第86話
希久美は、自宅の電話の受話器を置いた。
「誰からなんだ?」
義父が興味津々に、しかしさりげなさを装って希久美に問いかけた。
「この前過労で倒れた同僚のおばあちゃんからよ」
「なんで?」
「この前お見舞いに行ったから、お礼の電話よ」
先週、泰佑は退院した。おばあちゃんは、お礼とともに、今は生活に落ち着きを取り戻して元気に働いていると報告してくれた。
「なんで本人じゃなくて、おばあちゃんなんだよ?」
義父に説明は難しい。泰佑は菊江との約束を忠実に守っているのだ。
「もう…。お義父さん、うるさい。お母さんなんとかしてよ」
希久美が自分の部屋に逃げ込もうとする背中に義父の言葉が追いかける。
「来週末、石嶋君を家に呼んだから、おまえも家に居ろよ」
希久美が立ち止まった。そして振り返るとものすごい剣幕で義父に言い返す。
「なに余計なことしてるの!」
あまりの剣幕に、さすがの義父もからだをこわばらせる。台所から希久美を叱る母の声がした。
「でも母さん、お義父さんの魂胆、見え見えよ」
希久美は大きな音を立てて、自分の部屋に駆け上がった。荒々しくドアを閉めると、ベッドに倒れ込んだ。
「元気に働いている…か。元気な泰佑を、周りの女の子がほっとくわけないしね…」
枕に顔を埋めながら、希久美はつぶやいた。
石嶋は、ユカを寝かしつけるために部屋の明かりを消した。
外が妙に明るいなと窓を見ると、煌々と月が青白い光を放っていた。反射しているだけなのになんであんな明るいんだろう。今日の月は、夜空の星を従えた王様のようだ。石嶋はふと青沼専務を思い出した。彼に、明日の土曜に自宅に来いと呼ばれたのだ。すると、次にすごい剣幕で怒っているナミ先生の顔が浮かんできた。
『おい、石嶋隆浩。お前の想いはどこにあるんだ』
そうだよな、そろそろ自分の想いがどこにあるのか結論を出さなければいけない。ここに泰佑がいてくれたら相談できるんだけどな。病院で会った以来、あいつなんだか自分を避けてるみたいだ。
ふと、ベッドを見るといつの間にかユカが半身を起こして石嶋をじっと見つめていた。
「どうしたユカ?」
ユカが心配そうに石嶋の顔を覗きこんでいる。そして、小さな手を石嶋の額に当てた。
「ははっ、大丈夫。ヒロパパは病気じゃないよ」
ユカが枕の下から、ゴムチューブにつながった紙コップを取り出すと、片方を耳に当て、そしてもう片方を石嶋に向けた。
「すごいな、手作りの聴診器か?ユカもお医者さんになるのか?」
ユカがうなずいた。
「それじゃ折角だから、診てもらおうかな…」
石嶋は分厚い胸をユカに差し出し、ユカはパジャマの上から手作り聴診器を胸にあてた。
「なあ、ユカ。ヒロパパの心臓の音が聞こえるかい?」
ユカは首をかしげている。石嶋はそんなユカの仕草が可愛くて仕方がなかった。
「もし聞こえたら、ヒロパパの心臓が、何と言っているか教えてくれないか」
ユカは胸をあきらめて、今度は石嶋の左手を取った。脈を採っているようだが、手を添える位置が全然ずれている。
「ユカはよく知ってるなぁ。そこでも心臓の声が聞こえるんだよね。聞こえるかい?」
今度はユカが笑顔になって力強くうなずいた。
そして、石嶋の左手首にゴムのリボンをはめたのだ。石嶋はそれがなんであるか憶えていた。ナミ先生がユカに買ってくれたシュシュだったのだ。
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