第457話 ティッピングポイント

 日本軍は――いや、日本国は、追い詰められていた。


 『幽世かくりよ』という異世界から突如として侵攻してきた中国軍は、あっという間に日本全土を“本土決戦”状態に引きずり込んだ。だが、国防軍の必死の防衛戦闘により、日本は辛うじて“第二の上海”にならずに済み、さらには士郎たち『異世界派遣軍』の奮闘によって、侵攻してきた中国軍の約半数を再び異世界に送り返すことに成功した。

 ここまでは、紆余曲折を経たにせよなんとか筋書き通りの展開だったのだ。しかし――


 なお半数近くが残存する異世界中国軍は、肝心の首都東京、わけても皇居周辺に分厚い攻勢戦力を集結させ、最後の抵抗を試みていたのである。


 それは、こちらが圧倒的有利に立ちながら、喉元に匕首あいくちを突き付けられているのと一緒であった。何せ中国軍が握るその刀の切先には、皇居が目と鼻の先にあったからである。

 それは、まるで銀行強盗の押し込み犯が人質を盾にとって、包囲している警官隊に無理難題を要求しているのと同じ構図であった。ただしこの場合の犯人が要求しているのは、水や食糧などという生易しいものではない。

 陛下という、まさに日本国の象徴、国家の枢要を人質に取られたことで、日本はどのような無理難題でも応じざるを得なくなる。ここに来て日本はまさに一歩も、1ミリも動けなくなってしまった。


 それは、日本国という国家の構造、日本人の精神性を巧みに突いた、実に小賢しくも卑劣なやり方ではあるが、同時に見事な出口戦略といってよい。

 これによって彼らは、この戦争の最終局面におけるイニシアチブを完全に握ったのである。


  ***


「――トロイの木馬だと!?」

「あぁ、連中は、皇居の鉄壁の守備を崩すため、『三屍サンシィ』に寄生させた一般市民を避難民に見せかけて送り込んだんだ。近衛兵たちも、市民たちが皇居に逃げ込んでくれば保護せざるを得ないからね」


 空母赤城の艦上。作戦室FICで戦況を見守るのは、オメガ特戦群群長にして本作戦の総指揮を担う四ノ宮東子と、オメガ研究班長の叶元尚だ。幕僚たちは、無言でその会話を見守るしかない。


「奴らの狙いは何だ!?」

「それは実にシンプルだよ。中国軍は追い詰められていることに変わりはない。だから陛下を人質に取ることによって、自分たちの有利にこの戦闘を終わらせようとしているんだ」

「有利に……?」

「恐らくは、残存兵力の安全な撤退。これは恐らく大陸へ帰還することを目指しているのだろう。さらにはそこで、自分たちの生存圏――つまり明確な領土・支配地域を確保する……現在北京派は、上海を事実上占拠しているだろう? そこを中心に、新たな版図を日本に認めさせる腹積もりだ。上海政府が事実上瓦解して滅亡した今、大陸には再度、共産党が支配する中華人民共和国が大々的に復活する」

「……何という傲慢だ……」


 誰かが思わず呻き声を上げる。確かに陛下を人質に取られれば、こちら側は手が出せない。


「――連中は、日本政府に承認させることで合法的に国家を再建させるつもり……ということか!? だが我々はそんなこと――」

「認めざるを得ない……連中は、恐らく人質に取った陛下に対し厳しい処置を発表するだろう。人民裁判にかけて死刑判決を出すとか……」


 坂本幕僚長が、沈痛な面持ちで口を挟む。並み居る帝国海軍の参謀たちも、真っ青になっているか、真っ赤になっているかのどちらかだ。肩がプルプルと震えている。


「――そう、そうすることによって、奴らは条件闘争に持ち込むつもりだ。罪一等を減じる代わりに我々の国家を承認せよ、とね……」

「何たる卑劣だ! 卑怯にもほどがあるッ!」

「そうだッ! それではまるで、テロリストの論理ではないかッ! 今ならまだ陛下は敵の手に落ちていないはずだ! なんとしても陛下を救出するのだ!」


 幕僚たちが色めき立つ。敵の目論見が分かっている以上、それを阻止するのが最優先だ。


「――現状は?」


 四ノ宮が観測員オペレーターに問いかける。


「はッ――現在、群衆は既に皇居東御苑に雪崩れ込んでおります。宮殿に到達するのは時間の問題かと」

「近衛兵はどうしているのだ!?」

「市民の対処に苦慮しているようです。近衛連隊は既に突破され、現在近衛憲兵隊が辛うじて宮殿建物を守護している状態で――」

「なぜ市民を制圧せんのだ!? 相手は戦闘員ではないのだぞッ!」


 参謀のひとりが割り込む。陛下をお守りするためなら、この際――


「軍が自国民に向けて引き金を引くというのは、あってはならないことなのだよ。現場の近衛たちは、そのことを十分判っておるのだろう……」


 連合艦隊司令長官の小沢が、沈痛な面持ちで口を挟む。国家が有形力を行使するというのは、それほどに重たいものなのだ。

 自国民を撃った軍隊というのは、それがどんな理由であれ二度と国民に信頼されることはない。ましてや、情報部によるとあの寄生された人々は、自分の意識を保持したまま強制的に行動を支配されている可能性が捨てきれないのだという。だとすれば余計に、彼らを撃つことはできなかった。なんとしてでも、まずは一旦彼らを保護し、その症状を緩和あるいは治癒させることに全力を尽くすべきなのだ。


「――そういえば、オメガチームはどうなっているのかね?」


 坂本が思い出したように四ノ宮に問う。彼女たちは本作戦の先鋒として、いの一番で中国軍支配地域に乗り込んだのではなかったか。


「オメガは現在、皇居周辺で市街戦の真っ最中です。『三屍サンシィ』に寄生された中国兵相手に、少々手こずっております」

「彼女たちを何とか、陛下救出に振り向けることができればいいのだが……」


  ***


 そんなことは、言われなくても分かっていた。士郎たちは先ほどから、この封鎖地帯を脱出する手段を模索していたのだ。


『曹長、敵兵の状況は?』

『変わりません! むしろ先ほどより多くなってきた気がします』


 既に第一戦闘団は、適宜散開して市街地に広く展開している。集結していると知らないうちに包囲され、集中攻撃を受けかねないからだ。だがこの部隊配置は痛し痒しだ。一気に殲滅される恐れはなくなるが、各個撃破されるリスクはむしろ高い。特戦群は特殊部隊員の集まりだから、戦闘力の低い兵士はいないが、それでも長時間の戦闘で神経を擦り減らしていると、一瞬の油断が命取りになる。

 それは、オメガたちも同様だった。


 今のところ、オメガの各員はその力を存分に発揮できているとは言い難い。

 そもそも敵兵たちが脳を支配されているため、対象の脳活動を停止させて廃人に追い込むというくるみの異能は殆ど役立たないし、不可視化能力インビジブルを持つ久遠はこういう場合使いどころがない。彼女の異能はあくまで隠密作戦など敵に見つかりたくない状況下でこそ威力を発揮するのだ。

 亜紀乃とかざりも基本的にはフィジカルに依存する能力で、今のところ銃火器での応酬に終始しているからそこまでの敵とのフルコンタクトには陥っていない。癒しの異能を持つ未来はいわずもがなだ。

 唯一ゆずりはだけは、起爆装置デトネーターというその異名にたがわず大活躍している。不意に膨張した敵兵たちは、そのまま風船が破裂するように爆散するから、いかな『三屍』に支配された肉体でも、殆どその動きを停止するのだ。


「士郎きゅぅん! 私そろそろ限界かもぉ……」


 楪が弱音を吐く。もともと彼女はあっさりと弱音を吐くタイプで、むしろいつも早めに白旗を挙げてくるから次の対処がしやすいという子なのだが、正直今はもう少しだけ頑張って欲しい。


「――すまんなゆず……もうちょっとだけ頑張ってくれないか」

「えー……じゃあご褒美!」

「アホか! 今そんな場合じゃ――」

「こんな場合だからご褒美が欲しいの!」


 そう言うと、楪はタタっと走り寄ってきて士郎をハグする。するとふわっと甘い香りがして、士郎は思わず目を閉じかけ――刹那!

 彼女の背後にユラッと人影が入り込む。


「あぶな――」


 ザクッ――!

 次の瞬間、ブシュウゥゥと鮮血が迸った。士郎の顔面に、血飛沫が振りかかる。


「ゆずッ!!!!」


 楪は、突然のことに顔面蒼白となって、カッと目を見開いている。一瞬の気の緩みを突いて、彼女の背後から襲い掛かってきた中国兵に、刺された――!?

 楪は、動転したのかその口を無言でパクパクさせている。


「――ゆずッ!! しっかりしろッ!!!!」


 士郎は彼女をひしと抱き締める。その身体は思ったより華奢で、こんな細い身体でこんな地獄のような戦闘を繰り広げていたのかと思わず泣きそうになる。「うふっ……」


 うふっ――!?


「――もうやぁだ……士郎きゅんったら♡」


 ひしと抱き締めた楪が、なぜかを作って嬉しそうな笑顔を見せる。胸のところに抱き締めた彼女の顔が、ほんのりと赤くなって士郎を見上げていた。


「あれ?」


 刺されたんじゃないのか――!?

 すると、一瞬間があって、楪の背後でドゥと何かが倒れ込む音がした。中国兵だった。


「――ちょっと、気を抜かないでゆずちゃんッ!」


 なぜだかぷんすかした感じの未来みくが、長刀をピシィッと払って立ち上がるところだった。すんでのところで飛び込んできて、彼女の危機を救ったのだ。あぁ――未来、本当にありがとう……


「えへッ――ごめーん」


 楪は相変わらずだった。だが、士郎はその瞬間何かに気付く。これは――


「あ……えっと、未来……」

「はい?」


 一瞬前より幾分柔らかくなった未来の紅潮した顔が、士郎を捉える。士郎はそんな未来の優し気な表情を見つめ返して……そのままその視線を彼女の足許にスライドさせていく。そこには絶命した中国兵が、横たわっていた。


 動いていない――!!


 一突きであの敵兵を、やったのか――


「……敵が……動いてない……」


 士郎の言葉に、未来もハッとしたような顔で慌てて足許を見る。中国兵は、確かにピクリともしていなかった。今までいくら撃っても、手足を吹き飛ばされても、もぞもぞとゾンビのように蠢いていた敵兵が――


「……士郎くん……もしかしてこれ……」


 そう言うと未来は、手に持っていた長刀をあらためて持ち上げる。それは漆黒に黒光りしていて、人を切ったというのに血も脂も一切こびりついていない。ヒヒイロカネの刀身は、僅かに虹色を放ってゆらゆらと揺らめいて見えた。


「――あぁ! もしかしたら、この長刀は『三屍』の効果を打ち消すのかもしれん!」


 考えてみれば、士郎たちは今の今までほとんどこの長刀を使っていなかった。迫りくる中国兵は、どんなにその人体が破壊されても構わず襲ってくるから、オメガチームは基本的に距離を取って戦っていたのだ。格闘戦で組み合ってしまえば、たとえ腕を切り落としたとしても、今度はその腕だけがこちらを締め上げてくるからだ。


 だが、この神威を纏ったヒヒイロカネの神剣なら、一振りで敵を斃せる――!


「オメガは全員! 抜刀せよ! 今から銃ではなく、抜刀突撃で敵封鎖線を突破する!」


 士郎はオメガたちに宣言する。その瞬間、少し離れていた子たちは僅かに戸惑いも見せたが、士郎と未来がその愛刀を持ってすっくと立ち上がるのを見て、すべてを理解した。

 先ほどまで絶望的な単独戦を挑んでいた楪も、ホッとした表情で立ち上がる。久遠も、くるみも、亜紀乃も、文も、それぞれがヒヒイロカネの神剣を手に取り、瓦礫の広がる大地に立ち上がった。


『――曹長! オメガチームは、これから一塊になり、抜刀突撃にて敵戦線突破を試みる。もし皇居で合流できたら、また会おう』

『……りょ、了解です! では、ドロイド部隊はお預かりしても?』

『あぁ! 森崎大尉?』

『承知しました。ご武運を!』


 士郎には、もうひとつやることがあった。


『――こちらオメガ特戦群、近衛部隊は応答できますか!?』


 しばらくあって、反応が返ってくる。


『……こちら皇居守護の近衛憲兵隊……』

『――よかった! 今からそちらへ突入を試みます! ついてはひとつお願いが!』

『……どうぞ』

甲型弾ワクチンを群衆に撃ち込んでおいてください! 今から特務兵オメガが突っ込みます』


 要するに、こちらの世界の人々は、未だにオメガの本能的殺戮対象なのだ。市民を助けるつもりで突入したのに、行った先でオメガが市民を惨殺したら目も当てられない。あらかじめワクチンを投与されている国防軍兵士と違い、一般市民は未だそのくびきから逃れていないのだ。


  ***


『――四ノ宮群長! オメガチームが封鎖線突破を試みるようです!』


 士郎と近衛憲兵隊との無線の遣り取りを傍受していた観測員が、ただちに報告する。おぉ……というざわめきが作戦室にさざ波のように広がった。


「そうか。石動いするぎは、何か秘策を思いついたのか……」

『抜刀突撃――と聞こえました』

「あぁ、なるほど――!」


 叶がポンと手を叩く。四ノ宮が振り返る。


「どういうことだ?」

「彼らの持つ軍刀は、ヒヒイロカネが練り込まれた神剣なんだ。おそらくそれが何か関係しているんだろう」


 詳細は不明だが、ここは何とか突破口を開いてくれ――!!

 その時作戦室にいたすべての者が、オメガチームに期待を託す。


  ***


 ガシャンガシャンガシャンガシャン――

 ちょうどその頃、東京湾から上陸を果たしたチューチュー号が、最大戦速で市街戦のど真ん中を突っ走っていた。あちこちから飛んでくる銃砲弾も、多脚戦車ゴライアスの分厚い装甲がカンカンと撥ね返している。


「――あのねぇ……私たち、タクシーじゃないんだけど!?」


 チェン美玲メイリンが、本来の車長席から半分追い出された妙な格好でぼやいている。だが、狭い車中に無理やり乗り込んでいる乗客は、そんなのどこ吹く風だった。広美も随分成長したものである。


「――今はそんなこと構ってられません! 急いで皇居に向かってくださいッ!」


 その一言に、機関員の品妍ピンイェンがプッと吹き出した。

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