陽炎の家

月浦影ノ介

第一話 葬列の午後

私の家の近所に、三河さんという人が住んでいた。

若い頃、志願して海軍に入り、乗っていた艦を二度撃沈され、二度とも無傷で生還した強運の人である。

今年の春、九十八歳でその生涯を閉じた。

これはその三河さんから、だいぶ以前に聞いた話である。


終戦から数年が過ぎた、八月初旬のある昼下がりのこと。

茨城県の県北にある山間の小さな町で、三河さんはボンネットバスを降りた。

この町のとある民宿に婿養子として納まった、郷里の友人を訪ねて来たのである。

この町を流れる川は、鮎の名所として知られている。釣り好きでもある三河さんは、友人の婿養子先の民宿に二三日滞在して、鮎釣りを楽しむ予定であった。


道路沿いに続く青々とした田圃の向こう、町のほぼ中央を流れる川は陽の光に煌めき、釣り人の投じる竿が弧を描くのが見える。


大戦中、この田舎町は空爆の被害を免れたが、それでもときおり米軍の艦載機が偵察に飛んで来ることがあったという。

大戦末期ともなると日本の敗戦は決定的となり、この町にも本土決戦に備え兵隊が配置されることとなった。

護宇部隊と呼ばれたのがそれである。

しかしこの部隊は銃を持つより、山林の伐採や農作業に従事することが多く、農具を持った生産部隊というのが実態であった。

三河さんの友人はこの護宇部隊の配属だった。部隊の宿泊先として地元の小学校や民宿が利用され、三河さんの友人はそこで将来の伴侶となる女性と知り合い、終戦を待って結婚と相成った。

人の縁とはどこで結ばれるか分からないものである。


さて、釣り道具とその他の荷物を担いで歩くうち、三河さんは自分が間違えて、本来降りるはずの一つ手前の停留所で降りたことに気付いた。

次のバスが来るまで、まだだいぶ時間がある。

たかがバス停一区間の距離である。三河さんはそのまま歩くことにした。


ひどく暑い日であった。強い日差しがジリジリと肌を焼き、拭っても拭っても汗が噴き出して来る。

路上から立ち昇る熱気に煽られながら歩くうち、三河さんは気分がいささか悪くなって来るのを覚えた。

頭がふらふらして目眩がする。とうとう我慢できず、道端に立つ大きな楠木の陰に歩み寄り、その根本に腰を下ろした。

赤い前掛けをしたお地蔵さまが、傍らにこじんまりと佇んでいる。


厳しい軍隊生活で鍛えられたにも関わらず我ながら情けないとは思ったが、それでも具合が悪いものは仕方がない。

しばらく木陰で休んでいると、陽炎に揺らめく白い道の向こうから、黒い影のような一団が静かに近付いて来るのが見えた。


葬列であった。


先頭に立つのはガンバコを担ぎ、白いさらしを襷がけした四人の男。

ガンバコとは、棺を収める箱を意味する。白木で組んだ社に似た簡素な作りの輿で、この中に死者の棺を収め、四人の男衆が担いで出棺する。この地方に代々続く風習である。


照り付ける太陽に晒されながら、葬儀の列は影法師のようにゆらゆらと進む。

楠木の陰で休む余所者を幾人かが胡乱な目で一瞥し、無言のまま通り過ぎた。

視界の隅に葬列は小さく遠ざかって行く。静けさと共に蝉時雨がいちどきに降って来て、三河さんはひどく疲れを感じ、目蓋を閉じた。


「あんた、こんな所で寝てたら病気になるよ」


ふいに頭上で声がして、三河さんはゆっくり目蓋を開けた。自分の顔を覗き込むようにして、目の前に見知らぬ婦人が立っている。

歳は五十代後半だろうか。白い割烹着に、紺色のモンペ姿。白髪混じりの頭に手拭いを被り、日に焼けた肌は浅黒く、幾本も刻まれた額の皺に汗が滲んで光っていた。

三河さんはふと、亡くなった自分の母を思い出した。


「大丈夫かい、顔が真っ青だよ」

「……少し気分が悪いもので」

「それなら私の家に来て休みなさい。こんな所にいたら、日射病になっちまうよ」


婦人に身体を支えられるようにして辿り着いたのは、茅葺き屋根の小さな平屋建ての一軒家だった。

家の前を用水路が流れ、その上に掛けられた渡し板を歩いて玄関に入る。薄暗くひんやりした土間を抜け、縁側のある和室に通された。

座布団を二つ折りの枕にして横になると、庇に吊るされた風鈴が涼し気に凜と鳴る。

「少し待ってなさい」と言って婦人が持って来たのは、湯呑み茶碗一杯の冷たい水であった。婦人に支えられて水を飲み干し、井戸水で絞った手拭いを額に置いて再び横になる。ようやく人心地ついた気がした。

傍らで団扇を仰ぎ風を送ってくれる婦人に礼を述べ、楠木の下で行き倒れそうになった理由を説明した。


「そうかい。今年は特に暑いからね。とりあえず急ぐ用もないなら、少し眠りなさい」


婦人に言われた通り目蓋を閉じ、一つ大きく深呼吸すると、三河さんはそのままあっという間に眠りに落ちた。

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