第3話

「……先を越されたわけだな」

「ヒュース侯爵は既に精霊に囚われていたのでしょう。親族であり、師匠でもあるロベルト卿を亡くし、精神状態が乱れたところを奴に付け込まれた。砂の中から掘り出されて百年間奴は今日という日をずっと待っていたんです」

 これらの中継を聞いていたのはディアス、パウエルなどの幹部クラスと使者のみである。

「それはそうと、あの泥人形はどうなっているんだ」とパウエル卿。

 四巻が届けられ泥人形に二本の腕が生えた。今の姿は膝をつきうずくまる頭の無い巨人である。ヒュース侯爵は胴体の上から右手のひらに移動した。

「三、四、五巻を取り込み頭以外はそろった。おそらく一巻、または二巻が頭を担当しているんだろう。じゃあ残りは何だ。余るわけはない。駆動識でもない。識はあの精霊だ。奴が全身の動きを制御している」

「尻尾でも生えるか。それとも別の力を付与するためのものか」ディアスがつぶやいた。

 競馬場の巨大投光器に灯がともり、夕暮れが訪れた。


 帝都新市街三番街、新市街一番の繁華街であり、新市街を支配し、そこに住む者を庇護する吸血鬼アクシール・ローズの要塞がある場所だ。要塞にはローズが付けた名があるのだが、住民たちはただ単に塔と呼んでいる。

 塔への来客は珍しい事ではないため、付近の住民たちも気に留めることはない。

 今夜の来客は魔導騎士団特化隊。ローズのお目付け役として有名な部隊である。騎士という名がついても、所属する多くの隊士の姿は一般の想像からかけ離れている。今、塔の玄関口に立っている二人組カーク・パメット、ロバート・トゥルージルも、ここより東の危ない地区にあるダンスクラブのいかつい用心棒と見た目は大差ない。

「こんばんは、今夜はビンチじゃないのね」

 二人を出迎えたのはメイドのフレア。見た目は小柄な金髪の少女だが年齢は三百を超える狼人である。そして近隣のアイドル的存在。猛獣も襲ってこないとわかっていれば、さほど警戒されることもない。それがかわいい少女の姿をしていればなおさらである。

「あいつは今手が離せない用事があるようで、こちらには戻ってこれないそうだ」とパメット。

「ふん、そうなの。とりあえず入って」

 塔の一階は来客用の応接室となっているが、ローズ達の対応はいつもビンチとその相棒フィックスに任せているため、パメット、トゥルージルはここまで来るのは初めてである。調度品は簡素ではあるが、その質は旧市街の貴族もうらやむ物が置かれている。

「特化隊のパメット様、トゥルージル様がお見えです」フレアはその場で少し目をふせ言葉を発した。

 二人は自分たちが様づけで呼ばれたことに驚き顔を見合わせた。

「ついてきて、ローズ様の所へ案内するわ」

 フレアは奥の壁にある扉を開いた。先には階下へと続く階段が見える。彼女に促され二人は階段を下りて行った。これより先に入った部外者はごく限られている。分厚い鋼鉄製の隔壁を越え、ローズの錬金術工房へ入る。さらに続く下へと伸びる階段の奥は厳重に管理された書庫である。

 巨大な作業机が置かれ、整理の行き届いた部屋にローズの姿はない。

「まだ、本は見つからないようね」フレアは壁際に置いてあった腰かけを取り上げた。

「ローズ様の事、時間はかからないと思うから、座って待っててくださいな」

 二人はフレアから腰かけを受け取り、それに座った。大柄の二人に小さな木製の椅子は座りにくい。

「魔導書ならそこにあるでしょ。よく前を御覧なさい」その声と共に何もなかったはずの作業机の上に二冊の魔導書が現れ、机の向こう側には艶やかな黒髪を持つ美しい白亜の彫像のような女がが立っていた。

 齢千年を越えその姿は赤い瞳を持つ美女ではなく、美しい彫像へと変わっている。それが吸血鬼アクシール・ローズである。

「ようこそ、我が家へ。パメットさん、トゥルージルさん」

 驚いた二人は思わず、武器を呼び出すために身構えた。

「落ちついてください。別に取って食おうなんて思ってませんよ」ローズは楽しそうに笑い声をあげる。

 ローズが帝都で一目置かれているのは、魔導師としての圧倒的な攻撃力ではなく、この高度な意識操作能力である。彼女は対象の意識内部に入りこみ、目の前の光景を巧みに描き換える。

「ロベルト様からお預かりして以来、書庫の肥やしでしかなかったこの書がお役に立つそうですね」ローズは黒眼鏡を掛け、力の根源と思われている赤い瞳を隠した。

「フレア、書をお渡しする準備をしてもらえないかしら」

「はい、ローズ様」

 フレアは工房の奥にある倉庫へと駆け出した。

「まったく、ロベルト卿は魔導書の管理に何であんたまで担ぎ出したのか」トゥルージルがつぶやいた。

「それはわたしが絡めば事が面倒になるからですよ」

 二人は苦笑した。確かにそれは間違いない。

「ロベルト様は本気で泥人形の召喚を避けたかったのでしょう。今回ディアス様に事のあらましを聞き、そして書を読み直してそれを確信しました。まぁ、このような騒ぎが起こるとは思ってもおられなかったでしょうけど……」

 二冊の魔導書は、遮魔布で内張りが施されたトランクに詰め込まれた。

「ディアス様にお任せすれば万事うまくいくと思いますが、あの方にはこの書を今一度眼を通されるようお伝えください」

 書の回収が無事に終わり、フレアに見送られトランクを手に戸口まで来てパメットはふと浮かんだ疑問を口にした。「あの人はいつもあの調子か?」

「ええ。もちろん」

 

 投光器と月明かりに照らし出される競馬場。その中で最も奇怪な物は、賞典台でうずくまる巨大な泥人形とその周囲でうごめき踊る泥人形達。精霊にとらわれ、その乗り物とされたグラハム卿は、泥の巨人の手のひらに佇み、その光景を眺めている。

「これは面白い。ロベルト卿の真意が理解できたよ」

 競馬場の審判室。月明かりとろうそくの元で魔導書に目を通したディアスはそっと書を閉じた。

「拡声器を用意してください。最後の取引といきましょう」彼はゴルゲットに向かい言葉を発した。

「最後……?、二冊とも同時に奴に渡すつもりか?」通信網にどよめきの波動が広がる。

「はい、それに意味があるようです」

「……いいだろう。だが、これには公爵殿と他の人質の命が掛かっている。それを肝に銘じておいてくれ」

「お任せください」

 魔導書を携え、馬場の出入り口へ出向きディアスは泥人形の精霊に呼びかけた。

 精霊も慣れたもので、ディアスの目の前に受け取り役の泥人形を湧かせた。泥人形はゆらゆらと揺れながら受け渡しを待っている。

「待ってくれ。相談がある。残りの魔導書は今すべてお前に渡そう。その代わり残りの人質はすぐに全員解放してもらえないか?」

「……いいだろう。早く、使いの者に書を渡せ」

「いや、これはわたしにそこまで届けさせてもらえないか?」

「……勝手にしろ。しかし、妙な真似をすればどうなるか。分かっているだろうな?」

「もちろんだ」

 ディアスは馬場に足を踏み出しゆっくりを賞典台へ歩を進めた。歩く彼の左右、背後から泥人形が波のように湧いては沈み、湧いては沈みを奇怪な踊りを繰り返す。

 観客席の皆が固唾を飲む中、ディアスは泥人形を引き連れ泥の巨人の前に到着した。

 巨人の前の泥人形は沈み、ディアスは魔導書が手渡しできる距離までそれに接近した。

「これを渡そう。約束通り人質を解放してくれ。まずはこれだ」ディアスはドォ・ワク二巻を差し出した。

 魔導書はグラハム卿が受け取り、それを胸にあてがった。魔導書は胸に張り付き、泥の中に沈み始めた。

 人質たちを拘束していた泥人形は崩壊し、新聞記者たちは我先にとその場から走り去った。少しためらいながらも他の者がそれに続く。

 ギルワート卿は父であるアイオミ公爵助け起こし、友人たちもそれを手伝うが、皆この場から去ることをためらっている様子だ。

「逃げてください!ヒュース侯爵のことはわたしにお任せを」

 ギルワート卿はその言葉に静かに頷き、公爵に肩を貸しその場から去っていった。

「公爵殿をお迎えしろ!」

 再び通信網が活気づき始めた。馬場への出口から騎士たちがなだれ込み公爵たちを次々を保護していく。

 巨人の胸が波打つ。二巻はほどなくすべて吸収され、それに伴い巨人に頭が生え始めた。肩口に盛り上がった土の塊が手下の泥人形と同様の不気味な髑髏じみた顔を形作る。完全体まであと一歩となった。

「次をよこせ」精霊がうなり、地面が大きく波打つ。

「いいとも、くれてやるよ」

 ディアスは一巻を渾身の力を込め泥の巨人の胸元に投げつけた。一巻は胸に貼りつき淡く黄色に輝き発し泥人形の表面に沈み始めた。すぐさまその効果は現れた。巨人の背中、人で言えば肩甲骨の辺りに二つの突起物が出現した。その太さは巨人の腕ほどあり静かに伸び続ける。

「何だ、何が起こっている」精霊は明らかに戸惑っている。巨人としては想定外のことが起こっているらしい。「なんだこれはぁぁぁ!」精霊は絶叫した。地面が波立ち泥の海をなった。

 巨人はグラハム卿を振り落とし、事の元凶と思われる魔導書を両手でつかんだ。しかし、巨人の力を持ってしても、沈み込む魔導書を止めることはできず、背中の突起はますます伸び続ける。

 ディアスは気を失い転げ落ちたグラハム卿を肩に担ぎ、観客席を駆け出した。波立つ泥の海に足を取られ、グラハム卿の重さに振り回されつつも先へと進む。あと少しで出入り口というところで再び精霊の絶叫に地面が揺れ、泥が波立つ。その揺れにディアスはつんのめり転びそうになるが、なんとか持ち直す。安心したのもつかの間、背後から泥の大波が押し寄せてきた。間に合わず、泥に呑まれること覚悟した時、大波は動きを止め薄茶色の彫刻に変わった。

「早く中へ、次が来ます」ビンチの声が頭蓋内に響く。

 ビンチの剣の力で地面が固められたのだ。

 素早く出入り口より駆け込んだディアスは建物内で待機していた救護隊にグラハム卿を引き渡し、息つく暇もなく観客席へと上がっていった。

「何をしたんです?奴、ブチ切れてますよ」

「翼をくれてやったのさ」

 その言葉通り、泥の巨人の背中に現れた一対の突起は、成長を続け蝙蝠を思わせる翼へと変化していた。今や巨人の姿は泥まみれのガーゴイルといった雰囲気である。

 成長を遂げた翼は巨人を持ちあげるべく羽ばたき始めた。地とのつながりを失うと精霊の力は消滅する。そうはさせまいと巨人は地に膝を付けようとする。しかし、翼は容赦なく自らの身体を空へと引きずりあげる。死に向かっての飛翔である。

 巨人はつま先立ちとなりながらも大地とのつながりを保とうとしたが、それは虚しい努力に終わった。最後は身体を二つ折りにして手を伸ばし、土を求めつかみ取ろうとした形で宙に浮き動きを止めた。その次の瞬間、土の身体にはひびが入り、翼の最上部からぼろぼろと崩れ始め、まもなく全身が土塊に戻って行った。

 内包されていた五冊の魔導書は力なく土の山に落ち、書は土に半分ほどめり込んだ。だが、もうそれ以上沈むことはなく、淡く薄黄色に輝くこともなかった。

 そして、勝利の叫びで場内は湧きかえった。


 その二日後、ディアスは塔の応接間でフレアから受け取った辛口のエールを飲んでいた。

「これはいいね。ここに来ないと飲めないんだ」ディアスは目の前のグラスに入ったエースを見つめる。

「あら、そんな珍しい物じゃないですよ。すぐ傍の居酒屋で出してますから」

「それはわかるが、どうにもこのあたりの店は入りにくくてね」

「このあたりに住んでる方はいい方ばかりですよ。こんばんは、ディアス様」とローズの声。

 ディアスが振り返ると、ローズは最上層の私室の至る螺旋階段を下りてくるところだった。艶やかな黒髪が階段を一段降りるたびにゆらゆらと揺れる。

「こんばんは、ローズ殿。お借りしていた魔導書をお返しに来ました」ディアスは立ち上がり足元に置かれたトランクを手で示した。先日特化隊の二人組が借り受けたものである。

「ありがとうございます。フレア、トランクを地下に移しておいて、後で整理しましょう」

「はい、ローズ様」

 フレアがトランクを抱え階下へと降りていく。二人はまた椅子に腰を掛けた。

「もうご存知かとは思いますが、お借りした書は既に魔導書としての力を失っています」

「それはあの魔導書がその役割を無事全うしたということですね」

「はい」

「ロベルト卿。あの方が感じた泥人形への脅威は本当に強い物だったのでしょうね」

「ええ、だから、あの方はあのような分割管理を提案し実施した。まず、無駄な失敗作である事を吹聴して回り、そして面倒を引き受けるふりをして、核となる三巻を手元に置き、面白みのない四巻、五巻を帝都機関に渡し、非常時の備えのために一巻、二巻はあなたに託した。万が一帝都が魔導書に興味を持ったとしてもあなたが相手では面倒すぎる。一巻も一緒に付けたのはその役目の露見防ぐため……」

「たしかに、あの魔導書が引き起こすものは自らの破壊、設計者が仕掛けた安全処置とはいえ、あの魔法に興味を持った者には疎ましい存在になりかねませんね」

「それは確かだと思います。土を意のままに操り、コバヤシの鉄巨人を瞬時に沈黙させる。あのような力に魅了される者もいるでしょう。案の定今回の騒ぎの解決後、上の方から少しいやな顔をされました。泥の精霊を元の世界へ蹴り返し、有効利用できそうな魔導書をただの本に変えてしまったわけですから……」

「大丈夫ですか?お立場は……」

「アイオミ公爵殿が助け船を出してくださいました。今やわたしは公爵殿とその御子息、他名家の御子息たちを助け出し、事を収めた英雄です。ですから、今のところ少しいやな顔をされただけで済んでいます」

「もし困ったことになったら連絡してくださいな。何かお力になれるかもしれません」


 ローズの心配は杞憂に終わった。

 後日ラン・ディアス、他数名は帝国競馬場での活躍により叙勲を受けることとなった。そしてギルワート卿は次回レースでの雪辱を誓い、ヒュース侯爵を含め他の友人や家族に見送られ西方へと向かった。

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