テクニック
金曜日の仕事終わりに、真っ直ぐ家には帰らない。
その理由をサラリーマンに尋ねたら、飲み会か夜遊びが選択肢の有力候補だろう。
しかし、俺は日払いのバイト終わりのフリーターであり、現在いる場所は豪徳寺のスポーツジムなのである。
さらに残念な事に、綺麗なトレーナーの女性に優しく指導されているのではない。
俺の貧相な細い腕は、かなり仕上がっているムキムキの大男(イケメン刑事)に後ろ手に捻り上げられていた。
「これが立ったまま出来る簡単な逮捕術ね!プロレスのハンマーロックみたいな物だからすぐに覚えられるよー!」
「いたたた・・・いてぇーーー!か、樫井さんもう離して!」
彼は俺の腕を離すと、『じゃあ今の俺にやってみて!』と言い出してノリノリだ。
少し離れた場所のウォーキングマシンで並んでトレーニング中の女性客は、こっちを見てクスクス笑っているし、大きなダンベルを持ち上げながらチラチラ見て来る中年の男性は、なぜか羨ましそうな表情をしている。
俺の関節は本当に悲鳴を上げていたのだが、事情を知らない人から見れば、若い男同士がイチャイチャしている構図になっており、誤解が生じても仕方ない。
「明日は早いし、俺は本買って帰るつもりだったんですけど・・・。
大体、ここはジムなんだから樫井さんは運動してて下さいよ。俺はロビーの椅子で本読んで待ってますから。てゆうか、なぜ海に行く前日にジムなんですか?」
疲れ果てた俺は、両手を出して俺に技を掛けられるのを待ち望んでいる樫井さんを無視してそう呟く。
やっと諦めた彼は、水を飲みながら目の前の鏡で筋肉を確認して満足そうだ。
「いやー、お盆休み関係なくずーーーっと働かされてさ、やっと久しぶりの連休が貰えて皆で海に行ける事になったんだもん!身体仕上げるしかないっしょ!
・・・それに松宮君がやっと本気になってくれたのが嬉しくてさ!
ストレッチ終わったらご飯行けるから、あと10分待っててね!」
一日で筋肉量は変わらないとは思うが、彼曰く『見た目のハリが違くなる!』との事で、食事前の1時間こうして見学させられている。
彼の休憩の合間に俺が逮捕術のレッスンを受ける事になってしまったのは、些細な事がきっかけだったのだが、今は変に期待させてしまったプレッシャーを感じて、仕事疲れの頭の中が大いに混乱していた。
――― 8月27日 金曜日 蒸し暑さが増した夕立の後
コールセンターでの業務を終えてビルの外に出ると、朝の快晴とは打って変わって洪水の様な大雨だった。
慌ててコンビニで傘を買ったが、あまりの雨の勢いに最寄り駅からの自転車を諦め、駅の近くの本屋で時間を潰すことにする。
朱莉は朝から(必要のない)旅行の準備について杏花さん達と話した後、夕食も御馳走になって帰ると張り切って出て行ったので、夕食は適当に駅で食べる予定だ。
就職関連の本は沢山ありすぎて、心の迷いは広がっていくばかりだ。
フリーターからだと、大手の金融系は難しそうだし・・・塾講師などはもちろん学歴が一番の問題点らしい。
不意にポケットの携帯が震え、メールを確認する。
【樫井です!やっと仕事終わったー!松宮君は三軒茶屋いるの?飯行こー!】
明日からいつものメンバーで海に旅行の予定なのに、どれだけ人恋しいんだ・・・とも思ったが、付き合いたての杏花さんとも全然会えていない様なので色々不満もあるのだろう。
そう解釈した俺は食事を快諾して本屋の名前を伝え、また店内を歩き始めた。
プログラミング関係の本が難しすぎて断念した後、少し飽きながらフラフラしていると、いつの間にか難関大学の入試問題コーナーへと辿り着いていた。
親が必死に進めていた国立大学の過去問を捲ってみる。
かなりブランクがあるはずなのに、意外とすらすら解けるものだった。
少し自信を取り戻した俺は、もしかしたら公務員の試験もこんなものか?と思い、
上級と書かれた問題集をパラパラと読み始める。
一般教養や論文の書き方などは普通に理解出来そうだ。
建築や土木は工業系の高校じゃなかったので少し難しいな・・・と思いながら視線を横にずらしていくと、警察官の採用試験の過去問も置いてあった。
樫井さんはどんな勉強をしていたのだろうか?ふと気になって、警視庁1類と書かれた本を手に取る。
一般学科は簡単に解けたが、判断推理なるものが奥が深くて面白い。
言葉のあや的な間違いを誘導しているのだろうか?素直な樫井さんがこれを必死に考えていたのが目に浮かび、俺は一人で笑っていたようだ。
「言っとくけど、ズルはしてないからね!松宮君には簡単すぎるだろうけど!」
急に肩を掴まれて振り返ると、俺の心中を全て察したような表情の樫井さんが不満げに突っ立っていた。
「お疲れ様です。・・・いや、凄く・・・笑っちゃうほど難しいなーって思って。
樫井さん、よくこんな試験を突破出来ましたねー・・・尊敬します!!」
かなり挙動不審な回答だったと思うのだが、『そ、そうかな!?いやー半分死にかけながら頑張ったんだよねー!』と彼は満面の笑みで頭を掻いて照れている。
(・・・か、かわいい。素直な大人って可愛い!)
「それはそうと、松宮君は何で本屋さんに来たの?雨宿りしてただけ?」
「いや・・・朱莉は杏花さんの家で旅行の話をしながらご飯食べるって言うから、
来年の就職の本でも探してみようかなーって思って・・・。あ、でも・・・」
不思議そうに尋ねた樫井さんにそう答えている途中から、俺はこの状況でこの話題を出すのはまずいかも知れないと思い始めていた。
「えーー!本当に!?じゃあ、警視庁の採用試験受けてくれる気になったの!?」
そう言って樫井さんは、大喜びで勝手に参考書を選び始める。
「い、いや読んでみて無理そうだなーって思ったから、諦めて一般の公務員にしようかと・・・。ほ、ほらこの体力検査とかがもう無理そうで・・・。」
俺は出来るだけ彼を落胆させない様に、必死に言い訳を考えて伝えてみた。
「あー・・・それなら大丈夫!俺が普通に受かれるくらいのメニュー考えるから!
武術は、受かった後に学校で習うから経験なくても平気だし。」
完全に燃えている樫井さんはそう言い残すと、数冊の本を取って勝手にレジへと歩いて行ってしまった。
本屋から出ると雨は上がっていて、完全に日が落ちた後だった。
飲み屋へと歩き出した人波や、帰宅を急ぐ学生などで駅前はとても賑わっている。
「18時半か・・・まだ腹減らないよね?よし!ジム行こう!」
「・・・え?」
呆然とする俺を引き連れて、彼は家の近くのスポーツジムへと向かうことに決めたらしい。
「ウェイトトレーニングの休憩中に、家で出来る自重トレのメニュー教えるから、
今日から頑張ってみてね!」
俺の戸惑いなどつゆ知らず、彼はもう絶好調だ。
駅の階段を2段飛ばしでスイスイと上って行ってしまった。
そのような経緯で俺たちは、ジムの後にファミレスへ来て肉の塊を食べていた。
駅ソバにする予定だった俺は、親切な彼が勝手に頼んだBIGハンバーグセットを完食する為に、必死で自分の胃と戦っている。
「あ・・・あの、明日って何時起きでしたっけ?」
「俺が7人乗りの車レンタルして、杏花さんの家に7時半に行くからそれまでに二人で行っといてねー!自転車は杏花さんの家に置いとけばいいよ。」
彼は15分もしないうちに巨大な肉を全て平らげた後、楽しそうに笑って答えた。
「車とか宿の手配、全部任せちゃってすみません・・・。」
「い・・・いや、全部考えたの女の子達らしいよ?凄いよねー・・・。
俺は杏花さんの指示通りに、予約された車を取りに行くだけなんだー!」
樫井さんの気まずそうな回答を聞いて、海に行くことが決まってからの2週間あまりの間に、凄い頻度で女子会が開かれていた理由をようやく俺は知った。
「・・・香苗も会議に参加してましたよね。部屋割りとか・・・どうなっているんでしょうか?俺は男女別が良いって朱莉に伝えていたんですけど。」
「・・・大部屋で全員一緒らしいよ。松宮君の想像通り、香苗が決めたらしい。」
「地獄ですね。」
樫井さんの苦笑いを見る限り、三上の余罪が多すぎて多忙を極めたこの1ヶ月の間、
捜査と会議、書類仕事に追われ過ぎて彼女とデートもしていなかったらしい。
やっと得た連休も、二人っきりでの旅行では無いなんて・・・神は無慈悲である。
「俺は・・・来月、実家に行く用事があるんだけど、杏花さんを誘ったらその時に一緒に行くのオッケーしてくれたんだ。出会って一年もしてないのに信用してもらってるんだーって思ったら、なんか凄い嬉しくてさ・・・。
ずっと隣に居てくれるなら、別に今すぐに二人で過ごせなくても構わないんだ。」
樫井さんは高校生の様に純粋な表情で頬を染めながらも、強い意志を感じさせる、とても格好いいセリフを呟いている。
「そ、そうですか!本当におめでとうございます!」
下衆の勘繰りや嫉妬ばかりしていた自分が急に恥ずかしくなって、それ以上の言葉は贈ることが出来なかった。
「俺と杏花さんは構わないけど、松宮君は同室で気まずいよね・・・ごめんね。」
「まぁー・・・俺、香苗の気持ちも分かるんで本当はそこまで気にしてないです。
・・・修学旅行とか参加しなかったし、友達と大部屋で寝るなんて経験なかなか無いですよね。杏花さんも・・・楽しみなんじゃないでしょうか?」
俺が樫井さんと女子たちの気持ちを精一杯推し量るようにそう答えると、彼は今日一番の笑顔で『ありがとう!杏花さんも喜ぶよ!』と言って頭を下げた。
一人ぼっちで施設に送られた少女や、虐待を受け続け学校も満足に行けなかった少女の過去を想えば、好きなのに告白出来ていない子を含めた3人の女子と同じ部屋で寝る位、なんてことない問題だ。
困った顔など見せず、全力で彼女たちを楽しませてやるくらいの男気は、この機会に養っておいて人生に損はないだろう。
自分の要求よりも、相手の喜びを優先する事を望む。
それが当たり前の様に出来る彼には、やっぱり・・・少しだけ嫉妬した。
樫井さんに買ってもらってしまった、重い参考書を抱えてクタクタになりながら帰宅したのは22時近くになっていた。
朱莉は俺が出しておくだけで何もしていなかった旅行鞄を綺麗に拭いて、タオルや歯磨きセットなどをテーブルに並べてチェックしている様だ。
「遅くなってごめん・・・旅行の準備までしてくれてたの?」
「おかえりー!凄い本の量だね・・・お疲れ様!
うん!この前買ってた水着もタグ切っておいたよ。携帯の充電器と、日焼け止めもまとめておきましたっ!あとは誠士くんが服を選ぶだけだよー♪」
何の準備もせずに旅行の前日に遅く帰宅した俺に、朱莉は何も不満を言わず向日葵の様なご機嫌な笑顔を向けている。
「・・・あ、ありがとう。お風呂終わったらすぐ用意して寝るね!」
一瞬、息が上手くできない程に脈拍が狂ったが、邪心を悟られぬように礼を伝えた俺は、急ぎ足で風呂場へと向かった。
いろいろと洗い流し終わってスッキリした後、適当に半袖シャツや七分丈のチノパン、ビーチサンダルなどを鞄に詰め込んでいると、心配そうな顔をした朱莉がそーっと近づいてきて俺の顔を覗き込んだ。
「お風呂長かったし、ボーっとしてるけど・・・のぼせちゃったの?大丈夫?」
「ふぇっ!?・・・大丈夫だよ。」
顔を
しかし、いつもの様にしつこく絡んだりはせず『私はパソコンで少し見たいものがあるけど、誠士くんは先に寝た方が良さそうだね。』と言って電気を消す。
目が悪くなりそうな気がして『電気は点けといて良いよ』と言おうとしたが、彼女が生霊だったのを思い出した俺は、何も言わずベッドに腰掛けた。
暗いオレンジ色の豆電球の薄明りだけになった部屋に、雨上がりの綺麗な月明りがカーテンの隙間から差し込んで揺れ動く。
壁際のラックからパソコンを運んできて、低いテーブルに置こうと前屈みになった朱莉の真っ白いワンピースの襟元から、陶器の様に滑らかな
重力の影響を受けていない肌は、コップの水の表面張力の様な柔らかさを感じる。
なぜかすぐ目を逸らす事が出来ず、俺は彼女の動き一つ一つをただ見つめていた。
ベッド脇の床にゆっくり腰を下ろした彼女の、さらさらと流れる黒髪が自分の身体に少しでも触れてしまったら、もう後に戻れなくなる気がする。
俺は薄い肌掛けの中に足先をしまうと、壁際に寝転んで無理矢理に目を閉じた。
心臓の鼓動を数えているうちに寝れるだろうという甘い予測に反して、不慣れなパソコンの操作音すら愛しく感じている俺の脳は、かなりの重病に侵されていた。
「え・・・っと、香苗さんなんて言ってたかな・・・」
いつも一人で過ごしている時の癖なのか、完全に俺が寝ていると安心している様子の朱莉は、ブツブツと独り言を呟きながらネットを見ているらしい。
「ぺ・・・ッティン・・・グ?」
(え・・・それ調べてるの?)
「うぉぉぉぉーー・・・な、なんですかな!?これは・・・」
(・・・。)
「関連動画・・・?」
(たぶん、それまずいやつ・・・)
「あわわわ・・・うそーーー止めてー!?」
彼女の焦りなどお構いなしに、動画の
濡れた肌同士が吸い付く様な卑猥な音も交じり、それはやがて激しさを増す。
ふと、朱莉がこっちを振り向く様な気配がしたが、俺が動かない事を確認したかの様にまたパソコンを弄り始める。
「よ、よかったバレてない。画像にしておこう・・・」
(全然良くないし、まだ興味あるんだ・・・。)
「えっと・・・その気にさせるテクニック一覧・・・」
(・・・。)
「お・・・おぉ!へぇ・・・こんなのが・・・」
(履歴、全部消さなきゃ・・・)
「も、もう一回・・・復習を・・・」
(もうやめろーー!)
同居して5ヶ月・・・ついに我が家の生霊(女性)は、エロ動画を見始めた。
もう一体、何がどう転べば普通の恋愛が出来るというのだろう?
分からない事が多すぎて完全にキャパオーバーになった脳内は、なぜか樫井さんが教えてくれた逮捕術の再生を始めている。
掴みかかってきた相手の手の甲を、下に押し下げて固め・・・そのまま自分の腕と脇腹へ挟み込む様に引きずり込みながら、相手の肩を片手で押さえて・・・背後に回って密着すると緩まない・・・。
5人ほど極悪人を気持ちよく締め上げ、警察に感謝されまくる妄想を終えた俺は、
いつの間にか深い眠りの淵へと落ちていった。
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