第56話

十九.[中区に佇みて以て玄覧げんらんし]


 部屋に戻っていくらも待たないうちに、シュス本人が迎えに現れた。本人が来ると思っていなかったアオイは吃驚した。大魔導師と二人、廊下を歩いていると、後ろからバタバタと足音。追い越していったかと思うと、今度は前を横切ったり。鬼ごっこがまだ続いていた。


 あいつらいったいどうしたんだ? そう思いながら前を歩く大魔導師に話しかけた。「今日は子供たちが変ですね」


 大魔導師は笑ってふり返った。

「どうやら、梅酒の梅を沢山食べたらしい」


「え?」

 漸く思い至った。いつもお膳に附いていた梅酒は、コップの底に梅の実を沈めていたことを。道理でゴロゴロ残ったわけだった。じゃあ、まさか、あれ全部食べちゃったのか? 確かに、みんな大好きだとは聞いていたけど––。


「俺のせいです」アオイは苦笑しながら大魔導師に話した。「俺が梅酒を注ぐとき、梅の実を入れ忘れたから。あの子達が怒られたりしないでしょうか?」


 大魔導師は笑って言った。「怒られるほどのことではあるまい」いつもの鋭い目が優しく和らいでいた。


 その顔を見てようやく、アオイは相手が理解できた気がした。難しい人じゃない、この人のまとっている雰囲気は、自分に対する厳しさの表れ。常に自分を厳しく律し、それが顔や、表情に刻まれている。しかし人に対しては優しく穏やかな男。

 こんな男になりたい––、アオイにそう思わせた。


 大魔導師シュスローは、マアシナの部屋の前で足を止めた。「さあ。ここだ」。


 大魔導師に附いて中に入ると、そこにはタパとリリナネが待っていた。しかしリリナネは二人が入ってきても目を向けない。マアシナの神像に向かい、足を組んで座って、膝の上に印を結んだ手を乗せて、瞑目している。タパはリリナネの斜め前で、マアシナの神像に対しては横を向き、つまり入ってきた彼らの方を向いて座っていて、彼らが入ってくるといつもの穏やかな笑みを浮かべた。


 その様子を見てピンときたアオイ。

 これはアレだ、オゼン、違う。ザゼン……。


 シュスローは言った。「他でもない。君に教えたいこととはこれだ。ツフガとしてとても大切なこと。君は身につけた自分のケイの力を開くことが出来る。しかし君の身の裡に走る法力の経路をより強く確かなものとする爲に、これを行う」


 シュスはリリナネの隣に毛皮の敷物を敷き、そこに座るようアオイを促した。アオイが座ると、自分はその隣に敷物を敷き座った。「あとは私ではなく、タパ様に手ほどきして貰う方が良いだろう。タパ殿。よろしく頼む」タパタイラに一言声をかけ、自分は瞑目した。


 タパがアオイの前に来て座った。マアシナの神像に背を向けず、斜め前に。アオイは左腿の上に右足首を乗せ、さらにその右腿の上に左足首を引っ張り上げようとした。こんな感じだっけ––、そう思ったのだが。


 巫術師は笑って言った。「普通に楽に座りなさい」


「え? あぐらでいいんですか」確かに、言われて横を見ると、リリナネもシュスローも楽に座っている。


「うむ。座り方は重要ではない。楽な姿勢で良い。寝転がった方が良いと思えば寝転がっても良い。体は楽にくつろがせ、しかし心は気ままにうつろわせず、一つ処に留める。その方法をこれから伝授する」

「はい」


「先ず、目的から伝える。今、シュス殿が語られたとおり、法力の経路をより確かなものとして常に高く維持する、それもあるがもっと大切なこと。それは貴殿の身の裡にラアテアの光を開くこと」


「はい」ラアテアは、マナみたいなもの……マナの力を授かるってことか、そう理解した。しかし少し意味合いが違っていた。そしてそれは彼にとって、得心がいく答えだった。


「もしも人の裡にその光が開かれれば、人は絶対的な善を知る。光が開かれた者の為すことは、全て善行となる。たとえ一生叶わずとも、常にそこへ近付こうと顔をそちらに向けていること。それは、一瞬にして多くの人命を奪う術が使える者には、とても大切なこと。アオイ殿はプレルツは使えぬが、ツフガの一人として、常に善の側に立つよう心がけなさい。その意志を知ろうと常に努めなさい。時にツフガの術は一国の命運を左右しもする。ツフガの意志が多くの人の運命を変える。言っていることが、伝わっているかな」


「はい」


 アオイは途中から目を閉じて聞いていた。巫術師は「うむ」と一つ言った。


「方法を伝える前に、先ず、次のことを理解しなさい。それは、アオイ殿が確かにここにあると認識している世界、物象、事象、それらは全て、存在しないということを」

「え?」

 アオイは目を開いた。巫術師は静かな笑みを浮かべていた。


「ここに紙があると思い、そこに丸を二つ並べて書き、その下に横棒を引けばどう見えるかな?」


 少し考えて答えた。「顔……ですか?」


「うむ」巫術師は新米弟子の答えに満足げな笑みをみせた。「何故かな。それは紙に過ぎない。鉛筆で書かれた線に過ぎない。なのに何故顔に見えるのか」


 言わんとしていることが朧に見えた気がした。


「もっと巧みな絵であったとしても、それは紙とその上に乗せられた顔料、絵の具、それでしかない。何故、人はそれを見て、これは獣だとか、これは鳥だとか思うのか」


 巫術師は言葉を切り、アオイに少し考えさせてから、続けた。


「それは人が投影するゆえに。人の心は自然に投影する。自分のうちにあるものを。それは何を見ているときも、変わらない。勝手に投影する。言い換えれば、人がそこにあると思っているもの、自分の周りを取り囲んでいると思っているもの、それらは全て、自己の投影に過ぎない。他者も物も事象も全て。それらは存在しない。それらと微妙に異なる形で、全て存在している。それらは、人が普段認識しているよりも、もっと鮮やかな色彩で、鮮烈に、存在している。人が聞き漏らしている多くの音が存在している。このことを次の言葉の、言葉と言葉の間合いから、受け取りなさい」


 巫術師タパは一呼吸おいて、言った。


「万物は存在しない。されど、万物は存在している」


 これはアレだ––。アオイがこの言葉を聞いてその言葉を思い出したのは、ほぼ奇蹟だった。しかしタパの言った言葉の間合いが、記憶の深い霧の中のその言葉とつながった。


 色即是空、空即是色。誰が言った言葉とか、何に書いてあった言葉とかはまったく思い出せなかったが、言葉の意味を知っていたかどうかも分からないが、もし知らなかったとしても、今知った。間合いに潜む意味合いは同一。


「さて。この認識に至るまでは人間は間違いだらけである。正義を知らず、正義を口にし、間違いを繰り返す。次のような言葉もある。もしも盲いた人が盲いた人を導こうとすれば、二人とも穴に落ちる。私にもあてはまる。私とて、目が見えているわけではない。私に導かれて穴に落ちないように気を附けなさい」


 冗談かな、と思い、笑った方がいいのかな、と迷ったが、巫術師はそんな彼の様子はあまり気にせず続けた。

「先ずは一人で立つこと。自身を律し、人にもたれず一人立つ。この地上に一人在る。そう努めなさい。無論、人は一人で生きているのではないから、そのことを言っているのではない。心のありようを言っている。己を基軸としたしっかりした芯を心に持つこと。人によりどころを求めないこと。人に気に入られ認められたところで何があるかね。それは相手が気に入る投影を受け入れたに過ぎない。基準を自己に持ちなさい。友とは、君子のように交わりなさい。自分の内側に入り込ませず、相手の内側にも入らぬこと。友とは、同じ目標、高みに向かい共に協力し合う者であり、もたれ合い占有しあう者ではない。踏み込みすぎるとお互いの責任がお互いにあるかのような錯覚さえ起こる」


「はい。ですが……」


「何かな?」


 友達についての考え方は概ね納得できた。アオイ自身もそういう友人関係の方が良かった。ベタベタといつもつるみ、何をするにもいつも一緒という友人関係よりも。けれど。


「男女は?」


 アオイがそう訊くと、隣で無心になっているはずのリリナネの肩がピクッと動いた。ん? 聴いてるのかな––?


 巫術師タパは穏やかに笑って言った。

「もしも愛し愛される仲の、思い人がいるならば、」


「いえ、あの、今いるというわけじゃないですが」


「うむ。もしもそういう人があるときは、その人といるときは常に心を重ね合うようにしなさい。相手が自分であり、自分が相手であるかのように想念しなさい。我らは皆別個の肉体に宿っていているが、元々は同じ光より生じた。それは同質のもの。同質のものである以上、重ねれば重なる。一つになる。心は肉体を一瞬たりとも離れることが出来ないが、恋人同士であれば交感しやすい。重ね合うのは無理としても、交感ならば可能かも知れない。今の答えでよいかな?」


「はい」


「うむ。では要約して始めから順に言ってみよう。絶対的な善を知るため、ラアテアの光を身に開かんとする、物象の只中に身を置き、そして何をするか?」一つ言葉を切り、続けた。


「雑念を捨てて無になりなさい。ただ座してここに在ること。ここで言う雑念とは、人の思う全て。一切思考しないこと。心は勝手に移ろう。常に何事かとりとめもなく考えている。試しに紙を置いて自分の考え事を全て書いてみるといい。何かの事象について真面目に考えていたかと思うと、すぐに脇道にそれ、別の事象に移る。そうかと思えば次の瞬間には、また別の気になることを思い出す。一つ、今、目を閉じて、そして何が起こるか試してみなさい」


 アオイは目を閉じた。しかしすぐに開いた。答えた。「まったく無理です」

 考えるな––、そう思い、あ、今のって考えたことになるな、考えるなと考えて、さらに、今のって考えたことになるなと考えてるじゃないか––、と、今も考えてるじゃないか––。その果てしない繰り返し。いったん考えをそらそうとしたら、ええっと––、と出てきた。ええっとも考えたことになるな––、無、と想念したら、無と考えていた。


「何か考えてしまいます」


 巫術師は満足げに微笑み頷いた。

「赤ん坊は何を考えていると思うかね。あの、天使のような笑顔の内側には何があると。赤ん坊はまだ何一つ言葉を得ていない。思考する道具がない。何も考えていない。ただ、感じている。全てを。主には母親を。生まれ落ちたこの世界の全てを、夢中で感じ取ろうと努めている。赤ん坊は全体と共に在る。赤ん坊になったつもりで、ここにただ座り、そして感じなさい。感じようとすれば、人の思考は途切れ始める。やがて熟達し、己を無とすることも出来るようになろう」


「はい」アオイは再び目を閉じた。


「肌に触れる微かな風を感じなさい。ここに在る香の匂いを感じなさい。目を閉じればここにはそれしかない。他の一切の万象から自身を切り離し、ここで空気を感じ、そして今そこに他に何があるかね?」


 アオイは目を閉じたまま答えた。「自分……息をしています」


「然様。その自分の呼吸に全てを集中させ、それを余すところなく感じなさい。特別な呼吸法というものはない。様々にあっても、それらは全て方便に過ぎぬ。ただ、呼吸して感じること。体はくつろがせ、意識は呼吸に集中させ続けること。もしもどうしても上手くいかないと感じたときは、いったん立ち上がり、三度小刻みに深く吸い、一度軽く吐き、その呼吸を繰り返しなさい。そうすると体は過酸素状態となり、しびれる。脳は異変に気附き、常日頃浸っている夢の中から目覚める。何が起こったのか状況を知ろうとする。その時、脳は現実を見つめている。その意識を保ったまま、横になり、眩暈が収まったら再び座り、静かに呼吸を始めなさい……」


 その後は、細かい方法の伝授が続いた。





中区に佇みて以て玄覧げんらんし、情志を典墳てんぷんにやしなふ。

(文鏡秘府論)


曾て我の自性を観ぜずんば、何ぞ能く法の実諦を知らん。   

(秘密曼荼羅十住心論 巻第一)


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