殺人現場と唯一の証拠

 すでに日は沈みかけ、空は陰気な群青ぐんじょう色に染まっていた。

 ルロイは、急いで市庁舎の方角へと走っている。

 もし、自分の突飛な推測が万に一つでも合ったっていたとするなら、もしかしたら止めることができるかもしれない。

 街角にはいまだに数人の憲兵たちが立ち、公示鳥がけたたましく飛び交い戒厳令は解除されてはいない様子だった。

 おおむね暴動は鎮圧できたのか、怒号や悲鳴が聞こえることはなく、何人かの騒動に加わった冒険者たちが憲兵に取り囲まれ見せしめの様に道路の隅でお縄になって固まっているのだった。

 ピカーニ通りを北上し、そろそろマイラーノ大橋が見えてくる頃合いになって、徐々に人だかりが多くなりルロイの行く手を阻むのだった。

「まさか……」

 メリノ河の南岸に野次馬がたくさん詰めかけていた。ルロイが人だかりをかき分けて対岸の光景を見たときに嫌な予感は的中した。

「おい、見ろよあれ!」

「そんな……し、市庁舎が燃えてる!」

「マーノは参事会まで殺っちまったのかよ!」

 暗くなった群青ぐんじょう色の空と河面が、燃え盛る炎によって勢いよく朱に染められてゆく。

 堅牢かつ荘厳なレッジョの行政の中枢である市庁舎が炎に包まれている。

 それは、夜のとばりが降りかかったレッジョに突如として現れたきわめて雄大で印象的な絵画のように奇妙な光景であった。

「そんな、これからレッジョはどうなっちまうんだ!」

 メリノ河の南岸に集まった有象無象の人々も、あまりの光景に固唾かたずを飲んで見守るしかない様子でいた。

「くそっ、遅かったか……」

 ルロイは歯を食いしばり被っていた革帽を地面に叩きつける。

 程なくして騒ぎを聞きつけた憲兵たちが群衆を押しのけながら、マイラーノ大橋へなだれ込んでいった。各地での暴動が収まったかと思いきや、それらがことごとく陽動で本拠地を叩かれていることを悟ったらしい。各地に散った憲兵隊は、大急ぎできびすを返して市庁舎を襲った賊の討伐に向かうのだった。

 こうなってはもう、ルロイとしては市庁舎に近づくどころではない。

 すべて無駄だったかと、無念の面持ちで革帽を拾い上げルロイは事務所へ戻ろうとしたその時だった。

「――――あれは、ディエゴ?」

 ちょうどメリノ河南岸の河沿いの道から裏路地へと逃げ惑う群衆の中に、一瞬ルロイはディエゴらしきコボルトの姿を見た気がした。

 いや、正確にはディエゴと思しき人影が冒険者風の男たちの中にあった気がした。その全員が何か重い荷物を抱え込んでいるようであった。

 ルロイは無意識にその人影を追って裏路地へと全力で走り込んでいった。

 もっとも、裏路地の中に入るやその見覚えのある人影に追いつくどころか、見つけ出すことさえできず、ルロイは早くも迷ってしまっていた。しかし、幸か不幸かルロイの耳は静まり返った裏路地の入り組んだ建物の間から微かな物音を拾っていた。

 石畳の上を、複数人の駆け足が乱雑に叩く音。そして続いて――――

「なんだ、これは、金属と金属がぶつかる音?いや、まさか……」

 不穏な音はすぐに止んでしまった。

 ルロイはケープを腕に巻き付け、護身用の短剣チンクエデアを抜き出し、音がした方角へ慎重に足を運んでゆく。

 古びたレンガの建物の角を曲がった時、ようやく先ほど何があったのかルロイは嫌でも理解する。

「これは……」

 瞬間、本能的に口と鼻を手で押さえる。

 角を曲がり切ったその先で、うっかりその中の一体を踏みつけてしまった。

 独特の鉄臭さと、暗がりの中で転がる胴体を鋭い手刀で貫かれたいくつもの死体、その中にひどく見覚えのある顔があった。

「あなたは――――」

 まさかこんな形で再開を遂げるなど夢にも思っていなかった。

 だが、その衝撃よりもルロイの視線は別のものへ釘付けにされていた。

 それは、すぐそばの犠牲者の死体から流れる血をすすってより赤黒くその身を染めていた。

 後に、ルロイはこの時とった迅速な行動を思い起こすたび、我ながら信じがたいことだと思うのだった。




 すでに日は沈み夜が更けていた。

 ルロイは、あの現場を足早に離れると人目を忍んでリーゼの工房へと急いだ。

 人影は窓から見えなかったが、工房の灯りはまだ点いている。ドアノブを何度か叩いてようやくドアが徐に開かれる。

「おや、どこの間抜け面かと思えばルロイ・フェヘール」

 いつもの研究者らしい外套がいとう姿のリーゼが気だるげにあくびをしながら現れる。

「よかった。こんな夜更けですが、頼みたいことがありましてね……」

「もう時間的に工房は営業時間外だよ。モリーや他の職人衆も出払っていてね……今は個人的に新たにそそる研究の思索中なんだが……まったく、それにしてもお前さん顔色が蒼白じゃないか?何かあったのかい?」

 リーゼは胡乱うろんげにルロイを眺めまわすと、興味深げに切れ長の目を細めてルロイに問いかける。相変わらず自分のペースを崩さないというか、つい先ほど一つの大きな決断をしてきたルロイ自身がまるで道化のようである。

「色々あり過ぎて逃げてきたんです……」

 ようやくため息交じりの言葉をルロイは吐き出す。

 そのままリーゼに、居間代わりに使われている作業台が置かれた場所に案内されルロイは腰を落ち着ける。

「と言うか、外の騒ぎを知らないんですか?まるで戦争ですよ!」

「あいにくと私は、政治や戦争には興味がなくてね」

「錬金術と実験にしか興味がないんですか、あなたは?」

「うーん。あるいは、猟奇的なそそるやつとか……」

「期待を裏切らない返答ですね」

 悪戯っぽく笑みを浮かべて、冗談を言って見せるところがあると、やはりリーゼを訪ねて正解だったようだ。ルロイの張りつめた表情を読み取ってか、リーゼも口元の皮肉っぽい笑みを引っ込める。

「で、用件は何だい?その顔、かなり訳ありなんだろう……」

「あなたにしか頼めないことです」

 真剣に試すような目つきのリーゼを前に、ルロイはケープからそれを取り出し作業台にそれを置く。一見、ぶよぶよと膨らんだ爪先が鋭い黒い手袋に見える。微かに鉄臭い臭いがすることを除けばそれがなんであるか理解するのは難しいだろう。

「これは、まさか……」

「ええ、運よく現場に居合わせましてね、マーノネッロの黒い手です」

 やはりと言うべきか、リーゼはある種の病的な痙攣けいれんに顔を歪めているのだった。

 その発作的な痙攣けいれんをどうにか鎮めるや、リーゼは可憐な乙女のように胸を締め付け歯を食いしばっていた。

天上天下唯我独尊てんじょうてんがゆいがどくそんなまでに実に猟奇的だ!」

「そう言うと思いましたよ……」

 さきほどの冷静で気だるげなリーゼはどこへやら、熱病に浮かれたように眼前の黒い手を食い入るように見つめている。

「もちろん、調べさせてくれるんだろう!ルロイ・フェヘール?」

「ええ、こんなの頼めるのもリーゼさんくらいですからね。引き受けてくれますね?」

「もちろんだとも、分析の結果、猟奇的に期待してくれたまえぇ!」

 リーゼは黒い手を引っ掴むと、薬品が詰め込まれている実験室の一つに駆け込んでいった。これで後はリーゼの分析を待つばかりである。

 安心した拍子に、ルロイはそのままソファに倒れ込み寝込んでしまっていた。

「寝ている場合じゃないぞ、ルロイ・フェヘール」

「――――えっ、もう!」

 気が付けば、悪戯が成功した子供のように晴れやかな笑みを浮かべているリーゼが、ソファに横たわるルロイの間抜け面を覗き込んでいるのだった。

「実に興味深いことが分かった。感謝するよ」

 ルロイがソファから起き上がるや、リーゼの手には片側が切られ内側がめくれた状態の黒い手袋が掲げられていた。手袋の内側ちょうど手の甲に接する部分にどこか見覚えのある刻印があった。

「これは、もしや……」

「フッ、どうやらこれに見覚えがあるようだね」

 ようやくルロイの中にあった疑惑が一つの線で繋がった。

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