第178話 プライオリティ
「ったく――! もうやってらんねぇぜ!」
兵士が肩で息をしながら地面に膝をついた。その顔は硝煙と煤と油に塗れており、着ている戦闘服は頭からバケツで水をぶちまけられたかのごとく汗でびしょ濡れだ。
先ほどからもう何度この道を往復しただろうか。一箱軽く10キロ以上はあろうかという弾薬箱を二つも三つも担いで前線に向かい、とんぼ返りで今度は糧食や水タンクをやはり生身で担いでまた前線へと向かう。
「なんでトラックを使わせてくれねぇんだ!? 俺たちに恨みでもあんのかよ!?」
「――あるんじゃないのか?」
そう答えたのは、一団に加わる別の兵士だ。彼もまた、あまりの重労働に音を上げている一人だった。本部拠点から川を渡って南岸の陣地に補給物資を届けるには、片道およそ1キロに及ぶ松北大道を越えていかねばならない。
別に車が通れなくなるような障害はないし、むしろ橋上の道路は高速道路並みにしっかりと普請されていた。だが、隊長は自分だけジープのような軍用SUVに乗ってその橋上道路をゆっくりと徐行しながら、沿道を歩く兵士たちを厳しく監視している。
夏の日差しで遠慮なく煮えたぎった大気は、夜になっても一向に冷える気配はなく、空気も相変わらず燃えるように熱くて、昼間のうちに焼けたアスファルトは夜になっても容赦なく彼らの軍靴の底を溶かし続けていた。
そのうち熱中症でみんな倒れちまうぞ――
補給の列は、往復を繰り返すうちにだんだんと歩みが遅くなっていて、今や彼らの行き足は敗残兵の逃避行なみだ。幽鬼のように行列を作るのは、50人……あるいは70人くらいか。
またひとり――行列から落伍者が出たようだ。突然肩に担いだ物資を地面に放り投げると、そのまま足許に倒れ込む。途端――
「こらァきさまァ!! 何サボってんだァ!!」
大きな怒鳴り声が聞こえたかと思うと、小隊長殿がキキィーとタイヤを鳴らしながら倒れ込んだ兵士のすぐ傍まで回り込んできた。見ると、乗馬の鞭のようなものを振り回しながら車を降り、そのままズカズカと近寄っていって、兵士の肩を鞭で何度も叩いている。
「――チッ……」
誰かが聞こえないように舌打ちをした。皆同じ気持ちではあるが、戦闘が始まった今となっては公然と上官に逆らうのもやや憚られる。
敵襲の知らせが入ったのは、日も暮れかかった頃だった。今日も一日、敷地内での塹壕掘りと施設の清掃に明け暮れ、ようやく地獄の労働から解放されようとした矢先だった。
突然市街地の外れの方で、地対空誘導弾の発射音が立て続けに聞こえたかと思うと、間髪入れず腹の底に響く高射砲の連射音が夜空いっぱいに響き渡った。
それと同時に基地内には非常警報がけたたましく鳴り響き、そして、全部隊に呼集が掛かったのである。
その数時間前、兵士たちは信じ難い光景を目撃していた。
川の南岸――ハルビン随一の商業地区、繁華街が、工兵隊の兵士たちによって突如として爆破されたのである。
休みのたびに繰り出し、飲んで騒いで散財して、たまに女の子を掴まえては束の間の娑婆を味わった、かけがえのない街。当然そこに暮らす市民たちの中には、兵士たちの顔見知りもたくさんいる。住民たちは、華龍の本拠地で暮らしていることで、ある種の安心感を享受し、そしてそれなりに兵士たちに敬意を払っていたのだ。
それを「敵を迎え撃つため」などと称して、あのように短絡的に街全体を破壊してしまうとは……
しかも、聞くところによると住民たちにはほとんど避難のための時間が与えられなかったという。
親衛隊が乗り込んで来てからというもの、兵士たちは数々の嫌がらせや不当な扱いを受けてきたが、それはまだ我慢のしようがある問題であった。軍隊なんだから、上が変われば方針や兵たちの扱いが変わることくらい、自分たちにだって理解できる。
だが、今回のこの爆破騒ぎは、それとはまったく次元の異なるまさに「暴挙」であった。守るべき市民を守らず、よりにもよって自らの手で大虐殺するなど、正気の沙汰とは思えない――
兵士たちは、親衛隊のやり方に憤激した。
だから、ほどなくして敵襲の知らせが入ってきた時は「親衛隊の奴ら、どこまでやれるか見せてもらおうじゃねぇか」という雰囲気だった。どうせ自分たちは戦闘部隊の立場を剥奪され、今やしがない労役人夫だ。戦闘が始まったところで、銃を持たせてくれるとは思えなかったし――
だが、新しい隊長は目を三角にして隊舎に乗り込んでくると、今度は自分たちに
戦況は切迫しているようだった。最初敵の空挺部隊が降下してきた、という情報が飛び込んできた時は、基地内でも相当緊迫した空気が流れた。だが「その半数を撃墜して敵戦力は地面に辿り着くまでに半減した」という最初の戦果報告が上がってきた時は、時ならぬ喝采が起こったものだった。
この分なら、辛うじて生き残った敵残存兵力も、降下地点に急行した精鋭の親衛隊パワードスーツ部隊がすぐに蹴散らしてくれるだろうと思われたのだが――
なぜだかその後、急に駆り出されてこうやって川の南岸に死に物狂いで物資を運んでいる。
物資輸送にトラックを使わせてくれない理由はじきに分かった。自分たちがとぼとぼと自分の脚で荷物を運んでいるその横を、親衛隊のライフル部隊を乗せたトラックがひっきりなしに往復し始めたのである。重火器も複数運搬されているようであった。つまり、それに積みきれない種々雑多な物品を、自分たちが補助的に人力で運搬している、ということが分かったのだ。
すると、橋の北岸から耳慣れた轟音が聞こえてきた。それはみるみる近付いてきて、やがて視界いっぱいに広がる。
重戦車中隊――!
しかもそれは、親衛隊のものではなく、もともとハルビンの留守番部隊を務めていた張将軍虎の子の機甲部隊だった。
「おーい!」
橋を歩く兵士の一人が、思わず手を振る。すると、何輌かの戦車長がぴょこんとハッチを開けてそれに応じてくれた。よく見知った、仲間の兵士たちであった。
連中も、穴掘りばかりさせられていたようだが、ここに来てどうやら前線に駆り出されたらしい。やっぱり戦車は役に立つってことか……無事に帰って来いよ、と思うと同時に、大半の兵士たちは「羨ましい」と思ってしまう。
そんな感じで、南岸への部隊の展開は急ピッチで進められていた。その規模と、一刻も早く兵士たちを配置につかせようとする動きからみて、どうやら敵空挺部隊は降下地点で待ち構えていた親衛隊パワードスーツ部隊を蹴散らしたものと思われた。敵にどの程度兵力が残っているのかは不明であったが、作戦本部がこの川の南岸で、侵攻してくる日本軍を迎え撃とうとしているのは明白だった。
だが、そこまで切迫しているのなら、逆になぜ自分たちにも銃を取らせないのか。というか、我々はそもそもライフル小隊なのだ。同じようにパワードスーツを取り上げられた重装歩兵小隊の連中も、慣れない輜重作業に明らかに不満顔だった。
そうやって、終わりの見えない労役を何度も繰り返していた、そんな時だった――
先ほど荷物を届けたばかりの南岸一帯で、突然ヴゥゥゥゥゥゥゥン――という巨大な羽虫の音のようなものすごい重低音が響き渡り、橋を渡って戻ろうとしていた兵士たちは思わず凍り付いた。
慌てて振り返ると、先ほどまで自分たちがいた南岸一帯は既にもうもうと黒煙に包まれ、曳光弾が激しく飛び交っていた。
「――なんだありゃあ……」
「に、日本軍の攻撃……なのか……」
突然、一角で大爆発が起こる。積み上げていた弾薬が誘爆したか!?
オレンジ色と黒色の大火球が膨れ上がって、橋の上にいる自分たちにもその熱風がブワと押し寄せてくる。辺りに硝煙とオイルが焼け焦げた猛烈な臭気が漂ってきた。さっきまで静かだった空間は、今や鼓膜をつんざく戦闘音に包まれ、隣との会話すらおぼつかない。
とにかく、あんな酷い場所で生き残ることができるとしたら、奇跡に違いないと誰もが思った。
唐突に、ピリリリリリィィィィ――という甲高い音が鳴り響いた。
何事かと兵士たちが振り向くと、小隊長殿が軍用SUVの座席の上に立ち上がって警笛を鳴らしているではないか。
「貴様らァァ――! 引き返すぞ!」
「えっ!?」
冗談じゃなかった。あんな地獄の戦場に丸腰で戻って、何をさせようというのだ!?
「――い、いや、しかし少尉殿……」
「ん!? 何だ、逆らうのかッ!?」
「そ、そういうわけでは……しかし……危険ですッ!」
兵士たちの言葉に、小隊長の顔が見る間に引き
「きっさまァァ! 味方がやられているのに、自分たちだけ逃げ出すつもりなのかッ!?」
「――しかしッ! 我々は素手ですッ! 行っても何の役にも立ちませんよ!?」
「何を言うかッ! 弾避けくらいにはなるだろうがッ!」
ふッ……ふざけるな……!
何が弾避けだ。ご自慢の親衛隊ライフル大隊は、先ほどの敵の一斉射で大混乱に陥っているではないか!?
彼らですらあのザマなのだ。日本軍の大火力の前では、俺たち生身の兵士は「紙」ほども役に立たない。今あそこに行ったって、犬死するだけだ――
「早く列を作れッ! 戻るんだッ!!」
小隊長が突然ホルスターから拳銃を引き抜いて、兵士たちに向けた。その表情は完全に我を忘れており、もはや何を言っても聞く耳を持たない様子だった。
すると突然、今度は空が裂けたかと思うと、直上からつるべ落としのような強烈な砲撃が始まった。
か、艦砲射撃――!!
今や全滅したライフル部隊の代わりに敵の真正面に躍り出た戦車隊が、次々と艦砲射撃の餌食になって爆発炎上している。あぁ――仲間が、まるで使い道のなくなったスクラップを処分するように次々と爆散していく。重戦車が……木っ端微塵だと――!?
兵士たちは覚悟を決めた。
「嫌です――あそこには、行けません」
パンッ――
何の警告もなく、小隊長が目の前に立ち塞がった兵士の腹を撃ち抜いた。
兵士は、驚愕と怒りの表情を向けたまま、その場に膝をつく。
「こ、抗命罪だ! 命令に従えない奴は、全員その場で射殺するぞ!」
パンッ――!
もう一度、銃声が響き渡った。
ほんのわずかな間があって、それからくずおれたのは――小隊長だった。
まるで芯の針金を失ったゴム人形のように、その場にへにゃりと倒れ込む。
背後には、野球帽のような形をした戦闘略帽を目深に被った、細身で小柄な兵士が、右手で拳銃を構えていた。その銃口から、うっすらと硝煙が立ち昇っている。
「――こいつには何を言っても無駄」
兵士の言葉に、周囲がようやく反応する。
「し、
「みんな! 今自分が何をしなきゃいけないか、自分の頭で考えてほしいの!」
その兵士は、小隊に紛れ込んでいた将軍の妹、
「お、オレは今、何も見なかったぞ!?」
「俺もだ!」
兵士たちが口々にフォローする。そうだ――隊長は、不幸にも流れ弾に当たって、名誉の戦死を遂げられたのだ。
すると突然、兵士たちの中に紛れていた、詩雨よりもさらに小柄な兵士がその帽子を脱ぎ去った。
美しい銀髪と、端麗な顔つき――神代
「皆さん――見ての通り、日本軍の攻撃が始まりました……そこで、皆さんにご相談というか……お願いがあります」
兵士たちがゴクリと唾を呑み込む。
目の前で、日本軍の大攻勢が始まっていた。自分たちはその敵で、だが目の前の未来は日本兵だ。兵士たちは「いくら未来ちゃんの頼みでも、聞ける話と聞けない話がある」と考えているのだ。
とはいえ、自分たちは今やいけ好かない親衛隊の指揮下に入っていて、不遇を囲っているばかりか街の爆破などいろいろ納得いかないことだらけだ。
いったい自分たちはこれからどうすればいい――!?
未来が口を開いた。
「――皆さんは誇り高き
未来は兵士たちを見回す。
「……だから、今すぐ日本軍と戦いたい、という方もいるでしょう……でも、その前に思い出してほしいのは、こんな戦い方が果たして正しいのか、ということ……」
それを聞いた兵士たちが、うつむき加減になる。大好きな街を自らの手によって破壊し、その住民たちを虫けらのごとく死に追いやる親衛隊作戦本部のやり方。
そして、仲間だった戦車中隊の兵士たちは、何の策もなく、ただ闇雲に死地に追いやられ……そしてつい先ほど、圧倒的な敵火力でその命を散らせてしまった――
未来が言葉を継ぐ。
「
その言葉に、多くの兵士がハッとした顔で未来の方を見つめる。
「皆さん、どうか
「将軍を――! 将軍を助けよう!!」
ある兵士が突然叫んだ。
途端に「そうだ!」「張将軍だ!」と口々に声が上がる。
そのざわめきは、やがてこの集団全体に波及した。誰も異論を挟まなかった。数々の武勲を上げ、華龍随一の名将と謳われ、兵士たちの誰からも慕われていた張将軍なら、この局面を打開できるんじゃないのか!?
そもそもこんな戦い方は、俺たち「華龍」のやり方じゃない。傲慢で、強引で、ただ自分たちの力だけを過信して、結果的にここまで押し込まれている。
未来と詩雨は、目の前のこの光景に心底ホッとした笑顔を浮かべた。
兵士にとって、上官を、部隊を裏切ることはイコール「反逆罪」を意味する。そしてどこの国の軍隊でも「反逆罪は死刑」なのだ。
国家(や組織)から武器を与えられて戦う存在である以上、何より求められるのはその国家(や組織)への忠誠であり、命令への絶対服従だ。だから、未来と詩雨は彼らを説得する方法を、絶対に間違えるわけにはいかなかったのだ。
どうやら説得は成功したようだ。誰か一人でも異論を唱えたら、その瞬間に全体が尻込みしただろう。
もちろん、彼らが同調しなくても仕方がないとは思っていた。どのみち将軍の救出が上手くいかなければ、加担した者たちは全員銃殺刑を免れない。もし彼らを上手く説得できなければ、少なくとも自分たちだけでもこの場を抜けさせてもらって、基地内の捜索に向かおうと思っていたのだ。
だが、これで救出作戦の成功率も高まりそうだ。
「じゃ、じゃあ皆さん! 今から私の指示に従っていただけますか!?」
未来が皆に呼びかける。
兵士たちは、さっきまでとはまるで別人のように精悍な顔つきになって、未来の言葉に大きく頷いた。
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