4月1日 『あれから一年』~カクヨム甲子園を振り返って~

去年。

この日、僕は小さな港町の道端に佇んでいた。


国道を挟んで、向こう側は太平洋。

ぐぉぉお、と鈍重なエンジンを唸らせながら、本州では見られないような巨大なトレーラーが広々とした道を行き交う。今や日高地方の動脈となって久しい国道75号線は、見事な茜色に染まった西の水平線を気にも掛けず、たくさんの車でその夕陽を忙しなく遮ってゆく。


一方、これまた広々とした歩道には僕一人。見回してみても人影はない。

目の前に佇む小綺麗な浦河町役場が皮肉に思えるほど、人がいなかった。

通り過ぎるのは車だけ。

それも必然かもしれない――ここがこの街の玄関口だったのは、ずっと昔のことだったのだから。


閑寂な歩道の端から、跨線橋を見上げる。

足を踏み入れて、狭い屋根に少し窮屈さを覚えつつ渡れば、小さな、古い木造の建屋がある。

ガラリ、扉を開けて一呼吸。


誰もいない。

久々に舞ったと思われる埃だけが、淋しげな返答を寄越した。

少しばかり咳き込んで扉を締める。

長年の風雨に黄ばんだ窓から差し込む橙色の斜陽が、まぶしげに、いつかの記憶を思い起こさせるような――僕はこの街に育ったわけでもないのに――懐かしく僕の足元を照らしていた。


時計は3分半ずれていた。きっと終ぞ、直されることはないのだろう。

3月31日。

210秒ずれたままの秒針が、あと少しで訪れる終わりを見据えて一刻一刻愛おしそうに時を刻む様は、どこか滑稽に思えて、ふと笑みを零してしまう。

それを掬ってくれる人影は、もうこの待合室にはいないのに。


きっと、かつてここで荷物や切符の受け渡しをしたであろう窓口は、埃だらけのカーテンが降ろされていた。

差し込む暖かな橙色に誘われるように、人ひとりギリギリ通れるような通路を抜けて、外へ。


『様似方面 乗車口』

色褪せた文字は随分読みづらくて。

ボロボロのコンクリートに腰掛ければ見える。


赤錆色。

寂れきった辿々しい線路が、静かに残されていた。


背の低めな雑草の広がる野原――かつてはそこにもホームがあった――を挟んで向こう側には、車通り絶えないあの国道。びゅん、びゅん、と忙しなく行き交う音を枯れ草原の向こうに聴きながら、静寂な茜色のプラットホームに浸る。

ここだけが、いつかのときから時を止めたかのようだった。


ここへ最後に汽車が来たのは7年前。


その小さな駅は――ずっと時を止めたまま、この陽だまりの中に取り残されていた。






僕はここにて執筆後記あとがきの筆を執った。


『世界は日高色に染まる。』――のちにカクヨム甲子園2021にて大賞を取ることになる――拙作の最後の1ページをとじるために。褪せゆく色を残した。


今思えばまさに奇跡だったのかもしれない。

青春恋愛織りなすカクヨム甲子園において当初少なくとも圧倒的に浮いてはいた。

なにせヒロインが電車である。これはおかしい。なかなか狂っている。


だがよく考えてみると去年のロングストーリー部門大賞作もヒロインは椿の木である。なるほどヒロインは人間でないほうがよさげだ。来年度の挑戦者にはそう助言しておこう。


さて色々拙作を振り返ってみる。

朔先生のカクヨム甲子園体験記にてご講評頂いた通りストーリーは王道傾向である。選評で褒めていただいた色彩表現はググった。仕方ない。作者の色覚は三原色が知覚の限界なので、瑠璃色も氷空色も全部あお!だ。何を言ってもすぐウェブで検索を勧めるポンコツAIもこのときだけは優秀である。是非活用しよう。


次。構成。序盤~中盤にかけては9月から死ぬ気で改稿した。最後まで迷いまくった部分であり、どうやったら読者を引きずり込めるか考え抜いて頓挫した部分だ。まぁぶっちゃけ評価されるのはここではないと思う。カクヨム甲子園には読者選考がないので基本選考委員様は最後まで読んでくださる(頭が下がる)。となるとシメが重要だ。

というかシメ一択だろう。


『世界は日高色に染まる。』で最初に手をつけた部分は最後まで一文字たりとも変わらなかった。それはどこか? 無論、シメである最終シーンである。

最後の10行は4月1日の初公開以来、一切変えていない。

ぶっちゃけあの最終話のために残り1万5000文字を付随させているといってもいいくらい、決定的な一話だ。

そういうわけでシメはできる限り初期に完璧に近い段階で仕上げることをお勧めする。


僕はシメが浮かび上がらなければその短編の構想自体をボツにしている。それでも無理やり書き上げるとどうなるかというと、僕が昨年9月にカクヨム甲子園用に書き上げた『境界』が全てを語っている。あれは地獄だ。中間選考落ちも頷ける。

つまり何が言いたいかというと、まず最終話、全てが最終話。


最終話が良ければ中間選考突破までは行くと思う。一回しか参加してないからわからんけど多分、シメさえ整えればそこまでは届く。

そこから地獄の最終選考を潜り抜けねばならない。そこで輝くのはユニークさではないか?そう僕は思う。特に大賞に関しては、他とは『違う』作品が求められてるはずだ。


で、歴代大賞を見返すと確かに他とは『違う』。

完成度だけでは到達できない異質さがそこにはある。


むしろ歴代大賞の中では僕の拙作は完成度が一番低かろう。文則はメチャクチャ、ラノベ調、正統派文学からはかなり遠い立ち位置に居る。特に文則なんかはカスすぎて小説甲子園みたいなのに出したら即落ちだろう。アレ字下げしなきゃいけないんでしょ?知らんよ指導顧問とか文芸部なんて本校にはねぇよ俺は5年間電車部で憂国研究会だ

けどなぜ取れたのか? それは明らかな他とは『違う』、カッケェ~の精神が息づいていたからだろう。


オタクになりなさい。

カクヨム甲子園は文則的完成度ではなく、純粋な「読者に伝える力」を評価している。

純粋な物書きとしての魂を問うている。


ならばまず、自分の世界に自ら熱中しなければならない。

そうでなくば誰がその世界を伝えるというのだ。オタクになる必要がある。自分の世界に過集中し、酔いしれ、想いを増幅させねばならない。

次に、如何にしてその重い感情をそっくりそのまま読者に伝えるか。文才がある者ならそんなこと文字に起こせばイチコロだと言うのかもしれないが、少なくとも僕はそうではない。もしそんなことができていれば、電車が好きという哲学は今や僕の周りを取り巻き、町内一帯が電車オタクになっていなければならない。治安の崩壊である。

そういうわけで、オタク的感情をその共感を周囲へ広げることが第一の関門となる。


これは難問であり、執筆という過程の中で最大の障害だ。

どうする?どうやって共感を呼び込む?

「どうやって泣かす?」

文才がないため、僕は愚直に「丁寧に書くこと」を決めた。


調べるのだ。徹底的に。僕は小説の舞台とした日高本線の歴史を、災害を、その被害状況を、復旧の模索を、断念の経緯を、そして廃線へ至るまでの流れを、文明の利器であるインターネットを駆使して調べまくった。実地調査で日高へ2回行った。

一度は実際に日高色の列車に乗った。このときは崩落事故のあった大狩部の護岸線路まで行った。

二度目は――執筆後記を綴るため、日高幌別から砂浜の上の線路を4時間かけて10km歩き、主舞台とした浦河駅へ初めて降り立った。


実際行ってみるとまさに世界が変わる。

感性のままに描ける。家で妄想に任せて書くのとは大違いだ。

そういうわけで実地執筆は割とお勧めする。


ともかく、調べまくればその努力は評価され、そこから共感が生まれるということである。文才がなければ努力に肩代わりしてもらおう。文章内でこんなこと調べましたよ!実地にも行きましたよ!アピールをしよう。誰へ?もちろん、選考委員の方々へ、である。読者に向けてではない。セコい。

かもしれないが、そもそも『世界は日高色〜』はカクヨム甲子園に向けて書いたのではなく純粋にオタクが気持ちよくなるために当初書いていたわけだから問題ない。

とにかく多分僕はそれで切り抜けた。


さて、あとは運である。


3月31日、廃止を前日に迎えた浦河駅に腰掛けて。

ちょうどそこにルピナスが咲いていた。

これが大賞の決定打になった気がする。


最終日、そこで記したルピナスのこと。地方が直面する過疎化、厳しい人口流出。そこにおける公共交通の維持の課題。その在り方。様々な社会問題を問い直すお硬い文章を奇跡的にルピナスでふんわりと包み上げられたのがまさに決定打だった。

カクヨム甲子園歴代、多分あそこまで社会問題を問うている作品はないだろう――うぬぼれかもしれないが、そう自負させてほしい。それほどまでに僕は北海道地方部の現状を伝えたかった。無論、いや必然というべきか、それはオタクの熱意が源流だ。


最終話で美しく仕上げて、そこで終えず、執筆後記の社会問題提示(執筆の真意)でゴリ押し。綺麗なやり方ではないが、二段構えで挑んだ戦いであった。








さて、先程も言ったが『世界は日高色に染まる。』はカクヨム甲子園用に書いたものではない。必然だ。2021年4月1日、JR日高本線の廃止当日。同日を以て廃止となる浦河駅にて完結させた物語であるからだ。


これはオタク・コダワリポイントである。

最終話公開日を見てほしい。2021年4月1日午前0時。

まさに日高本線の廃止その瞬間である。

それを、舞台となった浦河駅にて完結・公開。

廃止当日、道南の海岸の果てを108年間駆け続けたJR日高本線に捧ぐ。いいことだ。

これも評定のうちに入ったんじゃなかろうか、それくらいコダワリが強い。


本州に帰還したのちカクヨム甲子園開催の話を聞いて、ほーんやってみるか精神で新たに『境界』を執筆。最初の方に述べた最終話バグで死亡。19990文字で★たった7。ゴミ。そういうわけで大焦りで9月11日かなんかに、JR日高本線に捧げたはずの『世界は日高色〜』をカクヨム甲子園へパニック参加。

本気で大賞を狙いに行ったのは締切後。一か八かの序盤~中盤の改稿を繰り広げたが、ぶっちゃけあまり意味はなく、今考えると大して評価には直結していないかもしれない。

最重要である終盤と執筆後記は、4月1日のまま、廃止されたあの日から変えなかった。

一度捧げた詩の顛末を変えてしまうのは日高本線にも失礼であると思ったのだ。


我ながら心底オタクキモすぎ罪で逮捕してしまいたいが、そういうわけで、それが奇跡か、然るべくか、大賞と評価されたのだと思う。

ただカクヨム甲子園の求めているものは「青春高校生の描く物語」でありそうだ(募集絵より考察)。書くジャンルが青春モノである必要は全くないが、これは踏まえておいたほうがよかろう。この前提的requirementを踏まえながら、さらに、しっかりと舞台を確かめ、鉄道産業や過疎化といった社会問題に触れ、なお執筆後記との二段構えに踏み込んでいた。……その踏み込みの度合が他の作品よりも、目立っていて、かつ二歩三歩大きくて、だからこそ、大賞に手が届いた。そう信じたいものだ。


「前提の踏みしめ」、「他とは『違う』化」、「踏み込みの大きさ」、この3ステップを愚直に経由したから取れた大賞。

自分にはそう言い聞かせている。なぜか?他の参加作を観るとやっぱり自分が大賞を取ったのはまぐれではないかというほど他のレベルも高いからだ。個別感想に関しては別途で語るが、不安になる。けれど僕の作品が選ばれたということはこの過程が評価された故だと信じたい。






さて、僕は果たして青春高校生なのか?

これに関しては口をつぐもう。

本校は一貫男子校である、それだけは付け加えておく。


まぁ電車と北海道の一人旅に融けた青春も青春かもしれない。そう評価されたことにしよう。自分的には充実はしていた。それはオタクだからである。

つまるところカクヨム甲子園に挑むに当たり、来年度挑戦者へ向けて何が言いたいか?


オタクになれ、以上。









2022年4月1日。鵡川-様似間116kmの廃止から、今日で一年。

褪せる惜日に思いを馳せて。

ありがとう、日高本線。


この大賞を或る廃線の墓標へ捧げ、以て、我が高校期執筆の有終の美を飾る。

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