出会い
少し長めの風呂に入ると、昂ぶっていた気持ちも、和らいできた。そのおかげで、布団に入ると、すぐに眠りに落ちた。
翌朝、俺はスマホの音で目が覚めた。こんな時間に、誰だろう?
「も、もしもし……」
「もしもし、並木修一郎さんでしょうか?」
「あ、はい」
まだ頭がボーッとしていて、うまく言葉が出てこない。
「私、帝東大学教務部の山岸と申します。本日、教務部まで来ていただくことは可能でしょうか?」
教務部の山岸という名前には、覚えがなかった。教務部がいったい何の用だろう?まぁ、どうせバイトもクビになったし、時間は十分にある。
「大丈夫ですよ。何時に行けばいいんですか?」
「ありがとうございます。それでは、14時に教務部までお越しください。お待ちしております」
山岸さんは、それだけを伝えると、あっさり電話を切った。
俺はしばらくの間、スマホを耳に当てたまま固まっていた。まだ目が覚め切っていないのだ。頭の回転も鈍い。まるで脳の潤滑油が、今朝の冷え込みで固まってしまったかのようだ。
のろのろと回転する頭で、山岸さんとの予定を確認した。
教務部に行くのは14時。
――教務部
茶色の革張りのソファーが思い出され、革張り独特の質感が蘇ってきた。あそこで、俺は留年を言い渡された。つい昨日のできごとだ。
――留年
ドキリと心臓が脈打った。頭の回転が急速に上がってきた。そして俺の中で、「留年」「教務部」のワードが「留年取消」に結びついた。
まさか、あいつの執行部が……
そんなはずはない。昨日の夜から、まだ半日もたっていない。ただの偶然だ。俺の中で肯定する気持ちと否定的な考えがせめぎ合っている。
ここでいくら考えたところで、結論は出ない。かと言って、もう一度、寝る気にもなれない。
俺は手早く身支度を整えて、家を出た。どこかカフェにでも入って、ブランチでもしようと思ったのだ。
駅までの通りを歩いていると、真新しいインテリアに彩られたカフェを見つけた。まだオープンしたばかりのようだ。この時間に、カフェを探しながら歩くことなんてなかったので、全然、気づかなかった。
『Blue Note』と名付けられたカフェは、静かなジャズに溢れていた。
ここしばらく、音楽を聴く余裕さえなかった。そんなことを考えながら、窓際の席に着いた。
「いらっしゃいませ」
アルバイトの子だろうか?俺と同じくらいの歳の女性が、水とメニューを持ってやってきた。
トレーナーとジーパンにエプロンというラフな格好。チェーン店とは違うので、制服などはないのだろう。
「何にいたしましょう?」
店員さんは、シルバーのお盆を両手で胸の前に抱えながら聞いてきた。
よく見ると、なかなか可愛いらしい女性だ。小柄で、垂れ目で、おっとりとした感じの話し方は、俺の好みだった。
「あ、ホットコーヒーを。あと、何か食べる物はありますか?」
「うーん、サンドイッチかパスタならありますけど……」
人差し指をアゴに当てながら考える姿が、またキュートだ。鈴木の人差し指とは、大違いだ。
「じゃあ、パスタを。ナポリタンってできますか?」
「はい、できますよ。ホットコーヒーとナポリタンですね」
彼女は、ヒョコッと頭を下げて、奥に戻っていった。その仕草も、愛らしい。
俺はこの店をお気に入りにすることにした。
目を閉じて、ジャズの音色に耳をすます。聞いたことがある曲だ。確か、タイトルは『A列車で行こう』だったか。
知らず知らずのうちに、俺はリズムを取り、鼻歌を歌っていた。
「お待たせしました。ホットコーヒーです」
突然、声をかけられ、俺はかなりビックリした。鼻歌を聞かれてしまった。その恥ずかしさは、頭のてっぺんを突き抜けて、湯気となって吹き出している気がする。自分の顔が赤くなっているのが、ハッキリとわかる。
「この曲、お好きなんですか?『A列車で行こう』ですよね?私も大好きです」
やっぱり、聞かれてた。さらに顔が赤くなるのを感じる。
でも、彼女は、そんなことを気にする様子もなく話しかけてくる。
「A列車って、何のことか知ってますか?」
「し、知ってるよ。ニューヨークの地下鉄A線のことだよね?」
「すごぉい。知ってる人、はじめて会いました」
彼女は本当に感心しているようで、大きな目をパチパチさせながら俺を見ている。ホントに可愛らしい娘だ。
「ま、まぁね。ただの雑学だよ」
「すごいですよ。あ、馴れ馴れしいですね。すみせん」
突然、我に返ってペコリと頭を下げる。
「気にしないでいいよ。君はアルバイト?」
「はい、アルバイトの高見沢みゆきです。帝東大学の文学部2年生です」
「帝東なんだ。俺も帝東だよ。経済学部の4年。並木修一郎っていうんだけど」
彼女の目が、大きく丸く見開かれた。
「じゃあ、先輩ですね。よろしくお願いします。あ、パスタを取ってきますね」
そう言うと、身を翻して、キッチンの方に戻って行った。
俺は、そんな彼女の後ろ姿を見送りながら、心の中で可愛いを連呼していた。
ハッキリ言って、パスタの味もコーヒーの味もよくわからなかった。マズくはなかったと思う。
ただ、彼女のことが気になって、味のことまで頭が回らなかった。
カウンターの向こうで、忙しそうに手を動かしながら、たまにこっちをチラッと見てくる。目が合うと、ニコッと微笑んでくれる。その度に、胸がドキドキする。こんな感情は、ずっと忘れていた。
一目ぼれ。わかりやすいほどの一目ぼれだった。
俺は彼女と別れがたくて、コーヒーとパスタで粘れるだけ粘った。当然だが、それ以上の進展はなかったのだが……
会計の時、「また来てくださいね」と満面の笑顔で言われた。俺は曖昧に返事を返したが、心の中では、毎日通おうと決意していた。
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