第17話 7月の家出(1)

 蝉たちが大合唱を始めだした7月。梅雨明け宣言もあり、本格的な夏が始まった。奈津はハンカチでおでこの汗を拭きながら、靴箱で室内履きに履き替えていた。靴箱が混雑する時間にはまだ早いので、生徒たちはまばらだった。

「おはよう。」

奈津がスニーカーを靴箱に入れようとした時、背後から声をかけられた。その声に、一瞬スニーカーを持つ手が止まる。奈津が振り返ると、コウキが自分のスニーカーを脱いでいるところだった。

「おはよう!今日も暑いね。」

奈津はハンカチで顔を仰ぎながら笑顔であいさつを返した。こちらを向いたコウキが、

「ほんと、背中、ビショビショ!」

と自分のカッターシャツの背中をつまむと、「ハハハ!」と笑った。鈴がコロコロと鳴るように。ダンス発表会の日、あれから、奈津とコウキは以前のような2人に戻っていた。ただ、あの日以来、コウキと言葉を交わす時、奈津の心の中は様々な色を帯びるようになった。ドキドキもするし、ほっこりもするし、切ない感じもするし・・・。まさに、コントロール不能だった・・・。でも、そんな自分の心を奈津は嫌ではなかった。むしろ、愛おしい感じさえした。奈津はコウキの後を追うように教室に向かって歩いた。夏の廊下は、朝からまぶしいくらいの光でいっぱいだった。

 蝉が相変わらず、校舎の外で競うように大合唱をしている。朝のホームルームが始まるのを待つ時間、奈津は窓から空を見ていた。青空が空の隅々まで広がっている。奈津は両手をあげて伸びをした。光のシャワーを浴びているようで気持ちがいい。奈津が手を下ろすのと同じタイミングで木製のドアが勢いよく開き、いつものように、元気いっぱいに中野先生が入ってきた。

「モーニン!!エブリバディ!」

テンションの高さもいつも通り。

「モーニン!」

今日もみんなはバラバラと自分の好きなトーンで返事を返す。中野先生は教室をゆっくり見回すと、腕に抱えている冊子の束をみんなに見せた。

「6月に行ったセンター模試の結果が返ってきたわよ~!」

今回の模試の結果は、志望校決定の大きな目安にもなるので、自ずと教室には緊張感が走る。

「えー!!」

という声が、教室のあちこちからあがった。声の主の1人であるまなみは、すでに目をつぶって、お祈りのポーズに入っている。奈津も、もちろんドキドキだ。

「はーい!心の準備はいい?今から返すわね!」

そして、そんなみんなのドキドキなどおかまいなしに、中野先生は出席番号順に名前を呼び始めた。奈津は名字が「小沢」なので、出席番号が早い。3番目に名前が呼ばれた。

「小沢奈津」

「はい。」

奈津は席を立つと胸を押さえながらデータを取りに前に出た。中野先生は奈津と目が合うと、困った顔をし、首をかしげ、それから奈津にデータを手渡した。「悪かった・・・?」中野先生の表から、奈津は大体の予想がついてしまった。「Cには届かなかったのかな。もしかして、D・・・?」奈津は地元のY大学医学部志望だった。ここに行くと決めているので、他の大学も学部も書かず、Y大学医学部のみ記入していた。席に着き、恐る恐るデータの表紙をめくると、アルファベットが目に飛び込んできた。

「E」

パタン。奈津は表紙をすぐ閉じた。CでもDでもなく、一番合格の可能性の低い「E」だった。


 コウキは名前を呼ばれると前に出て、先生からデータを受け取ると、席に戻ろうとした。

自然と目が奈津に向く。するとそこには、データを閉じたまま、視線を宙に浮かしている奈津がいた。今日も朝からはつらつとはじけるような笑顔を見せていた奈津が、今は顔に血の気がなく、表情もなくなっている。データをもらった周りの生徒たちは、分析結果を一生懸命見ているのに、その中で、奈津だけが時間が止まったように微動だにしていない。コウキは席に戻るルートを変えると、奈津の横をわざと通るようにした。そして、通り過ぎる時、奈津の肩にポンと手を置いた。少し力を込めて・・・。奈津に触れた自分の手が、奈津の不安を少しでも受け取れたらいいのに・・・そんなことを考えながら。


 「1年の時から頑張ってて、この時期、この判定って・・・。」

奈津の頭の中に「無理」の二文字が増殖してくる・・・。

「無理って思っちゃだめだ。あきらめちゃだめ。大丈夫、大丈夫!きっと大丈夫!」

奈津は呪文のように心の中で自分に言い聞かせる。何度も何度も・・・。でも、何度言い聞かせても、「無理」の二文字が増殖して真っ暗な闇をつくる・・・。明かりの見えない真っ暗なトンネルのような場所。右も左も上か下かも分からないそんな場所に奈津は独りぼっちで迷い込んでしまった・・・。出口を探すのに必死で、肩にポンと置かれた温かい手のぬくもりも力強さにも、今の奈津にはまったく気づくことができなかった。


「おーい!奈津!聞いてる?」

お弁当を食べながら、心配そうにまなみが奈津の顔の前で手を振る。さっきから奈津がうつろな目でお弁当のおかずを箸でずっとつついている。

「模試の結果悪かったの?結果もらってからドヨーンとしてる。」

「あ・・・うん・・・。悪かった。でも、大丈夫、大丈夫!落ち込んだってしょうがない。それに、落ち込んでる暇なんかないない。」

そう言って、奈津は笑う。

「それはそうと、文化祭楽しみだね!加賀くんたち優勝したから、またBEST FRIENDSのダンス見れるね!」

奈津が突然思い出したように話し出した。まなみは奈津の空元気とは分かっていたが、きっと、今は何を言っても慰めにはならない気がして、そのまま奈津の話題を続けた。

「文化祭前になったら、もっと詰めて練習するみたいだけど、今は、時々みんなで合わせるくらいって言ってた!でも加賀は、はしょってたヒロの足のステップを文化祭までにはマスターするってはりきってたわ~!」

まなみはそう言うと、唐揚げをほおばった。奈津は、つついていたおかずのハンバーグをひとかけら箸に挟むと、

「発表会の時もめっちゃ上手だったのに!まだ、上を目指すの?すごいなあ!!」

と言って、それからそれを口に入れた。

「加賀は・・・?学食行ってていないか。それじゃあ言うけど、奈津、BEST FRIENDS本人たちの動画見て!加賀、確かに上手だったけど、全然違うから!特にヒロ!超絶上手だから!もちろん、ヨンミンだって!」

まなみは箸にご飯を乗せたまま熱く語る。奈津は笑って頷いて聞いていたが、

「そうか、動画かあ。K-POP見たことないなあ。・・・でも、私、ますます見る余裕ないかも・・・。」

そう言ってため息をつき、ハンバーグをひとかけら食べただけのお弁当の蓋を静かにしめた。


 5時間目が始まろうといていた。みんなは席に着いて、現国の木村先生が来るのを待っている。コウキが奈津を見ると、奈津はまた、窓の外を見ていた。今日の奈津はいつもより外を眺めている時間が多い。ガラガラガラ。木製のドアが開くと木村先生が入ってきた。木村先生は定年間際のおっとりした男の先生だ。木村先生がゆっくり教壇に立った時、

教室の後ろのドアがガラガラガラっと控え目に開いた。中野先生だった。

「木村先生すみません。ちょっといいですか?」

慌てた様子の中野先生が木村先生の了承を得ると、

「小沢!」

と奈津の名前を呼び、奈津に向かって手招きをした。名前を呼ばれて、「私?」という顔をして自分を指さしている奈津に、中野先生はもう一度、

「そう、小沢。ちょっと来て。」

と言って奈津を呼んだ。奈津は立ちあがると、キョトンとした顔で、中野先生に促されるまま教室の後ろのドアから廊下に出て、そこで話を聞いた。

「今、野々宮小学校から電話があって、弟さんが昼休みに学校を飛び出したきり、帰ってこないんだって。小沢のお父さんの勤務先にかけたら、お父さんは出張でいないらしくて、それじゃあ、お姉さんに知らせようってことで、うちの高校にかかってきたのよ。状況がよくつかめないから、とにかく小学校行ってみなさい。」

中野先生は知っているだけの事情を奈津に説明するが、奈津は突然のことですぐには飲み込めない。

「え、凛太郎が学校を飛び出したんですか?どうしてですか?何かあったんですか?」

奈津は中野先生に噛みつくような勢いで訊いた。

「それが電話じゃよく分からないのよ。とにかく、すぐ行ってみなさい。」

先生のその言葉に、奈津は無言で頷くと、青ざめた顔で口を固く結び教室に戻った。そして、自分のロッカーから鞄をとりだすと、そのまま振り向きもせず、教室を後にした。中野先生は教壇に行くと、小声で木村先生に簡単に事情を説明した。

「奈津、大丈夫ですか?」

まなみが訊いた。廊下で話していたとはいえ、奈津の声が大きかったので、まなみの席まで所々内容が聞こえてきた。どうも、奈津の弟に何かあったらしい。

「ちょっとね。さっ、小沢のことは大丈夫だから、みんなは勉強、勉強!」

そう言って、ドアの所で木村先生に礼をすると、中野先生は職員室に戻って行った。

「はい、皆さん、いいですか?それでは、現国を始めます。教科書132ページ。小説の冒頭部分だけ読んでもらいましょう。廊下側の・・・」

それまでのバタバタを落ち着かせるように、いつもよりも更にゆっくりした調子で、木村先生が授業を始めた。教壇にはってある座席表で名前を確認すると、

「廊下側、一番後ろ、タムラコウキ君。読んで。」

と言った。しばらく沈黙が流れたが、何事も起こらないので、もう一度、木村先生は教科書を見たまま、

「タムラ君、読んで。」

と促した。すると、

「先生、タムラ君いません。」

と誰かが言った。その言葉に驚いて、まなみが後ろを振り返ると、さっきまで席に座っていたはずのコウキが、いつのまにかその場所から消えていた・・・。

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