第8話 清濁あわせれば
父の部屋を退出しようとしたら、私だけ呼び止められた。浦島が部屋の外へ出たのを目で確認してから、父が問うてきた。
「彼が故郷に戻りたいと言い出したら、どうする気だ?」
浮かれた心に、現実を突きつけられた。
……やはり、父には何もかもお見通しか。
私は一つ息をついてから、きっぱりと答えた。
「彼の望むままにさせます。帰らないでほしいなどとは……私には言う資格もありませんから」
「故郷を見た彼が、それでもまたここへ戻ってくると思うか?」
私は首を横に振った。
「思いません。彼なら遅かれ早かれ、親兄弟に会うためにも故郷へ帰ろうとするでしょう。そしてきっと、それっきり竜宮へは戻って来ないでしょう」
「それで構わないのか?」
「
質問に質問で返すべきではないとわかっていても、問わずにはいられなかった。
父は表情を変えず、ただ静かに淡々と答えた。
「竜宮の原理を人間に
「確か昔、人間に教える者がいたために災厄が起こりかけたのですよね」
「教えたのは何代も前の王妃だから、我らにとっては祖先だ。竜宮の民が人間とは異なる存在だと話した途端、地は揺れ、天は荒れ狂った。
書き留められた事実をそのまま読み上げているような口調なのに、聞いていて胸苦しさを覚えた。
私が浦島にすべてを明かせば、同じことが起きるのだろうか? わからない。わからないが、可能性は充分ある。可能性があるなら――避けなければならない。竜宮に災厄を招いて滅ぼすことだけは。
父はほんの少しだけ声をやわらげ、
「そなたは罪を犯さぬよう、
「そもそも私が、何も望まなければ済む……違いますか?」
「何も望むな、あきらめろ……我が子にそのような生き方をさせたい親が、いると思うか?」
思いも寄らない言葉だった。
私が何も言えずにいると、父は小さく首を振って、
「歴代の竜王が今のわしを見たら、甘いと
胸の奥が、うずいた。
父に甘やかされたのは、初めてかもしれない。
笑いたいのか泣きたいのかわからない心を抑えて、それでも私は父に問うた。
「たとえ定めであっても、浦島を
父は少し考えてから、伏し目がちに、
「彼ならおそらく、真実を知ったとしても同じ道を選ぶ。わしの目に狂いがなければ、な」
「そうだったとしても、やはりこれは罪でしょう?」と問うべきか、「それは希望的観測に過ぎないのでは?」と問うべきかと考え――どちらもやめておいた。
すでに、道は選んでしまった。私は、手前勝手なひどい女――それでもいい。そばにいたい。いてほしい。
父の居室から退出すると、廊下で浦島が待っていた。何か聞かれるかと思ったが、黙っているだけだった。私が客間へ案内しようとすると、
「俺の過去に何があったのか、気にならないんですか?」
不意打ちのように背後から問われ、足を止めた。振り返ると、浦島はどこか寂し気な表情を浮かべていた。
私はきっぱりと答えた。
「気にならないと言えば嘘になります。ですが、問いただしてまで知りたいとは思いません。話したければ、話してください。話したくなければ、話さなくて構いません」
「共に暮らしてみれば、思っていたのとは違って、とんでもないひどい男だった……なんてことになっても構わないんですか?」
挑発めいた台詞とは裏腹に、その表情は真摯だった。まるで、こんな男に簡単に心を許してはいけない、と忠告しているかのような。
私はまっすぐに彼を見つめ、
「たとえひどい男だったとしても、私をどうしようもなく
浦島は目を見張っていたが、やがて小さく微笑み、
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます。過去のことは、いずれ時が来ればお話しします。まだ自分の中でも整理がつきかねているので」
私たちは、並んで客間へ向かった。お互い無言のままだったが、胸の内には雑多な言葉があふれていた。
家臣たちを説得するのは、思いのほか手がかからずに済んだ。やはり、先に父に認めてもらったのが大きいようだ。父が許した婚姻に対して異議を唱えれば、下手をすると、父の手腕や威光を否定することになりかねないからだろう。いぶかしんだり戸惑ったりしつつも、最後にはみんな認めてくれた。
決まってしまえば、後はとんとん拍子だった。家臣総出で婚礼の準備が進められ、私と浦島もそれに合わせて右往左往する羽目になった。私にとっては日常の延長程度だったものの、慣れない浦島はそうもいかない。「目が回りそうだ」と何度もこぼしていた。華美にならぬよう、晴れがましさは最小限に抑えたいと家臣に要望したので、私の婚礼にしては簡素なはずだが、彼にしてみれば大差なかったようだ。
そして予想はしていたが、婚礼の前に一度故郷へ戻りたいと浦島に告げられた。私はかねてから考えていた理由を話し、説得した。
「今あなたが竜宮を離れれば、家臣も民も不安がります。ご両親には使いを出しておきます。きちんと説明し、お二人が暮らしていけるだけの金銭も渡させますから、もう少し状況が落ち着くまではここにいてください」
これは嘘ではない。今の彼の立場が不安定で、竜宮に留まっていてくれたほうが何もかも安定するのは確かだ。
嘘ではないのに、嘘をついたような後ろめたさを覚えるのは……それだけが理由ではないからだ。
すべて話してしまえ、という声が胸の奥から聞こえる。そのたびに心の耳をふさいで、聞かなかったふりをする。そうしてやり過ごすうちに、婚礼の日を迎えた。
私も浦島も礼装に身を包み、ごく限られた親族や家臣に見守られながら、城の
儀式がすべて終わった途端、浦島はあからさまにほっとした顔で、「やっと終わった……」とつぶやいていた。彼には慣れないことばかりなのだから仕方ないが、まさに疲労
その後に待ち構えていた城での日々も、浦島にとってはかなり骨の折れることだったようだ。漁師のおおらかな暮らしと、竜宮の統治者一族に加わっての暮らしとでは、きっと
もちろん、待っていたのは苦労ばかりではない。務めの合間を見つけ、二人で過ごしていると、これまでに感じたことがないほど心が満ち足りた。
「千季の間」へ行って花々を眺める。今日あった何気ないことを話す。浜辺をただぶらぶらと歩く――取り立てて何をするでもない。なかなかまとまった時間は取れないし、ぜいたくをしているように思われたくないから、特別なことはしていない。なのに浦島がそばにいるだけで、かけがえのない時間に変わる。いとおしく、いつまでも続いてほしいと願いたくなるような、あたたかな時間に。
同時に、心の半分ではわかっていた。こんな時間が、いつまでも続くはずなどないと――。
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