第478話 エンパシー

 ――私……出来損ないなの……だから――


 アイシャと精神感応が始まった時、最初に奔流のように飛び込んできたのは、そんな悲しい気持ちだった。それは途轍もなく恐ろしくて、怒りに満ち、そして自らを恥じていて、不安と後悔にまみれた感情だ。


 彼女の心には、大きな穴がぽっかり空いていた。そのせいで身体がバラバラになりそうだというのもよく分かった。

 だってアイシャは、本当は自分の心を自分自身でギュッと握り締めていたいのだ。

 だけど掴もうとするその心が隙間だらけのせいで、彼女は自分自身の心なのに、それを一掴みで抱きかかえることができないのだ。

 だからどうしても、その指や、その腕の隙間から、ボロボロと別の感情が零れ落ちてしまう。そして、そんな風に零れ落ちる感情に限って、アイシャがそうありたいと願う気持ち、大事にしなきゃと思っている暖かいものばかりなのだ。

 だから手元に残るのはいつも、恨み、辛み、妬み、そねみ、怒り、憎しみ、そして――殺意ばかり……


 士郎は何の準備もなくそんな感情に当てられて、思わず胸が張り裂けそうになる。息ができなくなり、苦しみで圧し潰されそうになる。


 ――アイシャ……君はなぜ……そんなに自分を傷つけるんだ……!?


 士郎は思わず彼女に問いかける。だってそれは、あまりにも自分を否定する感情だったからだ。


 ――なぜ……!? そんなの決まってるじゃない……私がまるで駄目な出来損ないだからよ……


 ――アイシャが出来損ない? どうして?


 ――だって私は、リーチャチャにせっかく救い出してもらったのに……あの人の期待にまったく応えられていないもの……


 ――期待って何? それに応えられないと、どうして駄目なの!?


 その途端、またしても士郎の中に、アイシャの感情が迸った。それはとても激しい濁流だ。


 士郎には、アイシャがゴミのような場所にうずくまっているのが見えた。そこは汚物に塗れ、一切の光が差さず、喜びとか、感謝とか、敬意とか、そうした肯定的な感情とは全く無縁の暗闇だ。

 そこではむしろ、さげすみ、あざけり、卑屈、恨み、辛み……そんな否定的な感情が渦巻いていて、アイシャはその泥沼の底で息も絶え絶えにもがいている。


 だが、そこに降りてきたのは一本の枝だ。


 その枝は、気がつくとアイシャの身体に絡みつき、そしてこの汚濁した泥濘からアイシャをグイと引っ張り上げる。その途端、アイシャの身体はとてつもなく軽くなり――だが、枝は彼女の身体を別の場所に叩きつけた。それでも――


 それでもアイシャは幸せだった。その泥濘から引きずり出してくれただけで、十分だった。

 泥を洗い流すと、アイシャの心が現れた。それは球形をしていて、そう――ちょうどビーチボールみたいな大きさだったけれど……大半は蝕まれ、穴だらけだった。

 それはスカスカで、えっと……例えるなら、ヘチマの実で作ったタワシのような……つまり、繊維ばかりで実の部分がまったくない感じ。

 けれど、光がその隙間に別の何かを埋め込んでくれた。アイシャの心の球は、元通りの綺麗な球形になったのだ。

 なんて気持ちがいいんだろう――


 光が埋め込んでくれたその別の何かは、アイシャにとってまるで渇きを癒してくれる甘露のようだった。

 その甘露にはいろいろな色があった。それは時として赤黒い、少しグロテスクなものもあったけれど、それでもアイシャはまったく心配しなかった。だって、自分にはキラキラした光がずっと注がれていたから――

 少しくらいグロテスクな部分が混じっていても、その光がすべてを覆ってくれる。私の心はだから、とても綺麗だったのだ。

 大丈夫――これは私にとって、必要なもの……なくてはならない、私という存在を新しく形作ってくれるかけがえのないもの……

 だが――


 やがてその甘露は、アイシャの心の残りの繊維を徐々に蝕んで、そして時折バキリとそれをへし折ってしまうのだ。そのたびに、アイシャの綺麗だった真ん丸の心は、醜く凹み、歪んでいった。

 あぁ……ごめんなさい……私のせいだ――


 私が上手くやれないせいで、綺麗な真ん丸だったはずのこの球が、いびつに歪んでしまうのだ。駄目な子だ――

 私、やっぱり駄目な子なんだ。ごめんなさい……ごめんなさい……!


 ――だから私は、自分自身を呪った……自分自身を憎んだ……


 ――上手くやれなかったから……!?


 ――そう。せっかくチャンスをくれたのに、私はその期待に応えられなかった……


 ――だから周りを傷つけるの?


 ――傷つける!? 私は、ただ必死に私の心を修復しようとしていただけ……


 ――何のために!? リーチャチャのため?


 ――当たり前。だって、私の心を綺麗な真ん丸にしてくれたのはリーチャチャだから。リーチャチャがせっかく作ってくれた丸い球を、元通りにするのは当然のことでしょ……!?


 ――なぜ丸くする必要があるの……?


 ――え……だって、丸い方が綺麗でしょ!? それに、丸い球はリーチャチャが作ってくれた理想の形だから……


 ――君はどう思うの? 本当に丸い球じゃなきゃいけないの!?


 ――だから! さっきからそう言ってるじゃない!


 ――丸い球がいいのは、君じゃなくてリーチャチャなんじゃないの? 君の願いは、本当に君自身のものなの……!? じゃあなんで君の元の心の繊維は枯れて……折れて、ひしゃげてしまったんだい?


 その瞬間――

 アイシャが激しく動揺するのが、士郎には分かった。そしてその感情は、容赦なく士郎を蝕む。


 これこそが、精神感応の恐ろしいところだった。相手の負の感情を、そのまま自分のモノとしてしまう。相手が傷つき悲しめば、自分自身も同じ感情に溺れてしまうのだ。


 あぁ……これじゃあネアンデルターレンシスが、ホモ・サピエンスに勝てるわけがないな――

 士郎はなぜか、アイシャとの同期をしている一方で、冷静に、客観的に今の状況を一歩引いて見つめている第三者的な視点の自分がいることに気付いていた。


 結局のところ、人間がこれだけ高度な文明社会を築いたのは、そのシステマチックな合理性にある。同情や共感といった曖昧なものではなく、きちんとルールを定め、一定の基準に基づいて物事の可否、是非を判断する仕組み。

 そんな社会では、当然ながら同情に値するような不運やアクシデントも無数にあったことだろう。現に今でも、社会の敗北者たちには、それぞれ同情すべき事情が大なり小なりあるものだ。


 だが同時に、だからと言ってそんな人たちすべてを救済することができないのもまた、人間社会なのだ。いや……それは人間に限らず、地球上の生物全般に見られる、一般的な習性であり、慣習だ。


 例えばメスを巡る争いに負けたオス。

 群れ動物の場合、遺伝子を残すことが許されなかったオスは大抵、早々に群れから追い出され、いわゆるはぐれものとなる。コミュニティの役に立たないからだ。


 例えば草食動物。

 捕食者に追い詰められた彼らは、誰か一頭が犠牲になることで群れ全体が逃げ延びる。“個”の犠牲により“集団”が生き永らえるのだ。そんな時に、その個体にいちいち同情していては、種の存続が危ぶまれる。

 これらはすべて、種全体の生存のための、システマチックなルールなのだ。


 話を人間社会に戻そう。

 たとえば伴侶を得られなかった/意図的に得ようとしなかった者は、自らの子孫を残すことなく、そこでその遺伝子の長い長い旅に終わりを告げる。

 大半の人は自覚していないが、あなたの身体を形作るその遺伝子は、数万年前の誰かから、連綿と引き継がれてきた貴重なものなのだ。だが、あなたの代でそれは途切れる。


 そして、遺伝子の継承者――つまりあなたの子供だ――がいないということになると、人間社会は急にあなたと疎遠になる。

 子供がいないとあまりピンと来ないかもしれないが、だったら子供のいる人に聞いてみればいい。子供が生まれた途端、どれだけ濃密に、コミュニティと関わるようになるか――

 乳幼児健診から始まって、幼保、小学校、中学校、それらの周辺に広がるさまざまな社会の仕組み、福祉や医療などの制度――

 娯楽ですら、小さな子供ができた途端、出かける先も、観るものも変わるものだ。でも、その先にもちゃんと、子供のための設備が整えられているし、それをサポートする多くの人たちがいる。

 なんだかんだいって、人間社会が高度に完成されたコミュニティであることと、それが主に子供を育てるための仕組みであることを、きちんと思い知らせてくれるのだ。


 おっと……また脱線するところだった。ともあれ、人間社会はその個体がコミュニティの形成役割を終えた途端、そのシステムからは不要とされ、コミュニティの仕組みの外に置かれる。後は自己責任。後は野となれ山となれ――だ。


 人間社会の富に限りがある以上、社会のインフラがそちら優先になるのは当たり前だ。独身者が、歳を取るごとにだんだんと淋しさを感じるようになるのは、当たり前のことなのだ。


 だが、社会はそんな人たちに、いちいち同情しない。彼らにだって事情はあっただろうし、中には同情すべき理由もあるだろう。たとえば、子供が欲しかったのに、出来なかった人。

 そんな人たちにすれば、もしかしたら今の社会は理不尽極まりないかもしれない。扶養家族がいなければ、高い税金を取られる。でも、独身者が払った税金は、必ずしも独身者のために使われるわけではなく、むしろ福祉や教育に使われる可能性の方が極めて高いのだから。


 だがいっぽうで、そういう割り切りこそが人間社会の強みであるともいえる。一定のルールに基づいて、その規格に見合う個体はコミュニティに支えられながら一定の生活を営むことが出来る。

 裏を返せば、その規格の外に外れた者を切り捨てることで、コミュニティの水準をようやく維持しているのだ。そうやって高度な社会を築いてきたお蔭で、今ようやく人間たちは、一周回って弱者救済の道を拓くことができるようになったのだ。

 例えば老人福祉。たとえば年金。

 あるいは、一定年齢までは不妊治療にもちゃんと補助が出る世界――


 だが、文明社会のレベルが低ければ、福祉などという概念はそもそも存在しないということを忘れてはいけない。

 人間のコミュニティは、そもそも弱肉強食の世界だ。強い者が上位に立ち、弱い者は搾取されるか、捨てられる運命。

 そういう意味では、人類はここまで自らの社会を高度化してきたことの、自分たちの今までの選択と判断を、ある程度誇ってもいい。


 だが――

 最初の段階で相手に丸ごと共感していては、このようなシステマチックな社会を築くことなど到底不可能だったかもしれない。同情と憐憫は、時に自分自身をがんじがらめにし、一緒に泥沼にはまり込む危険性を常に抱えているからだ。

 メスを獲得できなかった? でも可哀相だからずっと群れにいてもいいよ――

 子供を作れなかった? 群れの規模拡大には何の役にも立たないけど、でも可哀相だからいてもいいよ――

 敵を殺すのは可哀相だ!? じゃあしょうがない……殺さずにいるとまた襲われるかもしれないけど、でも殺したら可哀相だもんね――


 ネアンデルターレンシスがホモ・サピエンスに競り負けたのは、彼らがホモ・サピエンスに同情したせいかもしれない。

 戦いの矢面に立つ戦士の心に同情し過ぎて、戦いを放棄してしまったからかもしれない。

 あるいはそれらさまざまな感情の波に呑み込まれて、思考停止に陥ったからかもしれない――


 相手の精神に共感し過ぎるのは、実に危険なことなのだ。


 だが、士郎は何とかアイシャとの同期を維持する。アイシャの心情に共感しつつ、折り合いをつけるために。次は、こちらの番だ――


 ――君はなぜ、日本兵だけじゃなく、中国兵まで攻撃したんだ?


 ――だって……あの人たちは、悪い人……私は、弱き者を助ける辟邪だから。


 ――中国兵は、君の味方じゃなかったのか?


 ――味方!? そんなこと、思ったことない……彼らは丸腰の人たちを、容赦なく傷つけた……悪鬼なのよ!?


 ――それで激情に駆られて、彼らも殺したのかい……?


 ――そうよ……だって、殺すしかないじゃない!? 私は辟邪で……子供や母親を守る存在だもの……だから彼らを、許してはいけなかった……


 ――殺すのが……君の使命なんだね……!?


 ――そう。でも、殺したはずなのに、彼らは死ねなくて……傷ついて、苦しんでいたから、だから一刻も早く、もう一度殺してあげなきゃ……可哀相だと思って……


 その瞬間、士郎はハッとなった。つい今しがた、自分が見たあの悪夢とまったく同じじゃないか。どうしていいか分からなくて、殺して……殺し切れなかったから、また殺した。慌てて……自分の過ちを糊塗するために……

 ということは――アイシャはあの時自分が感じたあの後味の悪さ、胸糞悪さを今この瞬間も、ずっと感じているに違いない。この世界で、今一番彼女の気持ちが分かるのは、もしかして自分……!?


 あぁ……だから彼女はこんなに錯乱して、自分に腹を立てながら……破滅的に周囲に当たり散らしているんだ……

 その時、先ほどの未来みくの姿が鮮烈に蘇った。


(――今は何もしゃべらないで……だいじょうぶ……だいじょうぶだからね……)


 それがどれだけ士郎の癒しになったことだろう。だから士郎は、アイシャにも同じことをしたのだ。


 ――あぁ、分かった……アイシャはそう思ったんだな……もう何もしゃべるな……だいじょうぶ……だいじょうぶだから……


 ――で……でも、わたし……


 ――しーっ……もういいんだ。さぁ……この悪夢を、終わらせに行こう……

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