3日前……きっと泣いてしまう

 朝からひどい雨の音で目が覚めた。

 今朝はまた一段、ランクアップした要が試行錯誤してサンドイッチを作っている途中だった。

「おはよう……」

「おはよう、寒いでしょ、コーヒー飲む?」

「うん、飲む……」

 昨日はすっかり冷めてご飯がふにゃふにゃになったシチューを食べて、わたしは要の腕の中で要のものになりながら、疲れて寝てしまった。要はタフだなぁと思う。

 サンドイッチは、ハムレタスサンドだった。シチューの残りと合わせていただいた。

「由芽、悪いんだけど……約束違反なんだけど、どうしても今日、玲香に会わなくちゃいけないんだ」

 わたしは注がれたコーヒーに口をつけた。何を言ったらいいのかわからなかった。

「うん、わかったよ。どうせ雨がひどくて散歩もできないしね」

 情けなくて泣きだしそうな、子供のような彼の表情かおを見ていると、わたしの方がイジメっ子のような気持ちになった。

 口の中で、レタスがパキッと音を立てた。


 ベランダで跳ね返るようなひどい雨の中、出かけて行く恋人を見送る。ああ、なんでこうなっちゃうんだろう? せっかくふたりだけで気持ちも繋がったのに。あと3日で返すって言ってるのに。

 大島さんてワガママな人だなぁと、今更、思ってみたりする。それから彼女の嫌いなところを数え始める。

 あのネイルから始まって、上から目線なところ、派手なところ、男にだらしがないところ、……要を持って行っちゃうところ。要もなんで行っちゃうんだろう? 会わないって約束してたのに、呼ばれたらほいほい行っちゃうなんて。

 用事があって行ったんだろうと思うようにして、こたつに入ってみかんの皮を剥く。


 どうせなら少しは有意義なことをしようと考えて、明日と明後日の残り2日間でできることを考えてみた。きっと、今までの人生の中で最も濃い2日間になる。やたらなことで使うのは惜しいと思った。

 でも。

 何回考えても考えは変わらない。同じとこを回る。

 わたしが彼と最後にしたいのは、ここに座って過ごすことだった。たったそれだけのこと。今まで幾度となく自然にしてきたこと、そのことが一番、実現が難しいと思えた。こたつに入ってゲームをしたり、足が当たったり、わざとくっつけたり、みかんを食べたり……。神様、わたしに要を返してください。


「ただいま」

 夕方にはほど遠い午後、要は普通の顔をして帰ってきた。

「おかえり。ずいぶん早かったんだね? 遅くなるかと思ってご飯、何も考えてない」

「ごめん、連絡しなかったからそう思っても仕方ないよ。でも、この雨の中そんなに長く出かけたいと思えないよ」

「確かに」

 わたしはこたつから出て、傘をさしてもずぶ濡れだったと思われる要にタオルを差し出した。要の手はひどく冷えていた。

「着替えて早く温まらないと風邪ひくよ?」

「うん、わかってる。何か温かいもの、飲ませてくれる?」

 ミルクパンで牛乳を温めて、たっぷりミルクを入れたカフェオレを作る。着替えてきた要はこたつに入って冷ましながらそれを飲む。その凍えて丸くなる背中をわたしは見ていた。

「わ! こぼすよ」

「寒いかなぁと思って」

 驚かせたかったわけではなく、温めてあげたくて背中から抱きしめた。……今日は、あの知らないシャンプーの匂いがしない。要は雨の匂いがした。不思議に思ったけれど、それならすぐにシャワーを使わないのかもしれないと思ってお風呂にお湯を張る。

「ありがとう」

「風邪ひくとツラいから」

 部屋の広さの関係でベランダ寄りに設置してあるこたつは、半分が雨の中にいるような錯覚を覚える。

「くっついててもいい?」

「雨の匂いを由芽が嫌じゃなければ」

 のそのそと毛布を持ってきてふたりの肩にかけて、わたしはこつんと要の肩におでこを当ててから、ずるずるっと膝枕をしてもらう形になった。

 久しぶりの膝枕。

 たぶん、これが最後の膝枕になるんだろう。

「由芽、オレ……」

「大丈夫、心配しなくても。別れたらつき合ってほしいって言ってくれてる奇特な人がいるし」

「……原田のこと?」

「やさしい人、だと思う」

「すぐにつき合うの?」

「わかんない、要と別れてからよく考える」

 お風呂の給湯が終わったメロディが流れて、わたしは彼を浴室に促した。要と別れたら……それだけでも考えるのが悲しくなるから、その先の未来はさっぱり無くなったことにしないと、きっと泣いてしまうと思った。


 お風呂を出てすっかり温まった要にすり寄って暖を取る。彼もネコを撫でるようにまたわたしを膝枕しながら、みかんを食べ始める。

「お昼、そう言えば食べたの?」

 要が帰ってきたのは微妙な時間だった。わたしは要がいないときに食事を取らないスタイルがすっかり定着してしまって、みかんしか食べていなかった。

「食べなかった」

「うーん、この雨じゃ買い物に行けないしねぇ」

 相変わらずドサドサと降ってくる雨に閉口する。

「あのさ、大したことじゃないんだけど」

「何?」

「由芽はいつも『何日か分まとめ買いしたほうが得なんだ』って言って、毎日買い物に行ったりしなかったじゃん?最近は……」

「ああ、そうなの……」

 照れくさくてつい口ごもる。好きな人のことをどれくらい好きなのかというのは、伝えるのが難しい。

「あのね、買い物に行くと要と手が繋げるから。新婚さんみたいに手と手を繋げるのがうれしくて、わざと毎日行ってたの」

 要がふっと笑う。木々の葉が揺れて、そよ風が吹いたような微笑みだった。

「バカだな、買い物じゃなくても手くらい……由芽、オレね」

「うん、ごめん。今日は残り物でいいよね? 何があるかなぁ」

 狭い部屋の床をずるずると這うように冷蔵庫に行った。……さっきから要は何かを言おうとしている。でも……それを聞いたら何かが徹底的に変わってしまう気がして怖くてとても聞けなかった。今日だって大島さんを抱かずに帰ってきたのは、たぶん約束のせいだ。明後日、17日の約束が終われば、彼は大島さんのものになる。そしてわたしは彼のものじゃなくなる。

「うどんがあるから、それでいい? 足りなかったらご飯はあるから、またおにぎりでも作るよ」

「十分だよ」


 冷蔵庫にあったわかめと油揚げ、それから常備してあるネギを使ってうどんを作った。

「いい匂い」

「あ、今日は初めて『麺つゆ』使ったから、味がおかしかったら言ってね。調味料、足すから」

「今どき、何処の家庭でも麺つゆくらい使うでしょ? 気にしすぎ」

「そうなのかなぁ。なんか手抜きしてる感じがすごいしてて、罪悪感、半端ないんだけど」

 要はくくっと笑って、やっていたアプリを止めてスマホをこたつに置いて食卓に着いた。食卓に着くと、ふたりで「いただきます」をした。

「美味しいよ?」

「ならいいんだけど」

 生姜焼きの素といい、麺つゆといい、確かに今までのわたしは何に時間を費やしていたんだろう、と思う。家事を一生懸命、自分なりにやってきたつもりだったけれどそれは独りよがりで、本当はその分、要と一緒にいられる時間がたくさんあったのかもしれない。

 でもこれは結果論で、明日までしかつき合えないからこそ、そう思うんだろう。

 キラキラした時間たちは本当に目の細かい砂で出来ていて、わたしの指と指の間を簡単にさらさらと滑り落ちてあっという間もなく手のひらは空っぽになる。そして、それはそのときには気がつかないものなのだ。空っぽになって初めて、心の中が虚ろになったことに気づくのだろう。


 自然に唇が合わさる。

 あと何回、この人とキスができるんだろう?


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