第一章 魔城の伝説

第一話 闇夜に悪魔は舞い降りて


 それは夕日の残照を背に、黒い大きな翼を広げて舞い降りた。


 畑仕事を終えたとある農夫は、烏と思い気にも留めなかった。ゆえにその黒影がすぐ側まで近づいた時、抗うこともできず宙空に掴み上げられた。短く悲鳴を上げたその首が、手が、足が、胴が鮮血と共に散乱していく。


 農夫の妻は夫の帰りが遅いのを気にかけ、様子を見に外に出た。陽が既に沈んでいたので松明を手に畑へ向かう。大声で夫の名を呼び、返事がないのに苛立ちながら馬小屋に足を向ける。小屋の扉を開け、物音がする方に炎を翳すとそこには────。

  

 悲鳴を聞きつけ駆けつけた付近の村人も次々に襲われ、数十人からなる小さな村の九割が殺された。


 奇跡的に生き伸びた少年の証言から、村を襲ったのは悪魔にとり憑かれた女の仕業と知れた。周辺の住人たちは、それが遥か昔に打ち捨てられた廃城に住む魔女と信じて疑わなかった。



§



 百年にわたる度重なる被害を受け、新たに即位した若い国王は勇猛果敢な若手将校を中心に、三百名の騎士団を結成させて魔女の討伐を命じた。


 魔女の棲む城は峻厳な山の奥地にある。慣れない山道を行軍は、兵に疲弊の蓄積をもたらしていた。それでも目的地まであと僅かに迫った夜のこと。歩哨が闇夜に蠢くものを見つけた。


「おい、そこで何をしている!!」


 物盗りか、獣か。兵士が松明を掲げ、目を凝らす。そこには横たわる馬に被さる人影があった。不意にが、蒼白の面を上げた。女だった。血で汚れた口元をグチャリグチャリと動かし、白い両腕は血に穢れ濡れ光り、背には蝙蝠のような巨大な翼が生えていた。


 黒髪の間に覗く異様な眼光に射すくめられ、青年兵士は恐怖に震えた。濁り澱んだその瞳は、人たる存在に対し、欠片の尊厳も感じてなどいないことを雄弁に物語っていた。

 

 女は黒雲流れる空を見上げ、調律の狂った弦楽器のような咆哮を響かせた。耳をつんざく奇怪な声に耐えかね、その場にいた兵士らは皆耳を塞いだ。

 何事かと集まってきた兵士の一人が、彼は続けて矢を放った。風切り音を立てた矢はしかし、目標を捉えることなく虚空に消えた。直後、その兵士は背後から素手で胸を貫かれ、悲鳴を上げる間もなく絶命した。


 隣の兵士は振り向きざまに首を跳ね飛ばされた。別の一人が腹部を抉られ、内臓を掻き回され、生きたまま自らの肝臓を貪り食う女の目前で小便を垂れ流しながら死んだ。腰を抜かした残り二人の兵士は襟首を捕まれて互いの頭部を思い切りぶつけられ絶命した。

 

 将校が一連の惨事に気が付いた時には、物言わぬ屍だけがそこに散乱していた。横たわる遺体は全て、その顔を恐怖に歪ませている。ここで撤退を決めていれば、将校は臆病の誹りを受けながらも損害を抑えることに成功したのかも知れない。しかし王が名誉をかけて送り出した手前、何の成果も無しに撤収することは彼の自尊心が許さなかった。


 三日後の激しい嵐の夜、怯える配下を叱咤しながら、やっとで目的の城に辿り着くことができた。化物の度重なる襲撃によって、兵士は既に十も残っていない。


 漆黒の闇の中に、目的の魔城が聳えている。断崖絶壁の頂上に築かれた堅牢な城塞。岩山を流れ落ちる水が洪水の如く岩石を叩き、そこかしこで飛沫を上げ、時折鳴り響く雷鳴が一行を地獄の門へと誘うように割れんばかりに空気を震わせる。


 峻厳たる山奥の荒廃した城は麓の民には永らく畏怖の的であった。かつて栄華を誇りし王の居城として築かれた城塞には久しく主もいない。しかし、周辺を通った樵や旅人が麓に降りては語るのだ。真夜中、享楽に溺れる悪魔が、その狂おしい咆哮で大気を震わせていたと。


 それは滅びし王国の、怨嗟に満ちた死霊たちの叫びにも思われて、屈強な男達をして心胆寒からしめ、即座に逃げ出させるほどのものだったと。噂を知る者は皆これを懼れて近づくこと久しかった。



 将校含め五名にまで減った一団は城に向かうただ一本の石橋を渡り始めた。ぬかるんだ石畳は思いのほか滑りやすく、一歩一歩踏みしめるように歩む必要があった。不安に満ちた眼差しで前方の暗がりを凝視しながら進む彼らには、出発時に見られた快活さは失われていた。

 

 そして尚も、天は悪魔に味方した。彼らの進むその先に、あの女が蹲っていた。兵士の一人が女に向けて矢を射出したが、それは空しく闇に消え、次の瞬間には兵の一人が首を撥ねられた。


 生き残った兵は城内に駆け込んだ。しかし彼らを出迎えたのは、雄牛の倍はあろうかという巨大な黒い甲虫であった。ギチギチと節くれだった外骨格の足を蠢かせ、兵士を強力な顎で挟み込み、ずたずたに寸断して血肉を貪った。


 甲虫は後から後から、何匹も襲い掛かって来た。異形の怪物どもに抗しえぬまま、兵はただ食い散らかされる他なかった。死にゆく将校が最後に耳にしたのは、どこからともなく響き渡る、悪魔のような女の狂った笑い声だった。




 こうして討伐隊は、その経緯を知る者もないままに全滅した。国王は王立軍を続けざまに送り込んだが、それらのいずれもが消息不明となった。

 最終的に、王は魔城の存在を無視することにした。時折人里が魔女に襲われても、山賊の仕業であるとして適当な山狩りを行うに留めた。


 そして時は流れ────

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