第10話 6月の笑顔
詩帆の家は山口東高校の近くの住宅地に建っていた。高校まで徒歩20分。詩帆は今朝も黄色のリュックを肩にかけ、徒歩で高校に向かった。詩帆の通っていた白川中学校と山口東高校が道路を挟んで向かい合わせに建っている。詩帆はその間の道を足取り軽く歩いていた。
「昨日の試合すごかったな~。」
詩帆は、昨日の試合をもう何回も頭の中でリピートしている。正確にう言うと、悠介先輩のシュートシーンを・・・だが。詩帆は白川中学校の校舎の3階に目をやった。朝日が校舎をまぶしく照らしている。そして、その視線を山口東高校のグランドに向けた。あの3階の音楽室から山口東高校のグランドを毎日見てたっけ・・・。見ているだけで本当に幸せだったなあ。詩帆は中学時代を振り返っていた。そう言えば、あれからもう3年も経つんだ・・・と、ふっと、詩帆は中学1年だった、夏休みの日の事を思い出した。
「こんにちは・・・。」
遠慮がちにそうっと塾の自習室に入ると、詩帆が一番乗りだったらしく、他には誰もいなかった。蝉がうるさいくらい外で鳴いている。時計がちょうど1時を指していた。隣の学習室では塾の先生が何人かの生徒の勉強をみている声が聞こえる。中学1年生の詩帆はできれば塾には入りたくなかった。しかし、期末テストの順位が中間テストの順位よりかなり落ちてしまったので、心配した詩帆の母が案内を取り寄せ、この塾の夏休み講座に通うことになったのだった。講座を受ける事前説明で、学習日以外でも、自習室は塾が開いている時はいつでも使っていいということだった。夏休み中は合唱部が午前中にあり、夕方5時からはクラッシックバレエのレッスンが入っているので、その間の時間に学校の宿題をしに塾の自習室に初めて寄ってみたのだった。
「宿題が~。」
詩帆はぶつぶつ言いながら、学校から出ている夏休みの課題ノートをめくった。中1の最初の方の単元の「正の数、負の数」だった。
「この辺はできるんよ。だけど、問題は次の『文字と式』~。」
そう言いながらも、まだまだ簡単なところだったので、スラスラと問題は解けた。ノートが2ページ目の終わりに来たときに、自習室のドアが乱暴に開き、ガヤガヤと5人の男子が入ってきた。
「あっち~!!」
「さっき食べたけど、もう腹減った~!!」
「夕べのゲームさあ、たつや、やばくね?」
5人はそれぞれが思いついたことを大きな声で話すので、自習室は途端に騒がしくなった。詩帆がいることなどおかまいなしだ。でも、見たところ、中2か中3らしいので、中1の詩帆が何か言えるわけはなかった。先生は隣の学習室にはいるが、勉強を教えるのが忙しいのか、自習室はのぞかない。それをいいことに、5人の男子たちのおしゃべりはだんだんエスカレートしてうるさくなっていった。盛り上がった一人の男子が席をたち、隣に座っている男子にヘッドロックをかけ始めた。詩帆は圧倒されたのと、怖いのとで、端っこの席で固まって動けなくなってしまった。その時だった。ドアがゆっくり開いたかと思うと、のんびりとした低い声が響いた。
「静かにしろよ~。ここ、自習室だぞ。」
真っ黒に日焼けした背の高い男子が入ってきた。
「あ、悠介。」
ヘッドロックをかけてる方の男子が自習室に入ってきた男子の名前を呼んだ。そして、ヘッドロックをかけていた手を緩めたかと思うと、
「あ、ちょっと盛り上がっちゃって・・・。なあ!」
と他の4人に同意を求めながら自分の席に戻った。
「みんなの自習室だぞ。よく考えて使えよ。」
とその悠介と呼ばれる男子は5人に声をかけた。特に怖い怒ったような声ではなく、ソフトなハスキーボイスだったのに、5人には効き目があったらしく、急に静かになったかと思うと、鞄から参考書や問題集をゴソゴソ取り出すとそそくさとやり始めた。それから、悠介と呼ばれる男子は詩帆のところまで来ると、
「大丈夫?1年生?」
と訊いてきた。声をかけられて初めて、詩帆は自分が震えていることに気がついた。
「すっごい震えてるなあ。もしかして、オレが怖いとか?ハハハ!大丈夫だよ。オレ、女の子にはめっちゃ優しいから。」
そういうと、悠介は白い歯を見せて優しく笑った。詩帆はその笑顔を見て、なんだか、また余計に固まってしまった。
そこまで思い出すと、顔が赤くなってきたので、「ふ~、いけん、いけん。」と手でぱたぱたと顔を仰いだ。その時、
「詩帆ちゃん、おはよ~!」
後ろから、元気な声が聞こえた。振り向くと奈津先輩だった。
「あ、おはようございます!!」
奈津先輩は自転車の速度を落とすと、詩帆の横で自転車から降りて詩帆と一緒に歩き始めた。まずは、二人で「ぎゃ~!」と昨日の勝利を喜び合った。思い思い一通り話をして一息つくと、詩帆は自転車を押す奈津の横顔を改めて見た。意志の強そうな大きな目。形の整った鼻、小麦色の肌にショートカットの髪。普通に「綺麗だなあ・・・。」と思う。その横顔を見ていたら、詩帆は自分でも思いもよらない質問を口にしていた。
「奈津先輩は・・・悠介先輩と付き合ってるんですか・・・」
それを口にしてしまってから、詩帆は思わず手で口を押さえた。見てるだけで幸せって思ってるはずなのに・・・。悠介先輩が誰を好きでも、誰と付き合ってても、ただただ、サッカーしてたり、友だちとじゃれ合ってたり、そんな悠介先輩を近くで見られたら、それだけで幸せって思ってるはずなのに・・・。こんなこと訊いて、わたしどうしたんだろう・・。短い髪をサラッとなびかせて、こっちを振り向いた奈津先輩は、プッと吹き出していた。
「詩帆ちゃんもそれ信じてた?」
詩帆は恐る恐るこっくんとうなづいた。
「なんか、みんなにそう言われるんだけど、本当にただの幼なじみってだけだよ。ずっと同じクラブチームだったし、仲がいいのは認めるんだけどね。わたしも悠介も、悲しいかな、ずっとどフリー。」
奈津は手で目を押さえ泣くまねをした。すると、横を通り過ぎる自転車が通り過ぎざまに奈津の頭を小突いた。
「朝から何泣いてんだよ!詩帆ちゃん困ってんぞ。」
悠介だった。
「イッタ!!悠介!!コラッ!」
奈津が走り去る悠介に向かって叫んだ。こんな光景は日常茶飯事だった。詩帆は分からないようにズーン・・・と落ち込んだ。心の中で「何が見てるだけで幸せよ~!」と自分にツッコミを入れながら。奈津先輩がどう言ったとしても、二人の仲の良さは恋人級だった。誤解をするなという方が難しい。
「おはよう。」
と今度は、詩帆の知らない男子が奈津に声をかけて通り過ぎていった。
「おはよう!・・・え、あ・・・コウキ!!」
奈津は思わずあいさつしてから、声の主が誰だが分かると慌ててその後ろ姿に向かって声をかけた。コウキは奈津から声をかけられて、一瞬間を開けたが、自転車をとめると振り返った。悠介の後に会ったからか、詩帆は、色白で黒縁眼鏡のこの男子が一段と地味に感じられた。でも、奈津は、振り向いたコウキと目が合って、なぜか不思議なくらい動揺していた。
「あ、ごめん、ごめん!何でもない!おはよう!!」
そう言って、動揺してるのを見せないように笑顔を返した。
「おはよう!そうだ、昨日はサッカーおめでとう!よかったね。」
コウキ・・と呼ばれたその男子はそう言うと、眼鏡の奥の目を細めて笑った。
「あ、ありがとう!」
奈津はそれにはじけるような笑顔で答えている。コウキが行ってしまっても、そっちの方向を呆けたように見ている。いつも毅然としてる奈津のこんなうろたえっぷりを見るのは、詩帆は初めてだった。奈津のまぶしい笑顔を見て、詩帆にはピン!とくるものがあった。詩帆は自分の勘が当たっている気がした。でも、奈津先輩は気づいているんだろうか・・・。ううん・・・先輩のことだ、気づいてない。コウキ・・・という人も他の人も、わたしと同様、本人たちの気持ちがどうであれ、悠介先輩と奈津先輩の朝からラブラブな様子は、どう見ても超仲のいい恋人同士・・・にしか見えないっていうことを・・・。詩帆は、なんか嬉しそうにはにかんでいる奈津にはとても言えず、心の中でため息をついた。
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