第316話 アンタッチャブル(DAY6-13)

 膝の震えが今でも止まらない。自分という存在が滅ぼされるかもしれない――という恐怖が、あれほどのものだったとは……


「――アイシャ、大丈夫かい?」

「チャチャ……!?」


 李軍リージュンがいたわるように声を掛けると、彼女は泣きそうな顔を持ち上げた。


「――わたし……勝てなかった……」


 そのエメラルドグリーンの瞳からは、今にも涙が溢れそうになっている。


「……ここは……私の知らない世界なの……」

「……どうして……そう思うんだい……?」

「だって……」


 アイシャの頭の中に、昼間の光景がフラッシュバックのように甦る。

 業火に包まれた大地……

 暴れ狂う龍……

 そして――自分のことを、まるで虫ケラを見るような冷酷な目つきでねめつけてきたあの存在……

 そうだ――アレはいったい何だったのだろう……


「――わたし……まったく歯が立たなかった……私は悪鬼を懲らしめる存在だったはずなのに――」

「そ、そんなことないじゃないか……少なくともお前は、アレが意識を飛ばすくらいの有効打を放ったんだ。誇っていい……」


 李軍は彼女の頭をそっと撫でる。


「……でも……この世界は逆……悪鬼はわたしかもしれない――懲らしめられたのは、わたし――」

「そんなことはない!」

「ひッ!?」

「……そんなことはないんだ……ここはお前の知っている世界だ。今は、少し眠るといい。さぁ……」

「……う、うん……」


 アイシャはようやく少しだけ落ち着いたのか、カッと見開いていたその瞳をそっと閉じた。そのままカウチにゆっくりと沈み込み、やがて身体を小さく縮こませて微かな寝息を立てはじめる。


 ふぅ……

 李軍は深いため息を吐くと、その薄暗い部屋をそっと抜け出した。パタリと扉を閉め、さらに暗い廊下をそのまま足早に抜けると、その先にある、僅かに光が漏れる別の扉をバンと開けた。


「――先生!?」

「あぁ、ご苦労」


 そこには、ヂュー上将を始めとした軍の高級幹部数人と、そしてファン博文ブォエンが詰めていた。地下壕内の、作戦室だ。


「……ガンダルヴァの様子は……?」


 黄が問いかける。


「――眠っている。問題はない」

「そうですか……こちらは少々厄介なことに――」

「どうしたというのだ!?」


 李軍は、ついに堪えきれなくなって苛立ちを見せる。


「――あ……はい、その……日本軍が……イズモ不可侵域に侵入しまして――」

「なんだとっ!? それで!?」

「とっ……特に別条なく――」

「はあっ!? 無傷だというのかッ!?」

「は……はい」


 なんということだ!


 イズモ不可侵域アンタッチャブル――

 ここ日本自治区において、唯一我が人民解放軍の統治がままならないエリア。

 中国地方とよばれる地域のちょうど真ん中あたり、日本の旧行政区でいうと「島根県」と呼ばれていた地域の、さらに東部一帯を指す。

 わけても日本海にほど近い、昔「出雲市」と日本人が呼んでいた辺りから、斐伊川という河川に沿って山あいの「奥出雲」と呼ばれていた地域にまでおよぶ一帯のことを、この幽世の中国人たちはそう呼び習わしていた。


 なぜ“不可侵域アンタッチャブル”などという大仰な名前で呼ぶのか!? 日本族が激しく抵抗しているのならば、さらに大軍をやって殲滅すればいいではないか!? ――かつて一度、朱上将にそう上申したことがあった。すると彼は、絶望的な表情で李軍にこう答えたのである。


「――あそこには……魔物が出るのです。兵だけではどうにも……」


 李軍は最初、耳を疑った。

 魔物――!?

 軍隊というのは、どこの国でも最も現実主義者リアリストだ。そりゃあ、神秘主義に傾倒したヒトラー率いるナチスは、世界のあちこちでオカルトめいた振る舞いを行っていたようだが、彼ら人民解放軍は、だ。

 共産党は「宗教」を認めない。神秘主義やオカルトなど、所詮人民の弱い心につけ込んだものだ。報われない現状を「来世」という不確かなモノへの希望にすり替えて、現状ではただ「忍耐」を迫る。だからこそプロレタリアート革命を起こさなければならないのだ。宗教とは「麻薬」であり、現状の不満を受け止め、革命への牙を抜く「装置」に過ぎない。

 そんな、科学的素養を身に着けた我が人民解放軍の高級将校の口から、よりにもよって「魔物」などという単語が出るとは――!?


 だが、李軍はほどなく、その「魔物」の存在を認めざるを得なくなった。

 確かにその地域一帯には、人知を超えた何らかの存在があったのである。


 それは、最初単なる抵抗軍というか、レジスタンスの類だと、こちらの司令部も思っていたらしい。だが、どうも様子がおかしいのだ。投入した部隊が、ことごとく殲滅されるのである。

 仮に敵が単なるレジスタンスならば、いくら激しい抵抗があるといっても、こちらが全滅するほどの事態に陥ることはないだろう。認めたくはないが、ある程度損害が深刻化すればその時点で「撤退」という判断を下すだけでいい。誠に遺憾ながら残存兵力は一旦引き揚げて、あらためて態勢を整える……これが軍事の常道だ。

 だが、この地域に投入した戦力は、二度と帰還することはなかったのだという。誰一人だ――


 幽世かくりよの解放軍司令部も、その異常事態に早々に気付き、日本占領当初は大軍をもってこの地域の制圧を画策したのだ。その数およそ10万――


 だがやはり、その10万の兵力も、このエリアに投入してしばらく経つと、忽然とその姿を消した。日本の、他のエリアは順調に占領が進んでいたから、これは相当異常事態である。

 いったいどれほどのレジスタンスが組織的抵抗をすれば、精鋭10万を殲滅できるのだ!?

 というか、それほどの戦力を持っていたのであれば、この日本という国はそもそも大戦に負けることもなかったのではないか――!?

 さまざまな疑問が頭をもたげる中、幽世人民解放軍は、このエリアの中で何が起こっているのかを正確に把握するために、追加の精鋭偵察部隊を送り込んだ。その僅か数十人の部隊のために、工兵大隊を5つも同行させ、途中の道中に数百キロにおよぶ有線電話を敷設していったのだ。偵察部隊が、実況中継方式で中の様子を司令部に報告することができるように。


 その通話記録が残っている。


『――な、なんだあれはッ!?』

『どうしたッ!? 何が見えてるんだッ!?』

『――あ、悪魔だ! 悪魔が俺たちを食い千切っているッ!!』

『やッ……やめてくれぇッ!! たッ――頼む……』

『おいッ! ちゃんと報告しろッ!! 何が起こってる!?』

『――火だッ! 奴は火を噴いているぞッ!! ぐわッ――』


 直後、その声を掻き消すようなゴォォォォツ――というノイズ。ぎゃぁ――という兵士たちの断末魔の悲鳴。

 さらに信じられないことに、その最後の数秒間には聞いたこともないようなケダモノの唸り声が収められていた。グォォォォォォ――


 音声記録はそこで途切れていた。


「――これは……いったい……」

「行方不明になった部隊が残した通話記録です。明らかに何かに襲われている」

「何か、とは……?」

「……分かりません……ただ、我々はそれを『魔物』と名付けました……」

「……魔物……!?」

「――明らかに、何か得体のしれない猛獣の唸り声のようなものが聞き取れたのです。兵士はそれを『悪魔』と称していて、その後火を噴いたというような表現も……」

「何か……敵の新型兵器のようなものでは!?」


 李軍は、あくまで科学的にその正体を探ろうとした。兵士たちは戦闘への極度のストレスで、しばしば戦場怪談フー・ファイターをでっち上げる。


「――もちろん我々も、当初はその可能性の方が高いと見做していました。敵国の占領というのは、兵士にとってはそれ自体かなりのストレスになります。特に日本人……いや、日本族は面従腹背ですからな……表向きは従順なフリをしながら、裏では水脈に毒を投げ込むような連中です」


 そうか――

 こちらの世界では、日本人どもはそこまでやっていたか……

 李軍が元いた世界の日本でも、本土決戦に備えて大量の毒ガスや生物兵器が準備されていたと聞く。政府機能をすべて東京から長野県松代に疎開させた後、追撃してくるであろう連合国軍の兵士たちを殲滅するための恐るべき作戦――


 普通軍隊というのは、自己完結しているものだ。武器弾薬はもちろん、あらゆる装備品を一緒に持ち歩く。その中には当然、兵士たちの食糧も含まれているのだが、どんなに充実した兵站を用意した軍隊でも、唯一現地調達が前提となる物資がある。「水」だ――

 「水」は人間の生命維持に欠かせない物資であるが、同時に極めて重たくてかさばるものだ。だから当時、物量に勝る連合国軍ですら、兵士たちの飲料水や生活用水だけは現地で確保することとされたのである。

 幸い日本は「水の国」とも称されるほど自然の水が豊かなところであった。

 だから連合国は、150万の兵力を日本本土に上陸させ、日本人民の殲滅、絶滅を図る予定であった『ダウンフォール作戦』でも、水だけは現地調達することとしていたのである。


 日本はその時点で、既に大規模な連合国軍が日本本土に上陸してくることを把握していた。だから「一億玉砕」という標語は、別に精神論でも何でもない、本土決戦の覚悟の言葉だ。枢軸側で唯一降伏せずに最後まで抵抗していた日本に、連合国が破滅的な絶滅作戦を仕掛けてくることを承知していたからである。

 そもそも作戦名の「ダウンフォール」という単語自体が、“絶滅”とか“滅亡”を意味するのである。事実連合軍は、この作戦のためにありとあらゆるNBC兵器を投入する予定であった。ヒロシマとナガサキは、その前哨戦として投入された兵器である。

 この他連合国は、神経ガスやマスタードガス、サリンなども大量に準備し、無差別に日本本土全域にこれを散布し、兵士であろうが非戦闘員であろうが、これを無差別に殺戮する予定であった。


 だから、先ほど朱上将が言った言葉は「半分正解で、半分誤り」である。

 確かに日本軍は、水脈に毒を投げ入れる予定でこれを準備していた。そうすれば上陸してきた連合軍の兵士たちは、「水」という最も重要な補給物資を絶たれ、たちまち窮地に陥る。

 だがそれと同等か、あるいはそれ以上に非人道的な作戦を準備していたのは連合軍の方だ。連合軍は、非戦闘員を含めて日本国内に無差別に毒を散布する予定であった。日本人をまさに“絶滅”させるために。

 そんな極限状況の中で、日本軍部が対抗手段として同じようにBC兵器を準備していたというのは、逆に当然といえば当然だ。ただしこの戦術は、決して勝利のための手段ではない。国土にそんな生物・化学兵器を大量に撒布すれば、自分たちも生き残ることはできないだろう。

 死なば諸共――自らの死と抱き合わせて、敵兵も道連れにする。この戦いは、何の未来の希望もない、ただの絶望だ。


 つまり――この話から得られる教訓とは唯一「戦争とは人を狂気に駆り立てる」ということでしかない。


 李軍は、意外にもこうした「狂気」に嫌悪感を抱く人物であった。

 彼が倫理的に逸脱しているのは、唯一「科学の進歩は人命に勝る」と考えている一点に尽きる。それ以外に関していえば、むしろ彼は極めて穏健派だった。敵と言えど、無益な殺生は好まない。


「……まぁ、日本人たちの行動の是非はともかく、そんな怪物のような兵器を隠し持っているとは、俄かには信じがたいですなぁ」


 李軍は、朱の話を半分として聞いていた。10万の歩兵が誰一人として帰還できないなど、あり得ない――

 それこそ、『ダウンフォール』作戦のように、敵の絶滅を企図した作戦でない限り……


 だが、事実こうした経緯を踏まえ、イズモとその周辺は幽世人民解放軍にとって「不可侵の魔の地帯」と化した。

 日本列島の、他の地域はほぼ占領を完了していた。北海道はソ連が統治しているが、どのみちあそこは我が中国にとって戦略的価値がない。それより以南の本州、四国、九州、そして沖縄諸島さえ確保してしまえば、第一列島線の支配権は確立するのだ。

 この際、この限られた地域は戦略的に放置するのが得策だ。日本海沿岸の特定地域が使えないのは痛いが、それ以外に関しては、中国山地の南側を迂回すれば、九州と関西を結ぶことは可能だし、なによりこちらから仕掛けない限り、この“不可侵域”は拡大する様子も見せようとしない。


 地域内の現地住民はいったいどうなっているのだろうか。

 まぁ、しばらく放置して兵糧攻めにするもよし。外部との交流が断たれれば、どのみち長くはもたないだろう――


 朱上将たち日本占領司令部の判断はある意味正しかった。

 それ以来、兵士たちがこの地で行方不明――というか恐らく戦死しているだろうが――になることはなくなったのだ。


 だから今回の悲劇を引き起こした原因は、ひとえに「李軍の驕り」と言っていいだろう。

 つい、武功を焦ったのだ――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る