メル・アイヴィーと忘れ去る歌

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第01話:メル・アイヴィーと忘れ去る歌

「その歌を止めてくれ。あんたの歌は嫌いなんだ」


 突然に投げかけられた言葉に驚いて、メルは歌うのを止めた。慌ててメルは周囲を見渡す。

 冬の終わりにも関わらずしんしんと降り積もる雪が、メルの見知った散歩道を白く染め上げている。赤い屋根の小さな時計塔も、ピンク色の可愛いベンチも、搾りたてのミルクのように白い。

 まだ灯らない街灯の近くに、先ほどの声の主は立っていた。幼さを残す少年。自身にうっすらと積もる雪も気にせずに、メルにまっすぐな視線を向けている。

 傘をさしたままメルは「ゴメンなさい」と小さく頭を下げた。少年はメルを見つめて「銀色の長い髪に青い瞳。それに黒のチョーカー」とメルの特徴を確認した。


「なぁ、あんた、メル・アイヴィーだろ」


 顔を上げた少年がメルに尋ねた。メルがうなずくのを確認してから、少年は言葉を続ける。


「あんたに頼みたいことがあるんだ」


 そう言って少年はメルの方へと近づいてくる。彼が歩を進めるたびに小気味の良い音が鳴り、新雪に足跡が残った。

 手を伸ばせば届きそうな距離まで近づくと、少年は歩みを止める。近くで見ると少年がメルよりも背が低いことが分かった。歳も少しだけ下だろうか。


「頼みたいこと?」

「ああ。あんたに歌ってほしい歌があるんだ」


 メルは頭にハテナを浮かべて首をかしげる。メルの歌を嫌いだと言った少年が、なぜメルに『歌ってほしい歌がある』と頼むのだろう?

 黙って考え込むメルをみて、少年が不安そうな顔をする。


「駄目か?」


 首を横に振って「ううん、ダメじゃない」とメルが答えると、少年は「そうか。恩にきる」と微かに笑った。


「それじゃ、さっそく行こう」


 言うやいなや少年はメルの手をひっぱって歩き出す。


「えっ、どこに?」

「あんたに歌ってほしい場所はここじゃない」


 だから、それってどこなの? そう問い返す前にメルは引きずられるように歩き出す。雪に足を取られて転びそうになるが少年が支えてくれた。


「ありがと」

「礼を言われるほどのことじゃない」


 照れくさそうに頬をかく少年と並ぶようにしてメルは歩き始める。メルが持っていた傘をふたりの間に移動させると、少年に降り積もる雪が止んだ。

 目も合わせずに「ありがとう」と礼をのべる少年に、メルは首を振って返す。「ううん、お礼を言うほどじゃない」と。


「ねぇ、聞いて良い?」


 メルは覗き込むようにして、少年の顔を見る。聞きたいことがいくつもあった。なぜ少年はメルの歌が嫌いなのか? なぜメルに歌ってほしいと頼んだのか? いま何処へ向かっているのか? でも、最初の質問は決まっている。


「キミの名前は?」


 少年は歩くスピードを少し落として答える。


「セツ・コクァンだ」

「よろしく、セツくん」

「敬称はいらない。セツでいい」

「わかった。よろしく、セツ。私は――」

「あんたの名前は知ってる。ブタノハナ・ハンバーグマンだろ」


 驚くメルの顔を見て、セツが口の端を上げる。


「冗談だ。よろしくな、メル・アイヴィー」


 そう言ってセツはゆっくりと雪を踏みながら歩き始めた。

 セツがいうと冗談に聞こえないよ。そう思いながらメルも歩き始める。

 いつの間にか雪は止んでいた。



 ☆ ☆ ☆



「わっ……」


 曲がりくねる渓谷を通り抜けた先には、雄大な樹木がそびえ立っていた。首が痛くなるほどに見上げて、やっと樹頭が見える程に大きい。その光景にメルは感嘆の声を上げていた。何という名前の木なのだろう?

 メルはセツのいた方へと振り返る。けれど、そこに彼の姿はなかった。先ほどまで繋いでいたはずの手は、いつの間にか解き放たれていた。


「セツ?」


 名前を呼んでみたが返事は返ってこない。周囲を見渡してみるが、樹を囲むように濃い霧が発生しており人影は見つけられない。

 セツを探しに行った方が良いか考えるが、メルはこの場所で待つことにした。むやみに動き回ってすれ違ってしまうよりも、この大きな樹木のそばで待っていた方が良い。

 そのまま1時間ほどを樹木のそばで過ごした。だいぶ体が冷えてしまった。心なしかメルの吐いた白い息も元気がないように見える。

 メルの心には不安がつのる。もしかしたら、セツは怪我をしたのではないだろうか? 動けなくなって助けを待っているんじゃないだろうか? 考えれば考える程に不安はつのっていく。

 意を決してメルは来た道を戻る。ときおり「セツ?」と呼びかけながら。


「おい、あんた、どこ行ってたんだ?」


 深い霧を抜けて渓谷に差し掛かったあたりで、不意にセツの声が返ってきた。メルが歩いてきた方向からだ。

 メルが足を止めると、後ろからセツが駆け寄ってくる。


「探したぞ。心配させるな」

「ゴメンなさい」

「謝罪はいらない。無事ならそれで良い」


 メルは頷いた。うん、そうだね。セツが無事で本当に良かった。


「では、暗くなる前に帰ろう」


 え、まだ歌っていないのに? メルは疑問を口にしようとするが、呼び止める間もなくセツは雪道を進んでいってしまう。「待って」と急いで後を追う。またはぐれてしまっては堪らない。

 道すがら「あんたの家、どの辺だ?」とセツが聞く。メルが答えると「僕の帰り道と一緒だ」と言って、家まで送ってくれた。すでに辺りはだいぶ暗くなっている。


「また明日」

「明日?」

「ああ。今日のリベンジするだろ?」

「……うん、そうだね」


 セツが微かに笑った。踵を返した彼にメルは小さく手を振る。

 また明日、か。いま来たばかりの道を戻っていく自称『帰り道が一緒』の彼の背中を見つめる。

 明日はセツとはぐれないようにしないと。それで、あの大きな木の下でセツに私の歌を聴いてもらうんだ。……私の歌、好きになってくれるといいな。メルは密かに決意を燃やした。



 ☆ ☆ ☆



「今日は迷子になるなよ」

「うん、わかってる」


 翌日、メルは迎えに来たセツと一緒に、あの大きな木の下に向かった。

 渓谷を抜け、霧を抜けると、メルは振り向いて「セツ?」と声をかけた。すぐに「なんだ?」と声が返ってきてセツが現れる。良かった。今日ははぐれなかった。

 大樹の根元まで近づくとメルはセツにたずねる。


「ここで歌うの?」


 セツは「ああ」とうなずくが「だが、歌うのはスノが来てからだ」と続けた。


「セツのお友達?」

「そうだ。だが、あんたの友達でもあるだろ?」


 スノ。その名前にメルは心当たりがなかった。首を振って「ゴメンなさい、会ったことないと思う」と申し訳なさそうに答える。


「いや、そんなはずはない。スノ・ドゥルマン。背はあんたの肩ぐらいまでしかなくて、赤いバケツみたいな帽子をかぶった女の子のことだ」

「……ゴメンなさい」


 再びメルが首を横に振ると、セツは頭を抱えてため息を吐いた。「スノのやつ、顔も合わせてなかったのか?」と小さな声が聞こえる。

 心配そうにメルがセツの顔を覗く。それに気づいたセツは顔を上げて「すまない。僕の勘違いだ」と言った。

 どこか元気を失ってしまった様子のセツにメルが話しかける。


「ねぇ、その子のこと、教えて」

「……あぁ、そうだな」


 セツがポケットから厚手の防水シートを2枚取り出した。それを雪の上に敷き、片方の上に腰を下ろした。メルもそれにならう。

 ゆっくりとセツが語りだす。


「幼馴染なんだ、スノは。人見知りだったから何処に行くときもずっと一緒だった」


 その顔はとても優しそうで、とても寂しそうで。


「なのに、急に『スゴく綺麗な歌を歌うスゴく綺麗な人に会ったの』なんて言い出して。それから毎日、スノは一人であんたの歌を聴きに行ってばかりだ。家にいても、あんたの真似をして歌ってばかりだったし」


 セツが横目でちらりとメルを見る。


「正直、あんたにスノを奪われたと思ったよ」

「ゴメンなさい」

「謝らなくていい。あんたが悪い訳じゃない」


 小さな笑みを浮かべて、セツが天を仰ぐ。


「むしろ、あんたには感謝している。あんたのおかげでスノは成長できたし、あんたのおかげでスノは毎日が楽しそうだった」


 思い出をいとしむ様に、セツがゆっくりと目を閉じる。


「だから、最後にもう一度、スノにあんたの歌を聴かせてやりたいんだ」

「最後?」


 メルの疑問にセツが静かにうなずく。


「先日、スノは流行り病で死んじまったんだ」

「えっ?」


 メルは思わず声を上げる。だったら、いつまで待っていてもスノさんは……。

 その疑問を察してか、セツが大樹を見上げて説明を始める。


よみがえりの樹。この大樹はそう呼ばれている。この樹の下で願い、祈れば、死んじまった人に再会できると言い伝えられている。だから、ここにあんたを連れてきたんだ。もう一度、スノにあんたの歌を聴かせてやるには、それしかないと思った。……こんな迷信じみた言い伝えを信じてるなんて、バカみたいだと思うか?」


 メルは首を横に振る。「私もスノさんに会いたいから。信じる」と答えると、セツは「そうだな。会えると良いな」と目を伏せた。

 それからふたりは、じっとスノが現れるのを待った。しかし、いくら待ってもスノは現れなかった。

 遠くの空を見上げたセツが「暗くなる前に帰ろう」と立ち上がった。「よみがえりの樹なんて、ただの伝説なのかもな」という顔には落胆が見て取れる。


「明日もリベンジ、だよ」


 メルが両手で小さくファイティングポーズをすると、セツの表情が少しだけ和らいだ。

 最初は難色を示していたセツだが、頑なに「リベンジ、だよ」と姿勢を崩さないメルに根負けした。最後は笑みをこぼして「あんたがそこまで言うならリベンジしよう」と言い、「ありがとうな」と付け加える。

 ふたりは帰り支度を終えて、よみがえりの樹を後にした。

 後ろを歩いているセツにメルは声をかける。


「明日は暖かい紅茶を持ってくる」


 メルが振り返ると、そこにセツはいなかった。セツを見失ったかと思ったが、すぐに背後から「おい、置いて行くぞ」と声がかかる。

 ……あれ? 先ほどまで後ろにいたはずのセツが、いつの間にか前を歩いていた。霧の中で追い抜かれたのかな?



 ☆ ☆ ☆



 スノを待ち続けて半月が過ぎた。いまだスノは現れていない。

 2~3日毎に降り積もる雪のせいで、よみがえりの樹の周辺一帯は雪化粧のまま。防寒のピクニックシート越しに新雪の感触と冷気がメルに伝わる。


「スノさん、今日は来る?」


 お茶菓子に用意したプリンを食べる手を一時的に止めて、メルがセツに聞いた。魔法瓶からコップに暖かい紅茶を注ぎながらセツが「どうだろうな」とそっけなく答える。

 どうしたらメルが来てくれるのか考えて、メルがプリンを食べる手を一時的に止める。


「私が歌えば、来てくれる?」

「あんたの歌を道しるべにするのか」


 メルがプリンを食べる手を止めずにうなずくと、セツは「僕はあんたの歌が嫌いなんだが」と腕を組んで考え込む。

 しばらくしてから「そうだな。良いアイデアだ」と渋々ながらに承諾した。


「どうせならスノの好きなやつを歌ってくれないか」

「何の歌が好きなの?」

「スノが一番好きだったのは、あの春の歌だな」

「あの春の歌?」

「ああ」


 そう言ってセツがメロディを口ずさむ。プリンを食べる手は止めずに、セツの声に耳を傾ける。

 セツは歌い終えると「この歌、なんて曲名なんだ?」とメルに聞いた。

 何と答えれば良いかメルは悩んだが、プリンを食べる手を一時的に止めて、正直に「ゴメンなさい、知らない曲」と伝える。

 セツが教えてくれた曲。メルが歌ったことのない曲。メルの知らない曲。でも、それは確かにメルの歌に雰囲気や趣向がとてもよく似ていた。メル自身ですら既視感を覚える程に。


「これ、あんたの歌じゃないのか?」

「……わからない」


 その曲がメル以外の誰かの歌とは、どうしてもメルには思えなかった。その歌の記憶だけ失ってしまったと言われた方が、まだ納得できる。

 メルは言いようのない不安を胸に、プリンに手を伸ばす。


「……あんた、プリン食い過ぎだろう」


 きょとんとした顔でメルが、そんなことない、という顔をセツに向ける。

 10個以上も積み重ねられたプリンの空き容器を横目にセツが、そんなことあるだろう、という顔をする。


「あんたがプリンを好きなのはよく解った」

「セツは何が好き?」

「そうだな……。僕はかりんとうが好きだな。たぶん、先祖がかりんとうだったせいだと思う」

「ほんと?」

「冗談だ」

「よかった。かりんとうから人が生まれるのかと思って驚いた」

「驚くなよ」


 ぶっきらぼうな言葉とは裏腹にセツは優しい表情を浮かべて、紅茶を口に運ぶ。彼の吐く息が白さを増した。


「スノさんは何が好き?」

「赤いキャンディーが好きだったな」

「赤だけ?」

「ああ、赤だけ。スノは赤いものが好きなんだ」


 セツが残っていた紅茶を一気に飲み干した。空いたカップにメルがおかわりを注ぐ。


「雪が解けて春になると、この辺り一面はルリアトの花畑になるらしい」


 ルリアト。小さな赤い玉のような花をつける春の花で、この地方では春の風物詩としても知られている。メルも好きな花だった。


「スノは赤いものの中でもルリアトが一番好きだった。できれば見せてやりたかったな、ルリアトの花畑」

「花畑じゃないけど……」


 そう前置きをした上でメルが「ここに来る途中に咲いてた」と伝える。セツが興味深そうに「珍しいな、この季節に」と言った。


「スノがやってきた時、もし一輪でもルリアトがあったら喜ぶだろうな」


 セツが立ち上がった。「摘んでくる。どこに咲いていた?」と言ってメルを見下ろす。


「崖の上。摘みに行くのは無理だと思う」

「……そうか」


 残念そうにセツが呟いた。

 不意にメルが咳き込む。胸に鋭い痛みが走り、だんだんと咳が強まる。


「おい、大丈夫かよ」


 セツが心配そうにメルの背中をさする。しばらくするとメルの咳はだいぶ落ち着いた。メルの「もう、大丈夫」に、セツが安心した顔をする。


「咳の原因、プリンの食べ過ぎじゃないのか?」

「違う。プリンは百薬の長」

「冗談か?」

「ううん、真実」

「そうか。なら今日はもう帰って、プリンを食ったら暖かく寝ろ」


 そのセツの提案通り、今日は早めに帰ることにした。

 よみがえりの樹を囲む霧を抜けたところで、先に歩いていたセツがこちらを向いて待っていた。切羽詰まったような、思いつめたような、真剣な顔をしている。


「今日は、何月何日だ?」


 なぜ急に日付? 不思議に思いながらもメルが答える。

 セツは静かに「そうか」とだけ言った。


「何かの記念日?」

「いや、ただの確認だ。それより、ルリアトが咲いている崖って何処だ?」

「あそこ」


 メルが指さしたのは切り立った崖の一角。地上10メートル程のところ。白い雪に強調されるように赤い花が咲いている。それをセツが見つめていた。


「……セツ?」


 どこか鬼気迫った顔のセツに、恐る恐るメルが声をかけた。不安そうに自分を見つめる目にセツが気づく。


「帰るぞ。体調、悪いんだろ」


 セツが笑って見せるが表情は硬い。心配の言葉をかけるがセツは「大丈夫だ」と首を振るだけだった。

 明らかにセツの様子はおかしかった。帰りの道中、メルの体調を過剰に気にかけていた。

 さっき咳き込んだことを心配してくれているのだろうか? もう大丈夫なのにとメルは思っていた。しかし、家まで後少しというところで、また胸に強い痛みが走った。ひどい咳が出て、呼吸がままならなくなる。苦しい。立っていることすらできなくなり座り込んでしまう。


「おい、大丈夫か!?」


 駆け寄ったセツが、メルの状態を一目見てすかさず抱き上げ、早足でメルの家へと急いだ。

 寝室のベッドにメルを横たえたセツは、再び外へ出ていくと、すぐに医者を連れて帰ってきた。

 初老の医者はメルの診察を終えると「あと2~3日の命でしょう」と申し訳なさそうに言う。

 聞きなれない名前の病名。熱でぼんやりとしたメルは聞き取れなかったが、セツは苦虫を噛み潰した表情で「スノと同じ病気かよ」と呟いた。

 セツが大きく深呼吸をした後、ゆっくりと「なあ、先生」と切り出した。


「薬があれば、助かるんだろ?」

「はい、薬があれば彼女は助かります。ですが、その薬がないんです。この冬に病気が大流行したことで薬は使い果たしてしまいました。もはや薬を用意する手段は――」

「ルリアトがあれば良いんだろ?」


 医者の言葉をさえぎるようにして、セツが強い口調で言った。


「確かに新鮮なルリアトを煎じれば薬を生成することができますが、この季節では――」

「そうか。なら話は早い。今から僕がルリアトを摘んでくる」


 出ていこうとするセツを、メルは消え入りそうな声で「待って」と呼び止める。

 あの崖の上に咲いたルリアトを摘みに行こうとしているの? 危ないからそんなことしないで。――メルの中にいくつも言葉が浮かぶが、止まらない咳と衰弱した体が邪魔をして、それを口にすることはできなかった。

 メルの視線にセツが気づいた。彼は優しそうに、そして寂しそうに笑うと「じゃあな。いつまでも元気でな」と言って飛び出していった。

 そこで体力の尽きたメルは眠りに落ちた。



 ☆ ☆ ☆



 メルが目覚めたときには、もう外は明るくなっていた。意識を失ってから半日が経っている。

 ベッドから体を起こす。昨日がまるで嘘だったように体の調子が良い。


「目が覚めましたか」


 初老の医者がベッド脇にある椅子の背にもたれたまま声をかけてくる。夜通し看病してくれたのだろうか、ときおり欠伸を噛み殺している。


「体調はいかがですか?」

「大丈夫です。問題ないです」

「それは良かった。無事に薬が効いたようですね」


 その言葉を聞いてメルは胸をなでおろす。薬を用意できたということは、ルリアトを摘んでセツが帰ってきたということに他ならなかった。

 セツにお礼を言おうと周囲を見渡すが彼の姿はない。


「セツは?」


 メルは医者にセツのことを尋ねた。しばらく押し黙った後、医者が重々しく口を開く。


「彼は、亡くなりました」


 ――えっ?


「大きな事故にでもあったのでしょう。昨晩ここに帰ってきた彼は、とても大きな怪我を負っていました。ここまでたどり着けたのが奇跡としか言いようがない状態で、手の施しようがありませんでした」


 ――セツが、死んでしまった。私のせいで死んでしまった。

 メルの瞳からボロボロと涙が零れ落ちる。ゴメンなさい。ゴメンなさい。でも、いくら謝っても、もう遅い。謝罪の言葉も、亡くなってしまったセツには、もう届かない。……いや、違う。


「――よみがえりの、樹」


 気づくとメルは家を飛び出していた。

 雪の上には、セツがって移動した跡が、セツが流した血の跡が、くっきりと残っている。胸が締め付けられて泣き出したくなるが、ぎゅっと手を握り締めてよみがえりの樹への道をメルは走る。

 よみがえりの樹にたどり着いた。けれど、セツの姿は見当たらない。亡くなった人に会えるなんて、やはりただの迷信なのかもしれない。

 メルは肩を落として踵を返す。


「……おい、あんた、そんなに息を切らしてどうした?」


 そこにはセツが立っていた。メルは思わず駆け寄り彼を抱きしめる。「ゴメンなさい。ゴメンなさい」と嗚咽交じりに謝罪する。涙が零れる。


「いったい何があったんだ?」

「セツが、セツが……死んじゃった」

「は?」


 メルは昨日のことをセツに話す。よみがえりの樹の下で咳き込んだこと。帰り道、崖の上に咲くルリアトの場所をセツに教えたこと。家の近くで再び咳き込んで倒れてしまったこと。メルの病気を治すためにセツがルリアトを摘みにいき、そして亡くなってしまったこと。

 話を聞き終わったセツは何かを考えこみ始めた。そして、問う。


「なあ、今日は、何月何日だ?」


 昨日と同じ質問。メルは今日の日付を答える。

 小さく息を吐きだしてから、セツが言う。


「その日付は、僕にとっては明日の日付だ」


 明日の日付? メルにはセツの言葉の意味が理解できなかった。

 セツが言葉を続ける。


「どうやらこの樹の下では、あんたと僕の時間が1日ズレているらしい。あんたが毎日ここで話していたのは、1日前からやってきた僕だ。……この仮説があっているなら、初めてここに来た日、この樹の下であんたは僕に会わなかったことになるが、合っているか?」


 メルはうなずく。確かに初日はセツを見失ってしまい、この樹の下では一人だった。


「どうやら、間違いなさそうだな。……なるほど。この樹は、亡くなった人がよみがえる樹なんかじゃなくて、過去から人を呼び寄せるタイムトラベルの樹だったって訳か」


 寂しそうな顔でセツがうつむく。


「スノが現れなかったのも当然だ。スノは過去にこの場所で僕に会っていない。だったら、僕がいつまでここで待っていても、過去からスノが会いに来ることは無いことになる」


 顔を上げたセツが寂しそうに笑う。


「無駄なことにつき合わせちまって悪かった」


 セツは「じゃあな」と踵を返す。それを咄嗟にメルが止める。ギュッとセツの手を握る。


「どこに、行くの?」

「どこって、あんたを助けに行くに決まってんだろ」


 メルにとってセツの死は昨晩のことだった。でも、目の前にいる1日前のセツにとっては、今晩、起こる出来事。それがどういう意味なのかセツには解っているのだろう。だが、メルも理解した上で彼を引き留める。


「助けに行かなくて、いい」

「は? そしたら、あんたの命が――」

「それでも、いい」


 涙声になりながらメルは続ける。「それが、いい。セツが死んじゃうより、ずっと、いい」と。

 嗚咽を漏らすメルに、セツは手を伸ばす。ぽんぽんとメルの頭を叩き、いままで一番やさしい顔をした。


「それは僕が嫌だ」


 その声も、いままでで一番やさしい声。


「僕はあんたの歌が嫌いだった。僕からスノを奪った憎い歌だから嫌いだった。でも、あんたとずっと一緒にいて、考えが変わった。あんたは魅力的だから惹かれるのはしょうがないことだって解ったから。だから、もうあんたの歌を憎んじゃない。だけど、それでも、僕はあんたの歌が嫌いなんだ」


 セツがメルの目を真っすぐと見る。顔が少し紅潮していた。


「僕はあんたの事がもっと知りたい。もっとずっと話していたい。だけど、あんたが歌っている間は、話ができないだろ? だから、僕の前ではあんたに歌ってほしくない。だから、僕はあんたの歌は嫌いなんだ」


 握られた手をセツがやさしく振りほどく。


「ひとつ、頼みたいことがあるんだが、良いか?」


 小さくメルがうなずく。


「これから先、僕はあんたと話すことができなくなる。だから、せめてあんたの歌が聴きたい。たまにでも良いんだ。天国にいる僕とスノのために歌ってくれないか? あんたの、素敵な歌を」


 はにかんだセツの笑顔を見ながら、メルは涙をぬぐう。そして、精一杯の笑顔を浮かべて、小さくうなずく。


「うん、わかった」

「約束だ。すごく楽しみにしているからな」


 その言葉を最後にして、セツはいなくなった。

 よみがえりの樹の下には、再び泣き出したメルの声が響いていた。



 ☆ ☆ ☆



 セツがいなくなってから1か月が過ぎ去った。

 あれだけ積もっていた雪も解けてなくなり、よみがえりの樹の下にはルリアトが咲き乱れている。

 ピクニックシートの上でメルが空を見上げる。天国はあのあたりかな? 私の歌、届くかな? 届くと良いな。セツとスノのことを想って作った曲なんだもん、きっと届くよね。この春の歌は。


「約束の歌。いま届けるね」


 メルは歌う。その透きとおる声は、春風に乗ってどこまでも響き渡っていった。

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