第52話

「ねえ、みんなもう飲み会の会場へ移動しちゃったよ…」


 外野のファールグランドの芝生で、希久美が横たわる泰佑に付き添っていたが、泰佑は片腕で両目を覆いながら返事もしなかった。


「まだ身体が痛くて動けないの?それとも負けたことが悔しくて動けないの?」

「黙れ、この苦しみは、女のお前にはわからない…」

「泰佑が悪いんでしょ、いきなり抱きついたりするから…」


 泰佑が目の上の腕をほどいて半身を起こし希久美を睨みつけた。希久美が泰佑からの攻撃に備えて身構えるも、やがて彼も何かを言うのをあきらめたように、またもとの姿勢に戻る。

 希久美は、攻撃がないので身体をリラックスさせ、遠くでおこなわれているソフトボールの試合を眺めた。


「でも、野球って今まで見るばっかりだったけど、やっぱりやった方が面白いわね」

「今日やったのはソフトボールだって、わかって言ってるよな」

「でもさ、球を自分の思うところに投げられるようになったら、もっと面白いと思うわ」


 希久美は、手にボールを持って握りを確かめた。


「その方が、泰佑もリードしがいがあるでしょ」


 泰佑が腕の隙間から希久美を盗み見する。


「わかってないな。リードは、ピッチャーに球を投げる場所と球種を指示することじゃない」

「どういうこと?」

「所詮、結果を考えて投げる球では、打者を抑えることなんてできない。活きた球じゃなきゃ打者を抑えられないんだよ」


 泰佑は肘を立てて半身を起こした。


「活きた球は、ピッチャーが先を考えず、今のこの一球を楽しんで投げることにより生まれる。それを作り出すことがリードなんだ」

「誰の受け売り?」

「うるさいなぁ。俺の哲学だよ」


 泰佑が寝返りを打って、反対の方向を向いてしまった。


「すねないで、続けて。もう茶化さないから」


 泰佑はそのままそっぽを向きながら話し始めた。


「キャッチャーにとって、活きた球を受けることは快感だ。今まで多くのピッチャーの球を受けてきたが、自分を感じさせてくれる投手はそう多くない。高校時代にひとりいたくらいかな…」


 希久美の目に、高校の野球グランドの片隅で投球練習に励むバッテリーの姿が思い浮かんだ。


「でも…今日は試合には負けたけど、久しぶりに感じる球を受けられた気がするよ」


 希久美は芝生に横たわる彼の背中をしばらくの間見つめた。


「ねえ、それわたしのこと?」


 泰佑は答えない。

 投手として彼に接してみてつくづく思う。もし自分が男に生まれていたのなら、きっと泰佑とは無二の親友になれていただろう。


「柄にもないこと言いやがって…。顔を隠してるのは、痛いからじゃなくて恥ずかしいからじゃないの、泰佑」


 ニヤニヤしながら泰佑の顔を覗きこむ希久美。ばつが悪くなった泰佑が急に立ち上がる。


「いこうぜ。オキク」


 バッグを担いで、泰佑を追いかける希久美。


「タクシー乗り場までいかなくちゃ」

「時間も金ももったいない。ほら」


 泰佑がヘルメットを希久美に投げわたす。


「えーっ。怖いよ」

「黙って乗れ」


 泰佑は嫌がる希久美を無理やりバイクの後部シートにまたがせると、エンジンのセルボタンを押した。ヤマハFZ1の重厚なエンジン音が響くと、滑るように走り出す。コーナリングをいつもより少し倒し気味にした走行に、希久美がキャーキャー叫びまくる。


「うるさいなぁ。バイクは倒さなければ曲がらないんだよ!」


 泰佑の意地悪なライディングに、希久美は考え付くあらゆる悪態をつきながら、必死に泰佑の身体にしがみついた。希久美は泰佑の広い背中に密着しながら、渋谷で会ったあの日以来久しぶりに、泰佑の『男』を感じていた。今日ほど、泰佑と触れあった一日はなかった。

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