11日前……心が揺れる
何時なんだろう?
外はもう明るい。玲香のマンションはリビングが一面ガラス張りになっていて、厚手のカーテンがかかっている。裸に近い格好のまま、外を見下ろすと、普通に人が大通りを行き交いしていて、朝早いわけではないとわかる。
ああ、やっちゃったな……と思う。「思い出作り」の日は、由芽にとっては散々な日だったに違いない。せめて、「遅くなる」と嘘でも言ってくればよかった。「思い出」を作るために、小さい由芽はオレのためにまた好物をずらっと用意してしまったかもしれない。スーパーから、重い買い物袋を提げて。そんな彼女を何度見たんだろう?
昨日の玲香の買ってきた惣菜だって、材料があれば難なく由芽は作ってしまいそうだった。
見た目と違って由芽はぼんやりした、ただの地味な女の子ではなく万能なんだ。昨日の玲香のように甘えてきたりしない。
考えてみると、「お願いだから」なんて、別れ話が出てもまだ一度も聞いていない気がする。……深いところで信じ合ってると思っていたけど、その程度だったのかも、とひどくつまらないことを考える。
「要……眩しい」
「おはよう、なんか昼近い気がするけど」
「んー、時間なんて関係ない。ベッドに入ってて」
ベッドサイドのスマホを手に取る。やっぱりもう11時を過ぎている。どんなにがんばっても学校に着くのはお昼過ぎだ。まだシャワーも浴びていないし……。由芽から、無断外泊を責めるメッセージも着信もない。もう、どうにでもなれ、だ。
とりあえず汗をたらふくかいてそのままだったので、シャワーを借りる。うちにすぐ帰るわけでもない。由芽に合わせる顔がない。……由芽がまた眠った後に帰るのが得策なのかもしれない。
「玲香、何か買ってくるけど何がいい ?」
「何でも……美味しいものなら何でも」
「わかったよ」
一人ですぐそこの駅地下の惣菜専門店に寄る。玲香がたぶん好きなのはこの辺だろう、と当たりをつけて買い物をする。昨日、食事に出たものと同じものを見つける。……由芽が見たら、「もったいないよ」と言う値札がついていた。ローストビーフとチーズ、ゆで鶏のサラダを買った。
「玲香、お昼買ってきたから」
まだ裸のままだった玲香がごそごそと布団から出てくる。
「要が盛ったの? すごくキレイ」
「盛りつけくらいは手伝ってたから」
誰の、とは言わない。
「シャワー浴びてくる」
交差点を見下ろす。
ここから下を眺めていたら確かに自分より下の人たちをちっぽけだと思うだろう。と、同時に自分がいかに孤独かを痛感するだろう。自分は彼女の、愛情に飢えた貪欲で歪んだ欲望に応えることができるんだろうか……? わからない。
「ねぇ、食べたらまた、愛してくれる? まだワインもあるし」
「足りないの? 朝まで抱いても」
「要に埋めてもらいたいだけ」
何を埋めてあげたら彼女は満たされるのか、正直、それは体だけではないんじゃないかと思った。求めてくるのは体だけ、だけども。
粘土細工のように玲香の体をこねて、形を変えてやる。彼女は時々小さな悲鳴のような声を上げる。そんなとき、あのネイルの塗られた長い爪がオレの背中に捕まろうとして、引っかき傷をつける。それがたまらない快感を呼ぶ。
彼女を抱いているのは自分なのに彼女を抱かせてもらってるのが自分なんだ、と倒錯する。引っかかれれば引っかかれるほど、勲章をもらった気になる。何のって、彼女を「良くした」数だけもらえる勲章。オレ以外はもらえない。
「もう、教えることがなくなっちゃって、立場、逆転」
「まだだよ、玲香の気持ちいいとこ、全部は見てないし」
「ふふ、全部すぐに見せちゃったらつまんないじゃない」
吐息の中で深い海の底に沈んでしまったように、浮かび上がることができない。このまま玲香の海に沈んでしまえばいい。どうせ由芽と別れてしまうなら、いっそずっとこのままこのベッドにいればいい。
「それはダメなの」
「どうして? 欲しくないの、いつでも?」
「……知ってるでしょう? お友だちも来るし。申し訳ないんだけど、ここは生活臭がなくてそれでちょうどいいの」
あまり期待していなかったので、特にガッカリもしなかった。それに、その「お友だち」の仲間になるのはもっと嫌だった。気取ったやつらで、オレは下の人間だと思われていた。
たっぷり夜まで重なり合って求め合って、すべてを欲しがられても応えていたら、夜は深い闇で街を包み駅のホームが白く光って見えた。
「帰るよ」
「明日も会える?」
「学校でね。明日もこんな風にしてたら進級できないと思うよ」
玲香はどさっとベッドに寝転がった。
「……要も意外と普通なんだ。もっとリスクを怖がらないのかと思った」
「オレは普通だよ。玲香がオレを選んだことが不思議なくらいだよ」
「ただいま。……まだ起きてたんだ?」
「……おかえり」
「シャワー、浴びてもいい?」
「どうぞ」
もうすっかり寝ているかと思った終電手前の時間に、由芽はまだ起きていた。走って玄関に迎えに出たりはしなかったけれど、玄関まで顔を出した。……どんな顔をしていたらいいのかわからない。2日も丸々、玲香に溺れていて由芽にどう接していいのか……。とりあえず、玲香の部屋でもシャワーは浴びてきたけれど、由芽の部屋で玲香を洗い流す。
「要、ご飯、食べたの?」
向こうから声をかけてくれて安心する。
「ん、ちょっとだけ。なにかある?」
「おにぎり作ろうか?」
いつもなら、ここで喜ぶところだけど、素直に喜べない。こんな時間に手間をかけてオレのために何かをしてもらう価値なんてない。
シャワーを弱くして、少し考える。
本当にここに居続けていいのか? 由芽をただ
「由芽、そういう、細かいこと、もう気にしなくていいよ」
「え、やだなぁ、元々だし」
「オレのことなんか考えなくていいよ。夕飯を何人前作るのか、とか、ご飯は何合炊くのか、とか、ミカンの買い置きはどれくらいするのか、とかさぁ、そういうこと全部。オレは頭数に入れなくていいから」
由芽は浴室のドアの外に立っているようだった。彼女こそ言いたいことがたくさん、胸の奥に詰まっていることだろう。小さい由芽の体の中に、悲しみがどんどん積もっていく。その悲しみを作っているのはオレだ。
「開けてもいい?」
何も言えなかった。由芽はバスタオルを持って、彼女の服を濡らしてしまいそうな程狭い浴室に入ってきた。
「大好きだから繋ぎ止めておきたいと思うけど。わたしがどんなにがんばって料理とかしたって、要の心は戻ってこないんでしょう? それはわかってるから安心していいよ。一言いってくれれば今だって、大島さんのところに行ってもかまわないんだよ。昨日も今日も連泊してきても、要の自由なんだよ。『泊まる』って言ってくれれば、ふたりの邪魔はしないから。例え『17日』前でも、要はもう大島さんのことでいっぱいでしょう?」
言葉が出なかった。
オレがいい気になっている間に、由芽の心は決まっていたんだろうか? オレが玲香のことでいっぱいでも? そうだ、玲香を手放したくなくて必死だ。
そのことを由芽は知っていて、オレに「玲香と会うのは気にしない」と告げている。
とりあえず体を拭いて混乱した頭を整理する。
なんで由芽はこんなに真っ直ぐなんだろう? オレがこんなに間違っていても、曲がらないのか?
醤油の香ばしい香りが部屋に漂う。由芽が焼きおにぎりを焼く。この2日、考えられないことだけど醤油を口にしなかった。玲香はスタイル維持のためなのかほとんど食べない。オレも自然に食べなくなる。
カリッと少し縁が焦げた焼きおにぎりは、由芽の温もりを思い出させた。心が揺れる。比べられることじゃない。でも、由芽は今のところ執着を見せずにただ、「17日間」をこなしている。
由芽は泣くんじゃないか、なんて思い上がりだったに違いない。
「ごちそうさま」
……その夜はただ顔向けできなくて、由芽を見て眠ることができなかった。「思い出作り」なんてバカなこと書いて、何やってんだろう、と思うと情けなかった。
玲香を抱いた腕の中に由芽を抱くのは由芽を汚すような気がして、つき合い始めてから初めて由芽に背中を向けて寝た。彼女から背中に抱きついてくることもなかった。
……こうしてオレたちは終わっていくんだな、と思った。
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