第370話 偽神(DAY9-21)
「――な……んだアレは……!?」
この世のものとは思えない恐ろしい絶叫が辺り一面に響き渡り、兵士たちが思わず上空を見上げた時だった。戦場の中空にぼっかりと浮かんでいたのは、光球――
その光の塊は、直径にして3、4メートル程はあるだろうか。相変わらず冷たい雨が降りしきる暗黒の夜空に突然、場違いな太陽が現れたかのようだった。だがそれは、決して燦然と輝いているわけではない。その表面は時に赤く、時に黄白色に眩い光を放ったかと思うと、一転して紫色の澱んだ影を表面に漂わせ、さらに黒色の炎のフレアのようなものさえ迸らせる。
それらが無秩序に光球の表面を這い廻っているから、それは時に大きく輝き、かと思うと突如として漆黒の邪悪な塊に成り果てる。そこには一定の法則など何もなく、ただランダムに目まぐるしく移り変わる。
だがよく見ると、その光球は全体的にうっすらと透けていて、中心には人の形をしたような何かが、まるで十字架に磔にされたかのような格好でその両手足を広げているように見えた。さらに――
その中心にいる何者かをグルグルと取り囲むように、何かが光球の中で飛び回っているではないか。それはまるで、原子核の周りを飛び回る電子のようにも見える。
「ひッ……!?」
突然、光球を見上げていた兵士のひとりが小さく悲鳴を上げた。隣の兵士が思わず彼の方を振り向く。
「……あ……あれ……人の顔……」
何だって!? と思って隣の兵士が再度光球に目を凝らす。すると――確かにあの電子のように飛び交うのは、人面に見えなくもない……!
そうだ――
アレは間違いなく人の顔だ。つい先ほどあの謎の女が戦場の上空に飛来した時、地上にいた多数の兵士が突然意識を失って倒れたのだ。最初なんらかの生物化学兵器を撒き散らされたのかと思って慌ててバイザーを降ろしたのだが、完全被覆鉄帽を装備していない出雲守備隊の義勇兵たちはひとたまりもなかったのだ。
すると、ものの数秒で剥き出しの兵士たちはミイラのように精気を吸い取られ、そのまま還らぬ人となってしまった。あっという間の出来事だ。
そして今、上空の光球の中を飛び回るアレは、その精気を吸い取られた兵士たちの顔のように見える。
もちろん顔立ちまでハッキリ見えないから定かではないのだが、戦友たちには直感的に分かるのだ。あれは間違いない――先ほど突然死のように魂を貪り食われた、仲間たちだ――!
だとすると、その光球の中心で磔にされたようにうっすらと見えるあの人影は、先ほど飛来した女か……!?
そのことが分かってしまった兵士たちは、一斉に動揺する。
アレは……果たして撃ってもいいものなのか――!?
上空に浮かぶあの異常な存在は、間違いなく敵性脅威体だ。兵士の本能としては、だから攻撃しなければならないと分かっているのだが……仲間があそこに取り込まれているのだ。撃てば……その仲間も傷つけることになりはしないか――!?
突如として兵士の一人がガチャンと銃を構えた。恐怖に押し潰されたのか!?
あるいは、悩んでも仕方がないと開き直ったか――!?
「うぉぉォォォォ!!!」
ダダダダダダダッ――!!!
兵士は狂ったようにライフルを一連射する。曳光弾を含んだその火箭は、全弾見事に光球に吸い込まれていった。それに刺激を受けたのか、他の多くの兵士たちも先を争うように銃口を空に向けた。
ガガガガガガガガ!!!
ダダダダダダダダダッ――!!!!
途端、激しい集中砲火が光球を包み込む。だが――
銃火が収まった時、それは何事もなかったかのように微動だにせずそこに浮かんでいた。攻撃が……効かない……!?
すると突然、兵士たちの周囲にプィン――ピィンッ――と鋭い風切り音が飛び込んできた。次いでバンッ――と兵士の一人が薙ぎ倒される。
「てっ……敵襲ぅぅゥッ――!!!」
先ほどまで切り結んでいた東戦線の
あの空中の敵は、アムネシアに任せるしかない。
***
人のトラウマを引きずり出し、心の弱みに付け込んでその精神を破壊しようとするガンダルヴァ。
脳細胞の神経接続そのものを寸断し、思考を暗闇に閉じ込めて発狂を誘う水瀬川くるみ。
相手の精神を強制的に支配下に置こうとする熾烈なマウント合戦が、深夜の戦場で繰り広げられていた。
くるみはそれに対し、自らの銃創の痛みで辛うじて意識を保ち続ける。
対して、ガンダルヴァ――アイシャは「そうあれかし」という、究極的観測者の特権的権限でその破壊を免れようとしていた。自分が本来あるべき姿を必死で思い浮かべようとしながら。だが――
私……こんなだったっけ……
アイシャは、もとの自分が何者だったのか、自分という存在の定義にふと困惑を覚える。
私は……
悪鬼などでは……ない……はず……
目の前に立ち塞がるこの手負いの小娘が先ほど言い放った暴言が、アイシャを苦しめる。
……では辟邪とは……何者なのだ……!?
視界に入ってくるのは、市街地のあちこちに転がったままの、無残な遺体の山だ。それは一人や二人ではない。もっと多い……何百、何千という数だ。
まさに屍累々――これを……全部私がやったというのか!?
辟邪とは、これほどまでに人々を討ち滅ぼす存在なのか――!?
アイシャの脳裏に、どこかの貧しい農村の風景が唐突に浮かぶ。
そこはとても埃っぽくて、赤茶けていて……あぁ……だけど、どこか懐かしい光景……
低い屋根の建物は、人々の住居だろうか!? 壁は土で出来ていて……屋根は……屋根は、そう。何かの木の皮を剥いで作ったような、あるいは稲わら――!? まるで地面に貼り付いて造られたようなそのいくつかの住居は、どれも少し傾いでいて、屋根の角度もまちまちだった。音は――何も聞こえない。
アイシャの幻影は続く。
村を通る道路はそれなりに広いが、舗装はされておらず、粘土質の土が剥き出しだった。深い
痩せこけた牛が一頭、誰かに連れられてのっそりと歩いていた。ふと視線を横にやると、頭に何か大きな荷物を乗せた女性が数人、道の端の方をやはりゆっくりと歩いていた。その女性のうちの一人が、アイシャに気付いたのかフッとこちらを振り返る。
その目はとても悲しそうで、絶望に満ちていた。だが、彼女を見つけて無理やり笑顔を送ろうとしたのだろうか。辛そうに歪んでいたその顔の表情筋を少しだけ緩めようとしたその瞬間――
女性の頭はざくろのように砕け散った。
――――!!
お母さんッ!!!
撃たれた瞬間にアイシャは気付いたのだ。先ほどの女性は、自分の母親だ!
その直後、彼女は我に返る。今のは――
今のは私の過去の記憶……!?
あの貧しい農村は、私の故郷……!?
アイシャには――過去の記憶がそもそも殆どないのだ。辛うじて分かるのは、「アイシャ」という自分の名前と、そしてダリットという自分のカーストだけだ。それ以外は、自分がどこの出身で、どういう暮らしを営んでいたのか――
そして、本当の自分は何者なのか――
再びフラッシュバックのようにどこかの風景が頭の中に浮かんでくる。
今度は、とても近代的で小ぎれいな場所だった。都市――!?
いや……どこかの部屋のようだ。こぢんまりとしているが暖かく、穏やかな空間。誰かが背中を向けている。黒い髪……そして……パっと振り向いたその女性は、アイシャの国の人間ではない。日本人!?
すると女性は、穏やかに微笑んでその手に持っていた何かを顔の前に突き出す。えっと……これは料理道具……おたま? そのおたまをくいっと前に突き出すと、飲んでみろとばかりに楽しそうに笑う。
すると突然、ハッと気づいたように横を向くと、そそくさとどこかに歩いていった。そのまま視線で追いかけると、女性は何かを抱き上げている。赤ん坊……! どうやら女性は母親のようだ。赤ん坊を愛おしそうに抱いた彼女は、身体を少しだけ揺すりながら何かをその子に語りかけているようだった。
ハッ――
また映像が途切れる。今のはいったい何だったのだ!? 少なくとも、彼女の実生活の中では、そんな光景見たことがなかったのだ。これは自分の記憶じゃない……
するとさらに別の光景が無理やり彼女の思考を占拠する。
今度は何だ!?
少女――可愛らしいおかっぱの少女が、少し恥ずかしそうに佇んでいた。教室だ。
だが、そこもやはり、アイシャが知っている粗末な漆喰壁の教室ではなく……そう、黒板もあるし、ガラス窓も、カーテンも見える。机も一人一脚ちゃんとあって……ふと見渡すと、教室の後ろの方には何やら小さな白い紙の上に、黒々と文字が書いてあって……それが同じように壁一面に貼り出されていた。その文字は、そう――漢字……と呼ばれるものだ。李チャチャの国の文字とは少し違うようだったが――そうか……ここも日本だ。
少女は頬を赤らめて、何やらコクリと頷いた。すると途端にこちらに近付いて……いや、近づいたのは自分のほうだ。そして少女の両手を取り、大きく上下に振る。少女は最初戸惑っていたが、すぐに白い歯を見せ、嬉しそうに笑い――
その瞬間、アイシャは悟ったのだ。
そうか――これは、自分以外の誰かの記憶だ。
あぁ……間違いない……これは、先ほどその生体エネルギーを吸い取った、日本軍の名もなき兵士たちの記憶だ。小さな子を持つ若い母親のイメージは、きっと誰かの奥さんだ。教室にいた少女のイメージは、そう――あれは告白のシーンだ。兵士の誰かの、青春時代の甘酸っぱい記憶なのだろう。
そのことに気付いた瞬間、アイシャは気が狂いそうになった。
次々に押し寄せる誰かの記憶。
古い家屋の玄関で、年老いた夫婦が誰かを見送っていた。老人は小さく片手をあげ、そしておぼつかない姿勢でぎこちなく敬礼をしていた。誰かの出征風景だ。
どこかの大衆食堂で、大騒ぎしながら大勢で食事をするイメージも浮かんでくる。若い男たちが、上半身裸で肩を組んで歌を歌っていた。酒も相当入っているようだ。
小学生くらいの子が、お腹の辺りにキュっと抱きついていつまでも離れないイメージも浮かんでくる。あぁ――これはきっと兵士の子供に違いない。
私がたった今、一瞬にしてその命を奪い取った多くの兵士たちの、まだ生きていた頃の記憶――想い出が、次々と脳裏に浮かんでは消えていった。
私が――私がこの人たちの幸せを奪い取った張本人!?
戦場で、その他大勢のようにしていた敵兵たち。記号としてしか見ていなかった憎き敵。その一人ひとりには大切な人生があった。大切な想い出があった。そして――大切な人たちが……いた……
それを奪ったのは、この私だ。
死んでしまった兵士たちは、どれほど悔しかったことだろう。そして、残された人々は――妻は、母は、子供は、親は、恋人は――どれほどその人を失ったことを嘆き悲しむだろう……
私は……善神などではない……むしろ……災厄だ――
(――あなたこそ悪鬼……)
先ほどあの娘が言った言葉が、鮮明に頭の中に響き渡る。
もう……やめて……
アイシャは、いたたまれなくなった。突然、自分の胸を掻きむしりたくなった。自分という存在を――この呪われた存在を――すべて否定したくなった。
こんなのは私じゃない!
私は、人々を悪鬼から救う存在のはずだ。だが現実は、人々を苦しめ、人々の憎しみ、恨み、怒りを一身に受けている。私がここにいることで、多くの人々が苦しむ!?
そんなはずは……そんなはずは……!
突如として、アイシャは自我を喪失した。
罪の意識に、耐え切れなくなったからか!? それとも、理想の自分と現実の自分の落差に気がついて、自らに絶望したからか――!?
実際のところ、それはくるみの仕掛けた異能の勝利だった。
彼女が「ガンダルヴァ」の脳神経活動をズタズタに引き裂いたことで、この辟邪は自我を維持できなくなり、次々に浮かんでくる断片的な意識の発現に対処しきれなくなったのだ。
単純なことだ。これは戦争で、兵士は自らの死を覚悟して戦いに臨んでいる。戦場では軍事的に相手に勝利しなければならず、敵が銃口を向けてきたら、撃ち返さなければならない。そこに個人の事情を斟酌してやる余地はない。だが、彼女は論理的な思考を失ったせいで、そうやって自らの行動を合理化する術を失ってしまったのだ。
まともな神経を持った人間なら、罪の意識に圧し潰されるのは当たり前だ。
だが――
彼女が自我――すなわち「理性」を失ったことで、くるみの小さな勝利は、結果的にさらなる最悪の災厄を招くことになってしまった。
神の如き力を持つガンダルヴァが、本能の導くままにそのすべての力を解放した時、戦場には絶望だけが広がったのだ。自分を攻撃する者をすべて、悪鬼と見做した彼女が「そうあれ」と定義した世界とは――
愚かな世界を滅ぼし、自らが世界に君臨する――
彼女が纏っていた光球が、突如として膨張し始めた。
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