第39話 8月の錯覚
奈津は、部活の始まる1時間も前に学校に来た。グランドとその周辺には、人の気配を感じさせるものは、まだ何も見当たらなかった。しかし、夏の朝は早くに退散し、もう昼にバトンが渡ったらしく、涼しさの代わりに暑さが奈津を包み始めていた・・・。奈津は理科棟の階段の所にそっと座った。そして、そこからグランドを見た。彼の目には、こんな風に映ってたんだ・・・。それから、ゆっくり目をつぶる。何で好きになったんだろう・・・。理由なんて、奈津にも分からなかった。ただ・・・、グランドから、この場所に座ってサッカーを見ているコウキの姿を見つけると、妙に嬉しくなった。そして、この場所から彼の姿がなくなると、妙にがっかりした。たぶん、あれは「好き」が始まったっていう心の合図だったんだ・・・。
「おまえ、電話くらい出ろ。ラインも無視すんな。」
ふいに、悠介の声が聞こえてきた。奈津が目を開けると悠介がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。
「なんだ。泣いてるのかと思った。」
と目を開けた奈津を見て、悠介はホッとしたように言った。悠介の安堵の表情を見て、奈津は軽くプッと吹きだすと、
「心配した?」
と訊いてから、
「泣いたりしないから大丈夫。」
と明るく言った。
「うん。そっか・・・。」
悠介は頷くと、奈津に向かってゆっくり歩いた。
「・・・で、どうだった?おまえの仮説・・・崩せた?」
悠介は奈津の所まで来ると、その横に腰をおろしながら訊いた。奈津は真っ直ぐグランドの方を見つめると、
「崩せなかった・・・。さすがわたしの仮説!バッチリ成り立ってた。」
と、あちゃーという顔をしながら答えた。それから、奈津は横を向くと、悠介の顔を改めてまじまじと見た。
「・・・ということで、悠介くん!わたしの初恋は『錯覚』でした!」
奈津の笑顔が悠介の目に間近でダイレクトに飛び込んでくる・・・。あいつが誰だったのか・・・とか、女ったらしのあいつに何かされなかったか・・・とか、奈津に会ったら訊きたいことが山のようにあった・・・。それなのに思わず言葉を無くしてしまう。
「昨日、あいつに会えた?」
奈津から目をそらすと、悠介はそれだけ訊いた。悠介の言葉に奈津はゆっくり首を振ると、
「・・・見ただけ・・・。」
とつぶやいた。そして、次の瞬間、勢いよく立ちあがると、パン!!と大きく手を叩いた。
「はい!!今、この場ですべてリセットされました。たった今から、わたしはタムラコウキを知らない奈津です!!だから、この話はもうなし!!いい?悠介、分かった?」
と言った・・・。二人は8月の青空を見上げた。青い空に白い飛行機雲がすーっと一筋の線を静かに描いている。悠介も立ちあがると、なるったけの元気を作り、
「・・・ということで、奈津さん!オレがフラれたのも『錯覚』でした!」
と言って笑いながら、奈津に向かってベロを出した。奈津はそんな悠介の顔を見て笑うと、
「いいえ、悠介くん。あれは現実です!」
と言って、負けずにベロを出した。
「っな!おまえは、いっつも!」
悠介が冗談でげんこつをするポーズをすると、奈津は、
「わ!ごめん!」
と言って2,3メートル走って逃げた。そして振り返り、少しかしこまると、
「まずは、悠介のこと幼なじみとしてじゃなく、ちゃんと彼氏候補として見るから!そっから!」
と言った。そして、
「じゃ!そろそろみんな来るから、行くね!」
と言って笑顔で手を振ると、部室の方へ走っていった。そんな軽やかな奈津の後ろ姿を見送りながら、悠介は、自分の知らない所に飛んでいってしまった奈津が、また、自分の腕の中に戻ってきたような、そんな感覚を覚えた・・・。タムラコウキは、もうオレたちの前には現れない・・・。住む世界が違う。奈津の言うとおり、あいつは「錯覚」だったんだ・・・。
奈津は走った。悠介に背を向けた途端、笑顔が消えた・・・。きっと、ヒロという人にとっては、お忍び療養中のただの気まぐれだったんだろう・・・。その証拠にここを離れた途端、奈津とは何の接点もなくなった・・・。昨日・・・わたしの名前を呼んだと思った・・・。でも、それは、やっぱり「錯覚」だった。奈津がずっと握りしめている携帯には、何の連絡も入らない・・・。本気になって、彼の「キス」にまんまと引っかかった自分がバカみたいで惨めだった・・・。奈津は涙と一緒に唇も力任せに拭った・・・。
大好きなBEST FRIENDSを目の前にしているというのに。そして、いつもだったら推しのヨンミンから片時も目を離さないというのに。それなのに、今日は、気になって、気になって、まなみはヒロを見ずにはいられなかった。昨日から電話をしても、ラインをしても、奈津からは何の反応も返ってこない。もう!奈津は分かってない!加賀先輩に気づかれないように、奈津に連絡したり、気になったまま普通に振る舞ったりするのがどんなに骨が折れることなのか・・・。それに、こんなに心配してるのに!でも、そんなことより・・・。
「あのヒロがわたしの席の後ろにいた?」
やっぱり信じられない。改めて、会場に設置されたスクリーンに映し出されるヒロを見る。ヒロは綺麗で輝いていた。伸びのある歌声、しなやかでキレのあるダンス、そして、曲ごとにクルクルと変わる表情。本当に魅力的でオーラ全開だ・・・。確かに、背格好や顔の輪郭、目鼻立ちは似てる・・・気はする・・・。でも・・・。
「ヒロはいつも見てたんだけど、コウキをよく見てなかったんだよね~。いっつもぼやんとした顔してて、全然、まったくイケてなかった気がするんだけど・・・。絶対、こんなにかっこよくないって!」
まなみはファンミの間中、「コウキはヒロ?」「コウキがヒロな訳ないやん!」というバトルを一人でずっとしていた。こんなにギャアギャア独り言を言いながらステージを見てる自分が、マジで自分でも怖い。席が加賀先輩と離れていて本当に良かった!大体、ダンス発表会来てたのに、あの加賀先輩がヒロに気づかないってありえる?わたしだったら、ヨンミンいたら絶対気づく!!
でも、ファンミが進むにつれ、まなみは次第に無口になった。ライブと違ってファンミではステージ上でメンバーたちがゲームなどもする。面白いことがある度にヒロが笑う・・・。コロコロと鈴が鳴るような特徴のある笑い声で・・・。どんなに否定しようとしても、それは、まなみが教室で聞いたことのある笑い声だった。そう言えば、加賀も言ってたっけ?「どっかで聞いたことのある笑い声」って。わたしたち、サッカー部で聞いたんじゃなかったんだ。BEST FRIENDSの動画で聞いてたんだ・・・。
「・・・なんで、奈津の好きな人がこの人なん?」
やっぱり、コウキはヒロなのかも・・・という確信が大きくなる度、まなみはやりきれない思いが強くなった・・・。熱愛もキスもあれは、コウキのスキャンダルだったんだ・・・。ヒロは否定し謝罪したけど、まなみの中ではまだまだグレーのままだった。それに・・・。昨日の奈津を思い出す。
「まなみ、気晴らしができた!ありがと!」
そう笑って奈津は新幹線に乗り込んでいった。おしゃれをした可愛い女の子たちがこぞってヒロの名前を呼んでいた・・・。奈津はどんな思いで昨日の空港での光景を見たんだろう。
「奈津が好きになったのは、普通の男の子だったじゃん・・・。」
ステージ上では質問コーナーが始まっていた。ちょうどヒロの順番が回ってきて、ヒロが質問ボックスに手を入れていた。今も会場は、ヒロの名を呼ぶ黄色い声援で埋め尽くされている。
「ヒロくんの好きな季節は?理由も一緒に!」
男性の司会者が会場に負けないように声を張り上げ、質問を読み上げる。『そりゃあ・・・奈津に連絡する訳ないよね・・・。ヒロにとったら、奈津なんて、この大勢の中の一人にすぎない・・・』まなみがぼんやり考えていると、もう一度司会者の声がした。
「ごめん!ヒロくん、会場の声が大きすぎて聞こえなかった。もう一回!!会場もシーッ」
会場がヒロの声を聞こうと静かになった。
「ぼくは、ナツが好きです。」
スクリーンにヒロがそっと答える姿が映った。他のメンバーは韓国語で答えていたのに対して、日本人メンバーのヒロの答えは当たり前だが、日本語だった。
「はーい!夏ね!まさに、今だね~!!じゃ、好きな理由は?」
司会者はハイテンションで続ける。
「・・・理由なく好きです。」
ヒロは遠く、空を見るような表情で、またそっと言った。
「だめだめ、ヒロくん!それじゃあ、答えになってないよ~!理由もちゃんと!」
司会者の勢いに、ヒロは少し困った顔をすると、ちょっと考えて、
「まぶしいから・・・。」
と目を細めて言った。その時初めて、まなみはステージ上のヒロがコウキに見えた・・・。そして、ヒロが見つめていた視線の先に、奈津の笑っている姿が見えたような気がした・・・。
ジュンは、ごそごそ人の動く気配で目が覚めた。昨日の日本でのファンミは、ソウルに続いて無事大盛況で終わった。布団の中で、ジュンは達成感と満足感と心地よい疲労感で満たされていた。ヒロが戻った完全体のBEST FRIENDSは、やっと再スタートを切れたと言ってもいい。ヒロのスキャンダルで一時、おあずけ状態になっていた日本デビューの話も、また浮上してくるに違いなかった。こうやって、また、一步一歩進んでいけばいい・・・。自分で言うのもなんだけど、ヒロが戻った完全体のBEST FRIENDSはやっぱり無敵だった・・・。
「うーん!」
と背伸びをすると、ジュンは寝ぼけた目を頑張って開けてみた。どうやらヒロがで出かける支度をしているらしい。
「ん?誰?」
ジュンは寝ぼけながらもう一度目をこすった。ヒロ・・・と思っていたけどなんか違う。そこにいたのは、髪を短く切りそろえた黒髪の少年だった。
「昨日はお疲れ!。」
少年が一旦手を止め、こちらを見る。
「じゃ、行って来る。また、ソウルで!まだ早いからゆっくり寝とけよ。」
少年が顔を近づけてきて、目の前でバイバイと手を振った。
「あ、なんだ、やっぱヒロか・・・。そのかっこで行くの?」
ジュンはヒロの手にタッチをした。
「うん。」
そう言うと、ヒロはもう一つの手に持っていた黒縁の眼鏡をかけた。
ヒロが出ていくと、もう一度、さっきのヒロの姿を思い出してジュンはクスクス笑い出した。
「あいつ、すっげー地味!!」
ステージのヒロとの見た目のギャップが単純に可笑しかった。一通り笑って、ジュンは仰向けになった。そして、ふと思う・・・。今からヒロが会いに行く子は、
「あっちのヒロと恋をしたんだな・・・。」
新幹線のプラットホームで、コウキは新幹線を待っていた。BEST FRIENDSのグッズのトートバッグを肩からかけている少女たちがチラホラ見える。3人前に並んでいる女の子はトートバッグにヒロの缶バッチを4つもつけている。コウキは大きく息を吸い込んだ。奈津に会ったら、言わなくてはいけないことがある・・・。そこまで考えて、コウキは首を振った。そんなこと、今は考えたくない。考えられない・・・。コウキは線路のずっと先を見た。そこに見える光景を思い浮かべるとコウキの心は躍った。奈津が自分の目の前にいる・・・眩しい笑顔で・・・。コウキは胸に手を当てた。「やっと・・・やっと会える・・・。」
奈津の父は、先日の土曜日に休日出張に行ったので、今日は、その振り替えで仕事が休みだった。久しぶりに遅寝で、まだ布団の中にいた。玄関から奈津の元気のいい声が聞こえてきた。
「父さ~ん。今日、夕方、ちょうちん祭りに行って来るね~!悠介に誘われた!だから、夜ご飯お願いね~!」
父は、布団の中から、
「お~い!わかった!」
と返事をした。すると、玄関が開く音と共に、再び大きな声がした。
「行ってきま~す!」
父は、布団からゆっくり体を起こすと、仏壇の母さんの写真に目をやった。そして、写真の母さんにボソッと話しかけた。
「母さん。奈津は悠介くんだったかな?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます