人の女性が描かれているというそれ自体が芸術品のような床だが、深夜に見てもその良さの半分も理解することはできなかった。
「……この階は、うん、異常無し」
耳をそばだてながら、エマは呟いた。
自分以外の足音は勿論、呼吸音さえしない。エマの性格の一切は警備員なんて職に向いていなかったが、しかし、彼女の性能はこれが天職だと囁いていた。
この階は無人だ。エマは重い足をひきずって、階段へと向かう。
問題は三階だ――先週から公開されている神秘の砂漠展には、この春発掘された、過去類を見ない程状態の良いミイラが展示されている。死後の旅において困らないだけの、財宝と共に。
美術館は泥棒にとっては最高の物件だ。警備は緩く、宝物には目録が付いている。
「……不安、かあ」
心臓の鼓動が激しくなる。
三階。
あぁ、どうやら。幻聴が大声で騒ぎ出している。
ここだここだここだここだ今夜だここで今夜だここが今夜だ今夜がここだここだここここここここここ――それでも。
「……期待には、応えないと……」
息を軽く吸うと、エマは階段に足を踏み入れた。
そして――最悪が、始まった。
「……嘘でしょ……」
三階に着いて直ぐに、エマは異常に気が付いた。
耳や鼻が鋭いとか、そういう次元の問題じゃあない。もしここにいたのが【ミスター・うすのろ】ダグワーであったとしても、流石に気づいただろう。
先ず、ドアが壊されていた。
というか、ドアそのものが見当たらない。観音開きのドアは蝶番を残して消滅しており、階段から展示エリアが過剰なバリアフリーと化している。
マギライトで床を照らす。
大規模な破壊にも関わらず、そこには一切の痕跡が無い。木片も、或いは焦げた後、床自体の変形、その他エマが想像できる破壊手段が残し得る痕跡の、何もかもそこには存在していなかった。
いや、とエマは眉を寄せる。そうとは限らない。
こんな非常識な現象を起こす手段の内、目に見える痕跡を一切残さない方法を、エマは一つだけ知っていた。
ウエストポーチから、エマはモノクルレンズを取り出した。
精霊の炎で精製したガラスを神秘殺しの銀で囲んだ逸品だ、ノックスから支給されなければ多分、エマには一生手の出ない高級品である。
左目に嵌め、右目を閉じる。
このモノクル――【足跡追い】の効果は、とある現象の痕跡を視覚化することだ。
自然界に存在しながら、不可視にして不可侵、扱える者にしかその存在は意味を為さない、極めて不自然な自然エネルギー。
魔術師によって消費されることによってのみ知覚できるそれを、モノクルレンズは露にする事が出来るのである。
左目の映し出した世界は、ひどく暗い。
魔力を、中でも消費された魔力を感知するマジックアイテム越しの視界は、そうではないものに鈍感である。
マギライトを消す。視界の大半は夜の海色に染まり、 ついさっきまで点灯していたマギライトの残存魔力を示す仄かな帯が、視界の隅へと伸びている。
そして――ドア。
両手を開いたエマが三人は横に並べるような大きさに、青白い炎が燃えている。
「これは……不味い、ですよねぇ」
つい先刻から不味い以外の言葉を忘れている自身の直感はさておくとしても、これは完全にヤバい。
端から見る限り、魔術師には二つの特徴がある。
一つ、彼らは常識に疎い。
異次元領域である【マレフィセント】に引きこもっているためか、彼らは時流の変化にはひどく鈍感である。時事問題を出題すれば、子供にさえ負けるだろう。
もう一つは――これが何より問題なのだが――魔術師は目的意識が強い。
彼らが魔術師に成れたのは才能のお陰だが、そもそも、彼らが魔術師に成ろうと思ったのは、そうでなければ叶えられない目的があるからだ。
人智を超えた知識であったり。
倫理を超越した、手段であったり。
或いは単に天命を越える寿命であったりもするのだが、詰まり、彼らは単純に目的達成のための手段として魔術を選んだに過ぎないのだ。
だから。
彼らは目的のためなら、躊躇しない。
状況を、整理する。
こっそり鍵を開けたりすることも出来ただろうに、ドアを丸ごと消し去るのを選ぶ、短絡的で直情的な魔術師が、美術館に侵入したようだ。
魔術の痕跡を見るに、その侵入は十分以内に行われており、隠蔽を気にしている様子はない。
魔力が残るまま踏み込んだらしい魔術師の足跡は、展示会場の中へと伸びていて、戻ってきていない。
青く燃える魔力の足跡を眺めながら、エマは盛大にため息を吐いた。
どうやら――相手は未だ、中にいる可能性が高いらしい。
責任という言葉が、エマの両肩に重くのし掛かってくる。
「……最悪」
短く吐き捨て、エマは足跡の追跡を始めた。逃げるにしろ通報するにしろ、相手を確認しなくては何も始まらない。
そして、数分後。
彼女は、自分の想像する最悪が最悪ではなかったことに気が付くことになった。
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