9.密室の誓い

 こんなに無我夢中で走ったのは、いつ以来だろう。

 魔物と戦った時?

 ……ううん、違う。


 あれはそう──正妃発表の後、お城を飛び出した時だった。


 正妃になれなかった自分が惨めで情けなくて、その事実があまりにも悔しくて……。

 ぬかるんだ真っ黒な泥に呑み込まれていくような錯覚の中、あの時の私が行き着いた先は愚かな死だった。

 だけど、今の私を奮い立たせる感情は、きっとそれとは違う行き先に辿り着けるはずだ。



 私は髪が乱れるのも構わず駆け抜け、息を切らして宿まで戻って来た。

 リゾート地だから夜でも人通りが多くて、途中ですれ違った人達が居たのを覚えている。

 普段だったら、一人のレディとして身嗜みには気を使うところだけれど、今ばかりはそれどころではない。

 どうにか呼吸を整えようと、なるべくゆっくりと息を吸ってそれを吐き出す。

 それと並行して、乱れた銀の髪を手櫛で整えながら、ウォルグさんの元へと急ぐ。

 彼は確かケントさんと二人部屋だったはずだから、この部屋で間違い無い。

 この部屋の中に彼が居るのだと思うと、走って来たのとは違う意味で、心臓が大きく脈打ってくる。


「……でも、覚悟を決めなくては」


 ──ウォルグさんの気持ちと、私の気持ち。

 それをしっかりと確認しなければ、伝えなければ、私の気が済まないんだもの。

 私は、意を決して扉を叩いた。


「……ウォルグさん、私です。レティシアですわ。あ、貴方に、どうしてもお話ししたい事がありますの」


 緊張で思わず声が震える。

 部屋の中から返事は無かった。

 しかし、その扉は少し遠慮がちに開かれた。

 この目に焼き付いていた彼の悲しげな表情をそのままに、私を不安げに見詰める青の瞳。

 彼はこんなにも寂しい目をする人だったのか。

 その原因を作ってしまった理由は私にもあるのだろう。


 言わないと。

 謝らないと。


 私は彼に、こんな顔をさせたかった訳ではなかったのだから──


「あ、あの……」

「……入るか?」

「え?」

「……他人に聞かれたくない話なら、部屋で聞く」

「は、はい」


 あんな大喧嘩をした後だからだろう。

 いつもより、やり取りがぎこちない。

 彼の許しを得て部屋へ入り、促されるままにソファに座った。


「……何の話だ」


 ウォルグさんも私の向かいのソファに座ったけれど、あれきり一度も目を合わせてくれない。

 自分の軽率な発言のせいで彼を傷付けたからだろう。

 これまでの彼の寡黙な優しさが、どれだけ当たり前の日常として私の中に染み付いていたのか……痛い程実感する。


「パートナー解消の件ですけれど……あの話は忘れて下さい」

「……は?」

「私、ウォルグさんにひどい誤解をしていたと思います。先程ケントさんとお話しして、それに気が付きましたの」


 急な前言撤回に、目を見開くウォルグさん。

 それもそうだ。

 私が彼の立場なら、きっと同じように驚いているに違いないもの。


「私……あの時、とても悲しかったんです。私は貴方を掛け替えのない人だと、信頼出来る唯一無二のパートナーだと思っています。それはきっと、ウォルグさんも同じだと……」

「……俺も、これから先お前以外とパートナーを組むつもりは毛頭無い。だが、俺はお前に必要とされていないんじゃなかったのか? だからお前はパートナーは解消すると言ってきたんだろう」

「それは! ……それは、貴方が私の事を便利な道具ぐらいにしか思っていないと思い込んでいたからですわ。貴方は私をクリストフの手から救おうとしてくれました。それは私を彼に奪われたくなかったからでしたわよね?」

「そうだ。お前をあの男に奪われたくなかった。お前は……他の何にも替えられない、愛しい存在だからだ」

「……っ!」


 彼の口からその言葉が出た瞬間、私は涙が込み上げていた。

 愛しい存在──それこそが、私が彼から与えられたかった言葉だったのだと、魂が喜びに震えるようだった。


「本当に、良いのですか……? 私は人間で、貴方はハーフエルフ。いつか私は、貴方を置いていってしまうかもしれないのに……」

「種族が何だ、寿命が何だ! お前が先に逝ってしまうのなら、すぐに俺も同じ場所へ逝く。お前の居ない世界なんかに興味は無い。お前が居るから世界が輝いて見えるんだ!」


 居ても立っても居られなくなって、私は感情のままにウォルグさんの元へ駆け寄り、その胸に飛び込んだ。

 彼はそれを抵抗せず優しく受け入れ、ぎゅっと両腕で包み込んでくれた。


「お前が強い女だからというだけではない。お前の菓子よりも芳しい甘い香りも、その鈴の鳴るような可愛らしい声も、俺の心を掴んで離さないその深いスミレ色の瞳も……俺をどうしようもなく昂らせる。お前を誰にも渡したくない……離したくないんだ、レティシア……!」

「私もっ……私もやっと気付きました。自分から別れを切り出したのに、どうしてこんなに心が痛いのか……。貴方はいつだって私を守ろうとしてくれた。そして、私を信じて背中を預けてくれた。離れられないのは私も同じだったのです。激しさと静けさと、海よりも深い愛情を持った貴方だからこそ、私は強く惹かれたの……!」


 そっと顔を上げれば、揺らめく青が私を映していた。


「……お願いします。私をこの世の誰よりも愛して下さい。私も、例えこの命が尽き果てようとも、貴方だけを愛する事を誓います」

「死んでもお前を離さない。お前は俺だけの番……。他の誰にも渡すものか……!」


 近付く青が、私の視界を埋め尽くそうとする。

 この深い深い青に溺れていたい。

 私だけを愛してくれる、激しい海の色。

 抱えきれない幸福感に満たされながら、私達はそっと瞳を閉じる。

 互いの唇から伝わる熱の温度は、真夏の夜をより一層暑くさせていく。


 ……この愛は、誰にだって奪わせない。

 彼が私にだけ注いでくれる、狂おしい程に滾りほとばしる熱情──私が花乙女だったあの頃には得られなかった、一途な愛がここにある。


 この想いが伝わるように、私は彼の背中に回した腕に力を込めた。

 私が欲しかったものを与えてくれる、誰よりも独占欲の強い貴方。

 だから私は、貴方に永遠の愛を捧げよう。

 例え寿命が違う人間とハーフエルフだとしても、私達ならきっとそんな運命だって乗り越えられる。


 何故なら私達は──もう離れないと決めたのだから。


 そして窓から覗く夜空の星々だけが、私達の密やかな誓いを見届けたのだった。

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