第2話 夏休みの宿題
「日菜多ちゃんは偉いねぇ。うちにも女の子が欲しかったわぁ。うちは裕翔だけだから」
神社のおばさんは大変口うるさかったが、そう褒められるほどに、日菜多は猫を被っていた。
食事の後の食器は台所まできちんと下げる。好き嫌いもしない。魚の骨にも怯まず煮魚に箸をつけた。おばさんが洗濯物をたたむたび、風呂を沸かすとその重たげな腰を上げるたび
「私もしようか?」
と顔を上げる。
街の家で、母にそんなことを言ったことはなかった。
小学生ながら、この神社に、よその家に預けられている立場を自覚しているつもりだった。
そんな日菜多を見るたび、おばさんが食事の席で日菜多を褒めるたび、神社の息子である裕翔は「ふん」と鼻を鳴らし、わざとがちゃんと食器を置いた。
しかし、日菜多の猫かぶりはわずか3日で疲れてしまった。
夏休みとは思えないほど早くに起こされ、布団をたたむ。上等の布団は厚く、日菜多の手で畳むのは一苦労。それがゆきなつ神社の朝だった。
けれどその日は突然糸が切れたように疲れてしまい、白々とした朝日を浴びながら、布団も畳まず寝間着のままで、ぼんやりと座り込んでしまった。しくしくと腹が痛み、背が丸まる。
おばさんの再三の呼びかけでようやくのろのろと着替えを済ませ、髪に櫛を通したときにはもう腕が重い。
朝食の席で、初めて米を残した。
「どうしたの」と尋ねられたけれど、お腹が痛いとはいえない。首を振るだけで、日菜多は押し黙った。おばさんが眉をひそめたが、見なかったふりをする。
食器洗いも手伝わず、うろうろと廊下を渡る。古い家で、襖も壁も家具も、日菜多の住むマンションよりずっと色褪せている。それなのに窓に面した廊下だけは初めて見るほどに長く、つやつやと飴色に磨かれているのが不思議だった。
この3日間、充てがわれた離れの部屋と、食事をする大座敷、台所に御手洗い、お風呂場ーー最小限の部屋にしか行かず、広い屋敷の奥やいくつも並ぶ襖の向こうの部屋へ進んだことはなかった。軽い冒険気分だ。浅く痛む腹を撫でながら、日菜多はぼんやりと歩き続ける。
物音がしたので、開いた襖をひょいと覗くと、彼も朝食を終えていたのか、裕翔が体に似合わない大きな机に向かっていた。
この神社で唯一、日菜多以外の子どもだ。
1日目からあまりにおばさんが日菜多を褒めるので、すっかり臍を曲げられ、なんとなく避けてしまっていたが、本当はずっと話をしてみたかった。
歳下の男の子なんて、今までの日菜多の人生に縁のない生物だったが、きっと同い年の女の子よりは優しいだろう。思い切って部屋の中へ入った。
「何をしてるの?」
そう問いかけて、勝手に隣へ座る。ざらりと足の甲を擦る畳の感覚は、この3日間ですっかり慣れたものだ。何をと問うたものの、その答えは聞いているうちにわかった。
裕翔が向かっている机には、夏休みの宿題が広がっている。ドリルに書かれた学年は日菜多の一つ下、小学4年生だ。
「なに、まだ宿題終わってなかったの?」
ちょっと得意になった日菜多だが、
「うるさいなぁ。お前は終わったの?」
という反駁に、つきりと腹が痛む。
「まだ。夏休みのね、一行日記。あれ7月の最初の一週間しか書いてないの」
懺悔のように息を潜めてそう告げると、裕翔は歳下らしかぬ偉そうな声で笑った。
「なぁんだ、猫かぶり。そっちの方がやばいじゃん。終わらないやつじゃん」
「それ以外は終わってるもん!」
げらげらと笑う裕翔に、日菜多は仕返し、と転がっている鉛筆を手に取り、ノートに落書きをしてやる。
「邪魔するな」「邪魔してない」と言い合って、鉛筆を武器に、ノートの上で応戦し合う。
戦いの決着が着く頃にはすっかり、腹の痛みを忘れてしまった。
「答え、教えてあげようか」
善意のつもりでそう声をかけたが、「うるさい、いらない」と一蹴され、その通り裕翔は速やかに最後の一問を解き終えた。覗き込むと綺麗に赤丸ばかりだ。日菜多はつい、「日付書いてないよ、解いた日付書かなきゃ」とあげつらう。裕翔はふんと鼻を鳴らすだけで取り合わない。
なんとかこの歳下を従えねばと、謎の使命感を持った日菜多は、お姉さんの口調で「宿題終わったからジュース飲もうよ。お台所で貰ってきてあげる」と立ち上がった。初めて裕翔がにっかりと衒いなく笑ったので、二人連れだって台所へ向かうことにした。
台所は無人だったので、何も言われず子どもたちは冷蔵庫からラムネを取り出すことができた。裕翔の勉強部屋に戻って、炭酸に喉を鳴らす。
「ねぇ」と日菜多は裕翔に呼びかけた。
ラムネを飲んでいる裕翔はたいそう機嫌がよく、今ならきっと答えてくれるという確信があった。
「ここに来た時にね、森の中に浴衣の大人がいたの。あれ誰?」
「浴衣?」
「そう、浴衣でね、髪がくるくるの人。おばさんに聞いたら、気にしなくていいって言われたのよ」
大人が隠すものならばきっと楽しい人に違いないのだ。
「ここに来た時に会ったんだけど、あれから全然姿が見えないの、ここの家の人?」
わくわくしながら、日菜多はそう言い募る。
だが、裕翔はなんてことないように「怠け者だよ」と答えた。
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