第27話 7月の太陽の香り

 クーラーによって涼しく保たれていた空気が開いた窓からすり抜けていく。代わりに夏のむせかえるような暑さをまとった空気が舞い込んできて、奈津の体を覆い始めた。奈津は手の甲で涙を拭うとゆっくり立ちあがった。目に入った砂も涙と一緒に流れたのか、痛みを感じなくなっていた。奈津は下を向いてうつろな様子で廊下まで出た。そして立ち止まると、大きく息を吸い込んだ。そして、両手をぎゅっと握りしめ、顔を上げ、唇をキッと結ぶと、突然廊下を走りだした。


 マネージャーの仕事が一段落し、まなみと詩帆は並んで立つと、一緒にゲームを見ていた。日はだいぶ落ちてきたが、7月の夕方はまだまだ明るい。昼間グランドが蓄えた熱が容赦なく部員たちを襲う。汗と土埃が混じり合って、部員たちの顔も練習着も真っ黒に染まっている。マネージャー二人の目の前で、右へ左へボールが行き交い、一つのボールを奪い合う迫力のある対戦が繰り広げられていた。

「みんな調子いいね。特に悠介、めっちゃ張り切ってる!ばんばんシュート打ってるじゃん!」

まなみは横で見ている詩帆に話しかけた。

「ほんと!なんかシュートの決定力も上がってますね!」

詩帆がそう言うのと同時に、

ボゴッ

ボールを蹴る大きな音がした。鷹斗から中盤でボールを受け取った悠介が2年生を一人かわし、シュートを打った。キーパーはボールに届かず、ボールは見事にゴールに突き刺さった。

「ピーッ。」

悠介のシュートを合図に、ゲーム終了を告げる笛が鳴った。部員たちは笛の音と共にその場で止まると、ドリンクが置いてあるこちらに向かって、それぞれがゆっくり歩き始めた。みんな、肩で息をするくらい息もあがっていて、足もズルズル引きずるように歩いている。悠介はウエアの裾から両手を入れるとその裾を顔の所まで引き上げ、顔の汗を拭いた。これは顔の汗を拭く時に悠介がよくやる動作だ。本人は小さい時からの癖で無意識にやっているのだが、ウエアをあげた時に一瞬見える腹筋が、生徒たちの間では話題になっていた。でも、当の本人はそのことに関してあまり関心がなく、「見られたって減るもんじゃないし。」と全くもって無頓着だった。ウエアで汗を拭くのは、タオルもいらず手っ取り早い・・・悠介にとってはただそれだけのことだった。

「わ、ますますすごくなってない?あいつの腹筋!悠介、ここんとこ筋トレも以前にも増して本気らしいよ。西宮に当たり負けしないように、上半身もっと作るんだって。和田が言ってた。」

まなみは平然とシラッとそう言ったが、詩帆は、

「そうなんですね。」

と返すのが精一杯だった。悠介がウエアで汗を拭くのは毎度のことなので、悠介がウエアの裾に手を入れた瞬間、詩帆は目をそらして、別のことをするようにしている。以前、悠介の腹筋を直視してしまった時、詩帆は顔にパンチを食らったボクサーのように衝撃を受けて、しばらく心臓がバクバクして止まらなくなってしまったのだ。そのことがあってからは、悠介の腹筋を見ないように見ないように、細心の注意を払っていた。それなのに、今日は、まなみと話をしていて油断していた。「しまった。気を抜いてた。先輩の腹筋、モロに見てしまった・・・。」詩帆は自分の表情とか、動きとかが、なんだかおかしくなってるのが分かった。そして、悠介の腹筋を直視してしまったことを今さらながら後悔していた。詩帆は心臓のバクバクを懸命に隠して、平静を装いながらまなみとドリンクボトルの準備に取りかかった。そして、到着した部員たちに順番にドリンクボトルを手渡した。部員たちはボトルを受け取ると、すぐさまボトルに口をつけ、乾いたのどに水を流し込み始めた。詩帆が下を向いて次のボトルを取ろうとしたとき、視界に黄色いスパイクが入ってきた。

「うわ!悠介先輩・・・。」

詩帆はは顔を上げることができない。下を向いたまま、黄色いスパイクの悠介にボトルをサッと手渡した。悠介がボトルを受け取り、ドリンクを飲み始めるのが気配で分かった。詩帆の心臓はますます早く動き始めた・・・。その時だった。突然校舎側から大きな声がした。

「タムラコウキ!!」

びっくりして詩帆は振り返った。横でドリンクを渡していたまなみも、無心でドリンクを飲んでいる部員たちも、そして今、ボトルを受け取ってドリンクを飲み始めたばかりの悠介も、みんな一斉に声のする方を見た。

・・・声の主は奈津だった。

奈津は、自転車置き場から自転車に乗って出てきたコウキの背中に向かって大きな声で名前を呼んだ。グランドの状況も周りの様子も奈津の目には入っていなかった。ただ、奈津の目に映っているのは、自転車で走り去ろうとしているコウキの背中だけだった。奈津の声に気づかないのか、聞こえているのに無視しているのかは分からなかったが、コウキの自転車は止まらなかった。自転車は何ごともなかったかのように奈津を置いてけぼりにして、走り去ろうとしていた。奈津は、握った両手にもっと力を入れた。そして、たまたま近くに転がっていたサッカーボールが目に入ると、それに向かって助走をし、そのままそのボールを思いっきりコウキに向かって蹴っていた・・・。その光景を目にしているみんなは思わず息を飲んだ・・・。

ポンッポンッポンポン・・・

サッカーボールはコウキの顔のすぐ横を通り過ぎ、道の数メートル先に落ちるとバウンドして転がっていった・・・。

「あっぶな。」

コウキは首をすくめてびっくりすると、その拍子に自転車がよろけたので片足をついた。

「タムラコウキ!」

背後から誰かが名前を叫んでいる。コウキが振り向くと、それは奈津だった。奈津が自分に向かって駆け寄って来ている・・・。そして、コウキの横まで来たかと思うと、奈津はいきなりコウキの胸ぐらを掴んだ。

「ふざけるなって?こっちがふざけるなよ!!何、怒ってんの?」

奈津はコウキに顔を近づけると、大きな目をもっと大きくして、キッとコウキをにらみつけて啖呵を切った。そして、

「手玉に取る?わたしが?」

と呆れた顔でそう言うと、奈津は胸ぐらを掴んでいる手に一層力を入れた。奈津はコウキの眼鏡の奥の目を鋭く見据えた。

 コウキは奈津の勢いにのまれて動けなかった・・・。奈津の目が自分を射貫く。奈津の怒っている目・・・。コウキは奈津の真っ直ぐな視線をそらすことができなかった。二人の視線が合わさる・・・。すると、今まで怒りの光を帯びていた奈津の大きな目に涙が溜まり始めた。胸ぐらを掴んでいる奈津の手も緩む。

「じゃあ・・・、じゃあ・・・、好きって、どうやって表せばよかったの・・・?」

奈津の声は消え入るようだった。奈津はコウキの胸元から払うようにして手を離すと、

「ごめん。もう、嫌がることしない・・・。」

そう言って、コウキに背中を向けた。そして、太陽の香りだけその場に残すと、奈津はサッカー部の方に向かって走り去って行った・・・。

「・・・奈津!」

コウキは走り去って行く奈津の名前を呼んだ。でも、もう、その声は奈津には届かなかった・・・。

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