コウクチ先生の裏話 その9

第211話 生まれてくる子は女の子らしい。

 1月29日(土曜日)の午後、俺は生娘山のふもとにある産婦人科の待合室にいた。


 隣に俺の嫁が座っているにも関わらず、オトコにとっては何とも言えない居心地の悪さがあり、女子校の教師である俺でさえ場違いに思えるような場所だ。


 女性用の下着売り場に連れて来られているような感覚に近いかもしれない。


 待合室には嫁を含めて4人の女性が座っているが、幸せそうな顔をしているのは妊婦健診の順番を待っている俺の嫁だけで、他の患者達は一様に暗い表情だ。


 皆さん俺よりもずっと年上なので、おそらく、何かの病気か不妊の相談だろう。

 出産予定の妊婦さんばかりなら、日本の人口は、もっと増えているはずである。


心野こころのさーん、心野トモヨさーん! 診察室にお入りくださーい!」

「あっ、次、私の番だ」


 名前を呼ばれた嫁は、俺に笑顔を見せてから診察室へ向かう。

 俺は笑顔でうなずき、嫁を見送った。


 入れ替わるように、診察室からは別の若い妊婦が顔を出し、俺に近づいて来る。

 この若い妊婦は、俺が車で連れて来た俺の教え子であり、嫁のクラスメイトだ。


 俺の嫁と同じ病院で、毎回同じ日に妊婦健診を受けている。

 出産予定日も、嫁と同じ5月の上旬で、おなかの膨らみ具合も嫁と同じくらい。


 つまり、俺達夫婦と同じように、この生徒も去年のお盆休みはパートナーと2人で子作りに励んだという事だ。


「先生、お陰様で、お腹の赤ちゃんは希望通りに男の子のようでございます」

「おお、それは良かったな!」


 嬉しそうに自分のお腹をでながら俺の隣に座る、この生徒の名前は百川ももかわ肚身はらみ

 いや、正確には、もう百川ではなく、嫁ぎ先の家の苗字みょうじだったか。


 跡取りの無い老舗しにせの温泉旅館に嫁いだ百川は、旅館を存続させるために男の子を産む事が期待されており、これで大きく目標に近付いたという事になる。


「男の子を産む事さえ出来れば、晴れて自由の身ですわ。ワタクシは旅館の女将おかみとして、お料理を好きなだけ研究させて頂くつもりですのよ」


 偽装離婚した旅館オーナーの元奥様に子育てを任せ、本人はオーナーのサポートを受けながら得意の料理に専念し、コロナウイルスの影響によって寂れてしまった温泉旅館を立て直す事が、百川の目標なのだそうだ。 (第143話参照)


「そんなに料理が好きなのか。俺の姉と同じだな」

「はい。ぽろり食堂の女将は、ワタクシの尊敬する人物の1人でございます」


 ぽろり食堂は、夫に先立たれた俺の姉、鬼灯ほおずきホロリが、ほぼ1人でやっている店だ。将来は姉の一人娘であり、俺のめいであるポロリが跡を継ぐ予定となっている。


「姉が聞いたら喜ぶだろうな。尊敬する人は、他にもいるのか?」

「はい。もちろん、コウクチ先生でございますわよ」

「はっはっはっ、それは光栄だな」


 こんなに優秀な生徒から尊敬される理由が俺にはよく分からんが、例えお世辞であったとしても、嬉しいものである。




 そのまましばらく百川と待合室で談笑していると、嫁が診察室から出てきた。


「お待たせっ! せんせっ、うちの子は、女の子みたいだよ」

「おお、そうか。『るまんどくん』にならなくて良かったな」


 この名前は、生まれてくる赤ちゃんの性別が判明する前に、俺の姪が勝手につけてしまった名前だ。 (第194話参照)


 生まれてくる子は、俺と嫁の子で、かわいい姪の従妹いとこなのだから、血統的にも、小柄でかわいい女の子に違いない。


 男の子だったら、俺みたいに伸びない身長に悩まされるかもしれないが、女の子なら悩むこともないだろうし、むしろ背が低い方が、よりかわいく見えるだろう。


「トモヨさんのお子様は、男の子なら『るまんどくん』の予定だったのですか?」

「ポロリちゃんのセンスなんだけど、冗談なのか本気なのか、よく分からなくて」

「あれは多分、本気だ。あいつは、お菓子が大好きだからな。女の子で良かった」


 女の子なら、「えりいぜちゃん」か「るうべらちゃん」だったか。

 嫁が冗談で追加した「ぴっからちゃん」を含めて、どの名前も願い下げだ。


「あー、でも、生まれるまでは確定じゃないからね。おち●ちんが、まだ小さくて見えていないだけかもしれないんだって」


「そうですわね。うちの子は、男の子に間違いないと言われましたけれど、女の子の場合は、判定が難しいそうですわよ」


 百川の赤ちゃんは巨根確定の男の子で、俺達の子は「ポークビ●ツ」な男の子の可能性も残されているという事か。それなら、なおさら女の子の方がいいな。


 身長が低い上に「ポ●クビッツ」だったら、我が息子ながら実に哀れだ。でも、そうなったら父親である俺のせいか。俺自身も、ビッグサイズには程遠いからな。


「トモヨさん、うわさによると、新妻にいづま先生の赤ちゃんも女の子だそうですわね」


「そうそう。出産予定日は、もう過ぎちゃっているみたいだけど、赤ちゃんの名前は、漢字1文字の『みゆきちゃん』に内定したらしいよ」


 新妻先生の出産予定日は1月下旬で、もう何日か過ぎてしまっているらしい。

 出産前には産休を取らないつもりらしく、普段通り仕事を続けていらっしゃる。


「天ノ川と同じ名前なのか?」


「うん。ミユキから聞いたんだけど、昨日、寮の廊下で、新妻先生から『あなたの名前を頂くことにしたわ』って言われたんだって」


「新妻先生のお子様は、皆さん古風なお名前でいらっしゃいますわね」


 まさるくんとみやびちゃん、そして3人目がみゆきちゃんか。

 3人とも漢字1文字で、読みが3文字だ。


「そうだね。ハラミは、もう男の子の名前、考えてあるの?」

「いいえ。ワタクシはめかけですので、名前に関しては社長と奥様に丸投げですわよ」


 百川の表情は涼しげで、つらそうには見えないが、俺には返す言葉がなかった。

 結婚に関する価値観は人それぞれで、俺にとやかく言う権利は無い。


「そのほうが、いろいろ悩まなくていいかもね」

「そうだな」


 嫁の言う通り、丸投げなら悩まずに済むし、年輩の方に任せておけば、キラキラネームを付けられてしまう心配もないだろう。


 しかし、俺達の娘の名前に関しては、嫁と2人で改めて考えなければならない。


 これがゲームのキャラクターの名前やペットの名前なら、ふざけた名前でも許されるし、気に入らなかったら後で変更する事も簡単なのだろうが、人の名前だと、そういう訳にもいかない。


 名付けられた本人が気に入るような、しっかりとした名前を付けてあげる事が、生まれてくる娘への、親としての最初の仕事だ。


 俺は結婚して心野こころの同人おなんどになったが、ずっと工口こうくち同人おなんどとして生きて来た。


 きちんと育てる気があるのなら、こんなひどい名前は付けるべきではない。

 生まれてくる子は、自分の親や名前を選べないのだから――。

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