背信的悪意と英雄の条件

プロローグ ある青年の罪

「僕を英雄にしてくれないか?」

 十年前のあの日あの場所で、僕はごく自然に壺の中に潜むソイツに対して打ち明けた。そう、確かに言葉にしたのだった。

 手にした壺の中は闇一色見えたが、目の前には苦悶くもんの表情を浮かべた鏡面きょうめんに移った人か魔物か判別しがたい何者かの「顔」があった。顔は、やがて眼をそむけたくなるような笑みをルロイに手向けると。静かに音もたてず首をもたげながら壺から抜け出してきた。

 ルロイの胸襟にこもったなにかもやのようなものがその顔へと伝わり何かの合意がなされたかのように顔は首ごとうなずいた。

 全身に力がみなぎると同時に、どこかでルロイの意識が遠のいてゆく。

「ロイ、そいつは危険だ。手を放せ!」

 気が付けば、親友の腕がルロイの手にした壺をルロイから引き離そうと忌々いまいましげに力を込めているのだった。

 瞬間、寒気と共にどす黒い感情がルロイの腹の底から一気に噴出する。

「邪魔をするな!エルヴィン!」

 後にも先にも、ルロイ自身が誰かに殺意を抱いたのはこれが最初で最後であった。

「ジョグルとメイアーもそれを覗いてどうなったか、オメェも見ただろうが!」

 かつて仲間だった。しかし、今や物言わぬむくろとなった二人を遠巻きに見てルロイの最後に残された理性がかすれてゆきながらも胸の内で叫ぶ。

『やめろ、戻ってこい』と、すでにルロイは片手に壺の取っ手を握りつつ、自らの得物の柄を強く握りしめていた。今更何を失う?戻るだと?蚊の涙だそんなものは!細やかなりと肥大した野心がささやく。

「貴様さえ……」

 怨念さえ込め半ば本能的に、ルロイは得物のチンクエデアでエルヴィンに斬りかかる。

 エルヴィンは得物でツヴァイハンダーのロングソードのつばで防ぐ。

 その一撃でエルヴィンは重心を崩したか、ルロイの二撃目でチンクエデアの切っ先がエルヴィンの革の胸当てに突き刺さる。

「――――っ馬鹿野郎が……」

 エルヴィンの剣の切っ先は、壺から顔を出したソイツの声なき絶叫をたたえる顔を真っ二つに切り裂いていた。

 一瞬なりとも、目が覚めた。両の手までが放心したかのように、ルロイはチンクエデアと壺の両方を力なく手落とした。

「エルヴィン……僕は」

「ロイ、戻ってこいよ……」

 それがルロイの聞いたエルヴィンの最後の言葉だった。

 その声色はルロイに対する非難よりもひどく痛ましい、憐れむような感情さえ深くにじみ出ていた。今でもそればかりがルロイの脳裏に焼き付いている。

 その、束の間の冷静がルロイに全てを否応なく理解させた。そして、もはやむき出しの感情をせき止めてゆくことなどできはしなかったのだ。

「――――っ畜生ぉぉおおおお!!」

 先ほど、エルヴィンに刃を向けた時よりもはるかにどす黒い感情と絶叫を込めて、ルロイはエルヴィンを両手で突き飛ばし、谷底へと突き落としていた。壺とその中に潜むソイツを巻き添えにして。

 それから異界の扉から生還するまで、ルロイはよく覚えていない。必死で扉目がけて全力で逃げ去ったことは確かだったろう。

 その時否応なしにルロイは悟った。

 今まで、前ばかりを見て全力でエルヴィンに追いつこうと必死だった事が、今や目を背け逃げていただけだった。

 そのほの暗い絶望的な気付きにこそ、ルロイ・フェヘールにとっての新しい物語の始まりであった。

 それは一人の青年が徐々に更生してゆく物語。

 彼が徐々に生まれ変わり、これまで全く知ることのなかった新しい現実を知るようになる物語である。




 レッジョも気が付けば、冬の季節になっていた。

 レッジョの冬は比較的湿潤で小雨霧雨が多く、しかし雪が降り積もることは少ない。

 もちろんそうは言えども、寒いものは寒い。

 熱いお茶が是非とも美味い時期だというのに、この時期レッジョではコブリンとスライムどもがどこからともなく大量に跋扈ばっこし南東のセラフィー地方から輸入されてきた最高品質の茶葉が貯蔵されたレッジョ港の倉庫を台無しにしてしまったらしい。そのせいで、ルロイは普段とは質量ともに劣る茶葉を高値で買い、こうしてわびしいティータイムをたしなんでいるのだった。

 窓から外をのぞけば、どんよりとした曇天に街には霧が立ち込める陰鬱いんうつなようであるにも関わらず、そこを行き交う冒険者や衛兵の数はおびただしくレッジョの大通りはやはり騒がしい、だがこれはいつもの冒険者同士の乱痴気らんちき騒ぎではない。

 ダンジョンからあふれ出した、あるいはほかの地域場所から力場のように引き寄せられたモンスターどもがそこかしこで湧いている。

 その鎮圧のため、レッジョの各方々で冒険者や憲兵が駆り出されているのだった。新たに発生したモンスター討伐のために街の区画をせわしなく駆け回るブーツの音。負傷して担架たんかがわりの粗末な木板に運ばれる負傷者のうめき声。

 遂にアレが開くときが来たことにルロイはとうに気が付いていた。

「あれから、ちょうど十年か……」

 ルロイはティーカップを机に置き椅子から立ち上がると、独り言ち窓際へ歩み寄る。

 十年前も、初めてレッジョに来た時もレッジョはこんな光景が広がっていた。いや、今回はもっと酷い有り様に見える。心なしか負傷者が運ばれる頻度が増えているきがするのだった。

 それは、ルロイにとってあのころからの心境の変化なのか、それともやはり十年前のあれが作用したせいか。だとすれば、やはり自分の責任だ。

 ルロイは、窓から『はるかなるきざはし』を見上げる。

 曇りがかった空と霧のせいで、塔の頂上はもちろん『はるかなるきざはし』の威容全体が薄ぼんやりとかすんで見えるばかりであった。

 それでも時折、塔の頂上辺りから毒々しい赤紫色の稲妻が迸り、轟音と共にレッジョの町全体を禍々まがまがしく照らしているのだった。

はるかなるきざはし』には、異界に繋がっているというその最上階から封印された大いなる扉がある。

 異界から周期的な力場の変動のせいか概ね十年に一度、扉は一挙に押し広がり、それによってモンスターの活動が恐ろしく活発になる。扉から異界のモンスターがレッジョに闖入ちんにゅうすることもあれば、他のダンジョンからあふれ出てくるケース、もともと地の底で大人しくしていた大人しいモンスターが狂暴化して顕出けんしゅつするケース。そして、厄介なことにこの開かれた扉の磁場は強力なもので、レッジョ周辺の山や森からわざわざその土地のモンスターが引き寄せられてくるケースさえあるのだった。

 また、赤紫色の雷鳴が轟いた。

 ルロイは瞬きもせず、その雷鳴の先にあるものに挑むような眼差しで睨みつけていた。

 ようやく、ここまで来た。

 ルロイ・フェヘールには、全てはこの日のために準備していたある計画があった。

「どうしたの、ロイ?浮かない顔して。これ、口に合わなかった……」

 事務所の奥で、書類の整理をしていたサシャが心配そうにルロイの顔を覗き込む。

 竜笛を直した一件から、サシャは冒険者ギルドでの竜使いとしての仕事に就いた後も、仕事の合間を見てルロイの手伝いに来てくれている。

 今日は今日とてサシャは、お手製ビスケットを詰め込んだバスケットを持って来ている。

「いえ、そんなことはありせんよ。サシャ……貴女こそ、休憩しないと体が持ちませんよ。ささ、休んで休んで……」

 気弱ながらルロイは笑みを浮かべて、サシャを椅子に座らせる。サシャはというと、戸惑いつつも「お言葉に甘えて」と座り込み、ルロイが紅茶を注ぐ様を見てクスクスと笑いなが安堵あんどのため息を漏らす。

 サシャがこの事務所に来て半年は立つ。

 短い付き合いかもしれないが、いつかは来るであろうこのことをなぜかルロイの側から切り出せずにいた。

 サシャが冷めた紅茶を飲み干し、溜まった疲れを吐き出すかのようにリラックスして息を吐き出す。ルロイは躊躇ためらいがちに口を開いた。

「あ、あの……サシャ、実は大事な話があるんです」

「何ですか?」

 サシャは、カップの底に残った薄味の紅茶を見つめながら何かに期待を込めた眼差しのままルロイの言葉を待っていた。

「サシャ、短い間でしたがお世話になりました。貴女に事務所の庶務雑務を頼むは今日限りにしたいのです。貴女の作る料理は本当においしかった。僕としても本当に残念で……」

「一体、何を言っているの……?」

「本当に……済みません」

「謝ってなんか欲しくない!」

 突然のことに、悲痛な声を上げるサシャを前にしてもルロイは僅かばかりも動揺せず、代わりに苦痛が増したように額にしわを寄せ深く目を閉じるのだった。

「もっと早くに言っておくべきでした。僕はいずれ……いや、今この時をもって『はるかなるきざはし』へ行かなければならないんですよ。それを今になって引き延ばしてきたことが、唯一の僕にとっての後悔です」

「どうしても……?」

 ルロイは決意のこもった目でサシャを見据えたまま、無言でただ力強く頷くのみだった。しばらくの無言の間、ようやくサシャがルロイの決意が今やというよりも自分が出会うはるか以前から揺るがしえぬものであると悟り、混乱した様にルロイの恐ろしく怜悧れいりな眼差しから、目を背けた。が、それも一瞬のことでサシャは生来の気丈さをすぐに取り戻しルロイの双眸そうぼうをまた見つめ直した。

「でも、どうして……ロイが行かなければならないの?せめて、その理由を……」

「こんな自分にも、かつて夢があったんですよ」

「夢?」

「ええ、かつて僕が夢と野望を抱き得たころの意地。というより、後始末ですかね」

 ここまで、ルロイがほろ苦く語り間を置き、サシャの表情が変化した。

「もしかして、あの時ロイが話してくれた恩人さんの……」

 サシャに心中を当てられたルロイは、双眸そうぼうに悲しみをたたえながら弱々しく微笑む。

「少し長い昔話になってしまいますが……」

 改めて思い返せば長い話になる。自分が今闘わんとする理由を語るには、彼と共にここまで歩んできた全てを話さねばなるまい。


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