粉飾決算は復讐のために

宗田英李

粉飾決算請負人(前篇)

 ニュースの第一報を耳にしながら、紫月は口をつけたままのコーヒーカップを一瞬止めた。

 朝九時を僅かに過ぎたにも関わらず薄暗いアパートの一室の隅から、カラーボックスに置かれた十四インチの薄型テレビが、ぼんやりと部屋を照らしている。

 開明社十億円横領 経理部長を逮捕。

 画面のテロップを確かめると、紫月は残りのコーヒーを一気に飲み干し、片手に持っていたコッペパンにかぶりついた。

「調べに対し、中村容疑者は容疑を全面的に認めているとのことです…」

 紫月はテレビにリモコンを向けボタンを押した。カーテンから太陽の光が透けていた。部屋が再び静寂に覆われた矢先、脇を掠める私鉄電車に家屋全体が軋んだ。


 話は一年ほど遡る。

「いやぁ、今日は大盛況でしたなぁ」

「いえいえ、紫月さんのお陰ですよ」

 有楽町の居酒屋でカウンターに横に並び、紫月と中村勝一は互いにビールジョッキをカチンと鳴らした。

 中村はぎこちない笑みを浮かべながらも、至極満足した表情だった。

「しかし開明社と言えば、業界きってのやり手じゃないですか。すごいですね」

 ジョッキを三分の一ほど空けた紫月は名刺を手にしながら、いささか大仰に中村を褒めちぎる。

「そんなことないですよ。所詮はしがないサラリーマンですから」

 そう言いながらすっかり薄くなった頭をぽりぽりと掻く中村も、紫月にとってはとっくに解り切ったことだった。もちろん、当の本人は知る由もなく、持ち上げられるがままに顔を赤らめていた。テカリの目立つ安っぽいスーツの肩に落ちる雲脂(ふけ)に紫月は内心眉をひそめながら、あくまで屈託のない笑顔で応え、ビールを飲み干した。

 開明社。シェアとしては中堅クラスだが、大手出版社から独立した現社長がテレビで誰もが知っているタレントやコメンテーターの著書を数多く手掛けており、業界では揺るぎないヒットメーカーとしての地位を確固としていた。それは一重に、現社長の政財界・芸能界にわたる広範な人脈に他ならない。

 もっとも、業歴そのものは十年そこそこであり、独立当初は社員もほんの十名ほどだったが、今は三百名を大きく超える急成長も名声たる所以であった。

 中村は現社長が当時務める部署の一編集員に過ぎなかったが、大学時代に経理研究会に属していたことを買われ、独立に当たって経理部長に抜擢された。

 だが、古巣を見限ったことは中村にとって正解だった。売上規模こそ百分の一にも及ばないが、それでも東証一部上場企業の会計を一手に担う存在となったのだから。ゼミの指導教授に諭され税理士試験を諦めた時は、どれだけ世の中を恨んだことか。それが今や、合格しても独立できないか、独立したところで顧客にありつけず汲々としている同期のことを思うと、際限なく鼻の高いことである。

 資格そのものは諦めていたとは言え、それでも中村は一部の科目を合格していたのは、社長の注目を集めるのに十分であった。税理士は五科目をクリアしなければならないが、中村は大学在学中に二科目を突破していた。だが、残りの三科目を取るには生真面目すぎたのだ。

 一般的に税理士試験で受験するのは、必修科目である簿記及び財務諸表論、残りの三科目は各税法から選択する形となっている(一定の制約はあるが)。必修科目は良いが税法を合格するにあたって、中村は余りにも細部にこだわり過ぎた。予備校の出題予想もそこそこに、全てを網羅しないと気の済まない性格だった。指導教授には、それは十分過ぎるぐらい見え透いていたのだ。中村が税理士試験にこだわり続けていれば、おそらく何年も無職であり続けたことだろう。中村の家庭は、それを許し得るほど裕福ではなかった。

 紫月が中村に近づくのは、少しばかり骨が折れた。毎日が職場と自宅を往復するだけの社交的とはおおよそ真逆の人物であり、小学校の知人から遡っても、彼の事について少しでも一定の印象を刻んでいた者は皆無に近かった。取り立てて上でも下でもないが、きわめて厳格な家庭に育ったという点を除いて、何らかの特徴づける情報は殆ど得ることができなかった。

 きっかけは、中村が通勤の電車で弄っていたスマートフォンだった。紫月は素知らぬ顔で帰路につく中村の隣の座席に座り、画面をつぶさに観察した。電車を降りるまで中村は隣の紫月に目もくれることなく、絶えずスマートフォンに文字を刻み続けていた。中村は妻帯者だったが、その相手先は妻でも何でもなかった。殆どが「独り言」だった。

 中村はSNSの重度の依存者だった。彼は昼食の写真から部下の愚痴、あるいは昨今の政治家の不正疑惑に至るまで、思った全てを匿名アカウントで吐露していた。アイコンは脂ぎった彼自身に代わって、可憐な美少女のイラストが微笑んでいた。

 紫月には全く縁がなかったが、アイコンの少女が人気ゲーム上の架空のアイドルであることは、すぐに理解できた。ただ、イベントに足しげく参加するほど深く入れ込んでいる様子は、彼のSNSアカウントからは観察されなかった。

 紫月はすぐさまアカウントを作成し、中村と同じゲームに登場するキャラクターをアイコンにし、彼をフォローする前にゲームの話題ばかりをつぶやき続けた。一度相互フォローすれば、来る日も来る日も毎朝つぶさに挨拶したり、コメントを返したり相槌を打ったりするのを欠かさなかった。あとは、距離を縮めるのは紫月にとって朝飯前だった。相手の顔はおろか、どこで何をしているかが分からなくとも、普段の言動がSNSを通して見えてくることで、身近な存在として親近感を自ずと生じる。

 紫月がゲームのイベントに中村を誘ったときには、何の躊躇いもなく応じた。もちろん、決算に被らない閑散期に合わせたのも、忘れなかった。中村自身は、はなっからチケットのきわめて入手困難なイベントをあきらめていたのだが、紫月に鼻先にちらつかされて、なすすべもなく陥落してしまった。中村は「初対面」の紫月にすっかり心を許し、イベント後も連れられるがままに居酒屋へと足を進めていた。

「ところでいいんですか? 奥さん心配していますよ」

 紫月はわざとらしく中村に尋ねた。

「何を言ってるんですか。僕の嫁は『ここみ』しかいませんよ!」

「あはは、そうでしたね。こりゃ失礼」

 当然とばかりに応えながらハイボールを流し込む中村だったが、野暮すぎる質問であることは余りに見え透いていた。しかしその問いに対する答えもまた、紫月には余りに予想通りの回答だった。

「それじゃ中村さん、これもご縁なんで、場所を替えて飲み直しませんか? 紹介したい店があるんですよ」

「銀座ですか? 僕にはちょっとハードル高いですよ」

 有楽町から銀座であれば、ほぼ隣接している。とは言え、銀座のホステスと聞くだけで中村にとっては火星人以上に異世界の存在に他ならなかった。

「いえ、神田ですよ。私にとっては帰り道の途中でもあるんで、一杯だけでもいかがです?」


 二人は山手線で神田駅まで移動し、十分ほど歩いた場末の雑居ビルの四階へと入った。

「あ、かなえちゃん? 元気? これからお友達と二人で行くけど大丈夫? うん、よろしくね!」

 店に向かう途中、紫月は歩きながら中村に聞かせるように、仰々しく電話に向かって叫んだ。

 紫月がエレベーターを降り「月の兎(ルナ・コニージョ)」と記されたドアを推すと、カウンター越しに一人のコンパニオンと中村の目が合った。

「こんばんは! かなえです、よろしくお願いします!」

 かなえと名乗ったコンパニオンは、屈託のない笑顔とともにおしぼりを中村に差し出した。清潔感にあふれた栗色のショートヘアに囲まれた小さな顔は、一五〇センチそこそこの背丈もあって、ともすれば未成年にも見間違うあどけなさにあふれていた。しかしそれ以上に中村の目線を釘付けにしたのは、赤いドレスから惜しげもなくはだける、たわわに膨らんだ谷間だった。中村にとっては奇跡的であったが、「嫁」である「木野島ここみ」の特徴を完璧なまでにトレースしていた。

「見るのは好きなだけ見てもいいけど、かなえの顔ももっと見てほしいな」

「あ・・・す、すみません」

 中村はかなえの一言に我に返り、慌てて目線を上げた。それでもどぎまぎした様子を隠しきれず、アイコンタクトをぎりぎりで避けている。

「かわいい。真面目な人って、タイプだなぁ」

 思春期から現在に至るまで免疫を培う機会の全くなかった中村は、今にも心臓が飛び出しそうだった。全ては、紫月が中村をマークし始めたときからの読み通りだった。ネクタイはいつも赤か青のストライプのみ、Yシャツは常に白の無地、スーツに至っては体型を無視した量販店の既製品。中村が異性の気を惹くのに全く無頓着なのは一目瞭然だった。

 細く引き締まった体型をネイビーのジャケットとノーネクタイの開襟シャツに包み、派手すぎず小奇麗さを意識した紫月とは、明らかな好対照だった。

「中村さんって、上場企業の部長なんだ。すごーい!」

「昔は半年に一回だったのが、三ヶ月に一回決算を開示しなきゃいけなくなったから、そりゃもう大変だよ」

 その場でキープした焼酎のボトルを開けながら、中村は一層饒舌になっていた。彼の言う通り、上場企業で四半期決算が義務づけられている今となっては、経理部はほぼ年がら年中決算に追われているのが現状だ。まして、従業員数三百名程度で年商一千億円強では、東証一部上場企業としてはむしろ小規模な部類に入る。子会社全体を包含すれば数万人、数兆円というのはザラである。しかし開明社においては経理及び決算開示はほぼ、中村の一手に担われているといっても過言ではなかった。それは中村にとってはかけがえのない自負だった。

「ウチが上場企業でいられるのも、オレがいるからなんだよ。社長だって、オレに足向けて寝られないのさ」

 アルコールの勢いに任せて、中村は言い放った。

「さすが。天下の開明社も、中村さんあってこそですよね」

 余りにも見え透いたお世辞だったが、紫月は決して欠かさなかった。

「上場企業の経理なんて滅多にお話も聞けないんで、いろいろ聞いてもいいですか?」

 紫月は五ミリほどの口髭を指先で弄りながら中村に水を向けた。

「伝票一つ一つでも、全く世界が違うようにさえ思えてしまうんで」

「任してください。朝まで語っちゃいますよ」

 基本は父ちゃん母ちゃんの町工場と簿記の仕組みは変わらないという話から杓子定規でうるさい監査法人の愚痴に至るまで、待ってましたとばかりに中村は休むことなく喋り続けた。大きく違うのは、経理部の女子職員が作った伝票を逐一上司である自分がチェックし捺印すること、経理部に回る前に営業部員の上司による経費の承認印がきちんと捺されているのを確認すること。忙しさにかまけて、うっかり営業サイドでの捺印が漏れていたのに気づかなかった伝票が一枚あっただけで、生意気な監査法人の新人職員にさんざん問い詰められ、同じく多忙な営業部から色々と嫌味を言われながら照会した結果、単なる捺し忘れ以外は何ら落ち度のなかったことは一度や二度ではないこと。税法上は損金として認められないものでも決算上は費用ないし損失として挙げなければいけないから、法人税の申告書が面倒なこと。などなど。

 しかし自ら振ったにもかかわらず、紫月にとっては今更聞くまでもない話だった。実際に職務に関わる者としては、中村が得意気に語る内容は殆どがありふれたもので、全く新鮮味がなかった。紫月はそんな素振りをおくびにも出さず、ただ無言で感心するように頷き続けた。カウンター越しのかなえは、キョトンとしたまま二人を見るだけだった。

 それでも紫月は、中村の話に神経を集中させていた。紫月が反応したのは・・・次の二点だった。出版社は再販制度という独特の商慣習ゆえに、売り先である書店からの返品が珍しくないこと。ただでさえ多様かつ複雑な取引形態のある業界にかかわらず、そもそも現在の社長が売上至上主義で一定の返品は仕方ないという姿勢もあって、営業部でも返品の原因や詳細を誰も把握できていないことまで明らかにした。

 もう一つは、口座も彼自身が管理していることであった。世間ではカリスマ社長で音に聞く社長も噂通りの豪放磊落、悪く言えば大雑把な人物であり、預金残高を問われたことなど一度もなかった。開明社の独立直後の第一期、資金繰りが綱渡りだったにも関わらず、決算時に預金残高が帳簿残高と五十万円も原因がわからないまま不足していたときは、さすがの中村も寿命が縮まる思いだった。三日続けて徹夜も同然に調査した結果、営業担当者が請求書の金額を間違えていたと知ったときは、全身の力が一気に脱力して歩いて帰れなくさえなりそうだった。社長からは何も尋ねられていないため、知っているのは自分と営業担当者直属の係長だけである。もし、全てを包み隠さず報告していたら? それは中村にとっては愚問であった。少なくともここで与太話を披露することは無かっただろう。それが、社長なのだ。

「えーっ、本当ですか? そりゃ恐ろしい話ですね」

 紫月はわざとらしく驚いて見せた。

「僕なんてまだずっとましですよ。ノルマ未達で何人もの営業部員が鬱になったり首を吊ったりしてるのですから」

 このような調子で、中村経理部長の裏話は小一時間ほど続いた。中村が小用で席を立っている間に、紫月はジャケットの内ポケットから長財布を取り出し、六万円をかなえに手渡した。請求書との差額が彼女へのチップであるのは、言うまでもなかった。

 頭をぺこりと下げて玄関前で見送るかなえを背に、紫月は中村とともに神田駅へと足を進めていた。時刻は十一時を過ぎたぐらいだが、中村の家は私鉄で一時間弱なので、十分すぎるほど頃合いだった。

「たまには『三次元』もいいでしょう、中村さん?」

「中学の頃から諦めていましたよ、そんなもの」

「何を仰るんですか。一部上場企業のエリート経理マンじゃないですか」

 至って上機嫌の中村だったが、かなえのようなホステスに心底入れ込んで身を持ち崩すタイプではないことを、紫月は既に見抜いていた。かなえがたとえ顔写真と一緒に毎日電話攻勢をかけても、鬱陶しがるだけだろう。それは彼女の魅力不足ではない。彼の日常は、全てがルーチンワークだった。わざわざ自宅と会社との間の路線を乗り換えてまで、彼女の許に足しげく通うとは、とても期待できなかった。無頓着すぎる身だしなみは言うに及ばず、コンパニオン達への会話の合わせ方も気配りも、どれをとってもちんけなハニートラップに引っかかるには、異性の味を知らなさ過ぎた。

 いや、ハニートラップと言うには、『月の兎』はあまりに平均的過ぎる店だ。僅かばかりの期待が無かったわけではないが、本気でその手のトラップを用意するなら、ある程度遊び慣れた相手なら銀座か六本木のやや上級なキャバクラ、中村以上の童貞であれば上野か新橋でチャイニーズ辺りのデリヘルと紫月の中では決まっている。

 神田駅でそれぞれ別のホームへと別れ、自宅へと戻った紫月は、酔い覚ましのコーラのペットボトルを片手に、ねぐらには似つかわしくない事務用の大型ホワイトボードの前に立ち、中村から聞いた限りの開明社の内情を片っ端から書きなぐった。


 その後も紫月は中村と、今までと変わらずSNSで遣り取りを続けた。LINEにはかなえが他愛もないメッセージやスタンプを送ってきたが、中村が応えるのは二回に一回か、それ以下だった。

 昼休みにデスクで独りカップラーメンをすすっていた中村を訪ねたのは、同期入社の森本好太だった。入社したのは互いに開明社が分離独立する前の会社だったが、入社式でたまたま席が隣だったことがきっかけで、定期的な同期飲み会でも互いに近い席に座ることが多かった。もともと社交的でない中村にとって自分と対照的に軽薄なチャラ男のこの男は、どちらか言えば多少煙たいぐらいの存在でもあった。が、前の勤め先に比べ人数も圧倒的に少なく顔を合わせる機会も格段に多くなったため、廊下ですれ違えば互いに挨拶を欠かさなかった。人数合わせに過ぎなかったが、森本の合コンに付き合ったことだって一度や二度ではない。善くも悪くも、中村には腐れ縁以上でも、それ以下でもなかったが、親しい友人を敢えて選ぶとすれば、唯一当てはまるのが彼だった。

「折り入って頼みがあるんだけど、いいかな?」

 口を動かしている間も森本はオフィスに中村以外誰もいないことを、神経質なぐらいに周りを絶えずキョロキョロしながら確かめていた。そして、明らかに憔悴しきっていた。

 開明社では社長自らの肝煎りで、作詞家・北野大輔の小説の企画を進めていた。国民的アイドルグループを始め、手がければベストテンがほぼ確実でさえあったヒットメーカーが初めて手掛ける小説とあって、テレビや駅の広告のほか、大々的な宣伝を打ちまくっていた。

 だが出版の矢先に突如降って湧いたのが、北野の歴代ヒット作に係る数々の盗作疑惑だった。しかもさらに不運なのは盗作元と疑われたのが、とある大御所演歌歌手だった。北野の歌謡曲に親しむ人の中では、この歌手の代表曲のタイトルはおろか、歌詞を全て知る人は限られているだろう。しかしそれでも、名前を知らぬ人はいない存在だった。メディアの露出度は遥かに下回るとは言え、芸能界の序列で言えば北野は足許にも及ばない。

 泡を食った北野の関係者達は菓子折りを手に、演歌歌手の許へと駆けつけ雁首揃えて額を地面に擦り付けた。だが、烈火のごとく怒る演歌歌手の前にはなす術もなかった。北野自ら謝りに来るどころか本人が曖昧な答えに終始し、メディアからも逃げ回り続けていたことが、火に油を注いだのだった。演歌歌手はとうとう北野を裁判に訴えた。

 一連の騒動をテレビのワイドショーやゴシップ誌は面白おかしく伝えたのは言うまでもないが、北野の素行不良が追い打ちをかけた。マネジャーへの暴行からアイドルへのセクハラなど、叩けば叩くほどスキャンダルが明るみに出た。

 北野の小説が全く売れなかった訳ではない。普通の小説家なら、そこそこ満足できる水準ではあっただろう。だが、本来は売上一位を約束されていた作品である。広告費も回収出来たのは半分程度でしかない。発注も目に見えて先細っていった。

 森本が担っていたのは、西日本一円の営業だった。

 森本は一件を案じた。だが、そのためには、中村の協力なくして出来なかった。森本にとって、中村は最後の望みの綱だった。

「頼む、助けてくれ! このままじゃ、社長に殺される! お願いだ、頼む!」

 中村の反応も待たずに、森本は床に両手をついて土下座した。

「いや、いくらなんでも、それはまずいだろ…」

「頼む!」

 事務所のドアを解錠する音が聞こえたのは、その時だった。我に返った森本がすっくと立ち上がり中村の許を離れると、昼食を終えた事務職の女性三人が談笑しながら入って来た。中村も彼女たちの視線を避けるように、伸び切ったカップラーメンの残りを掻き込んだ。

 紫月が中村を誘ったのは、その晩だった。前回の「月の兎」ではなく、東京駅八重洲口から歩いて五分ほどの地下にある小さなバーだった。平日であることに加え、他の店から二次会、三次会として移ってくる客が中心であるため、夜八時手前でも十席ほどのカウンターだけの狭い店内は、二人以外にはもう二人、サラリーマンの客が無言でウィスキーグラスを傾けているだけだった。

「責任重大ですよね。経理部長はいわば最後の砦なのですから」

「はは、そ…そうですよね」

 水を向けた紫月に、中村はぎこちなく笑った。中村が気づいていたか否かは微妙であったが、紫月の言葉には、言外に意味が込められていた。営業からの報告に基づいて売上を計上するのが、経理の仕事である。その報告が十分な信憑性をもって裏付けられていない限り、その積み重ねの結果外部に公表される開明社の売上高は、真実と言える代物ではなくなってしまう。それゆえ、営業から売上の報告が来るごとに、それが実体のある取引に裏付けられたものか、金額や代金の決済方法についても、逐一確認しなければならない。

 だが開明社において、営業報告の信頼性を裏付けるだけの組織体制を構築するには、ここ十年での急成長のために追いつかないままである。もとより、社長自身がその重要性を全く理解していなかった。それは紫月自身、「月の兎」で既に聞いていたものでもある。普通の素人であれば、単なる業界の裏話以上でも以下でもない小ネタでしかなかった。しかし紫月は中村に気づかれないように、中村が語る「裏話」の一つ一つに神経を尖らせていたのだった。

「しかし中村さん、さぞ営業部は大忙しでしょう。何たって北野大輔の小説が売れまくってるわけですから」

 いきなり紫月は話題を変えた。それも、共通の趣味である(と少なくとも中村は思っていた)ゲームや、たびたび暴言・珍言を繰り返しては炎上しているSNSの有名アカウントの悪口など、他愛のない話題をひとしきり続けた後だった。

「いや、そんなこと…あ、いいえ、そりゃもう大変ですよ」

 紫月の狙いは当たった。完全に油断していたところを不意を突かれた中村は、目を白黒させ舌をもつれさせながら答える。

「えーっ、あれだけテレビでも宣伝してるのに、売れてないんですか?」

 紫月はわざと大袈裟に反応して、容赦なく畳み掛けた。

「売れまくってますよ。営業はみんな寝る間も惜しんでフル稼働ですよ!」

「でも今朝の週刊ランキングランドでは圏外でしたよ」

「とにかく売れてるんですよ!」

 中村は両の瞼を絶え間なく動かしながら、早口でまくし立てた。

「すいませんでした。今度書店で見つけたら買います」

「いえ、こちらこそ失礼しました」

 紫月が慇懃に謝ると、中村も軽く頭を下げて非礼を詫び、溜息をついた。店内には、ゆったりとしたピアノソロが流れる。

 傍目に見れば、声を荒げるには滑稽すぎるほどの些末な話の食い違いでしかないだろう。だが、紫月には十分過ぎるぐらいの収穫だった。中村の置かれている現状を思うと内心、彼が気の毒にさえ紫月には感じられた。

「前お話したとき、返品が多いのが大変って言ってましたよね。どんなベストセラーでも、やっぱり返品はあるんですか?」

「そりゃゼロにはなりませんよ。売れる件数が多ければ返ってくる件数だって多いですから」

「返品が来るとき、中村さんはどうされるんです?」

「私が直接返金します。会社の口座も私で全て管理していますから」

「へえ。違う相手先に振り込んだりしたら、大事ですね」

「もちろんです。爆発物を扱っているみたいで、いつもヒヤヒヤしていますよ」

 預金を中村自ら管理していることは、既に「月の兎」で聞いている。それは同時に、返品された売上代金の振込も、彼が一人で行っていることも意味していた。前の時点では、送金までもが中村以外の手が関与していないところまでは、紫月の中では確信に至っていなかった。

 加えて、開明社内部は丼勘定であり、社内でも返品の状況を適時に十分把握出来ている者は誰一人いないことも、前回聞いた通りである。

「要は中村さん、こういう事ですよね」

 紫月はロックグラスのバーボンを飲み干すと、中村の目の前へと顔をぐっと近づけた。中村の両眼をじっと見据えながら、小声で囁いた。

「いつどこへ何円返金したかなんて、社内の誰も分からないって事でしょう?」

 睨まれたまま中村は固唾を飲んだ。

「開明社の中でも、貴方だけじゃないですか。こんな事、社長でも出来ませんよ」

 紫月の背後で、カランカランとベルが鳴った。一次会を終えたばかりの四人組が、勢いよく店のドアを開けた音だった。


 中村に持ちかけた森本の案とは、次の通りである。森本が注文書を偽造し、出荷指示書に営業部長の印鑑を捺す。もちろん印鑑は部長の姓のシャチハタを森本が量販店で買ったものに過ぎず、本人のチェックなど受けているはずもなかった。まして、出荷指示書が倉庫に送られることもない。半月ほどで、売り上げた額の二割ほどを返品として「報告」し、中村が返品相当額を指定の口座に振り込む。

 相手先に選んだのは、年に一、二度ほど数万円の取引のあった、プラトン書房という京都の書店だった。一応は株式会社の形態をとっていたが、実体は年老いた店主が一人で切り盛りする商店街の小さな個人商店に過ぎない。森本は銀行員を装って店を訪れ、口八丁手八丁で会社の実印を入手して新たに会社名義の口座を開設していた。

 二人が冷や汗をかきながら、胃をキリキリさせながら、出力した書類に判を捺したのは、最初の一回目だけだった。入金を済ませた後も、一週間ほどはいつ社長から呼び出しがかかるか、内心息を殺し続ける日々が続いた。だが、呆気ないほどに全てが普段の日常と何ら変わることがなかった。オドオドしていれば、却って怪しまれる。二人はそう自分に言い聞かせると、二回目、三回目のときには何の躊躇も感じないでいた。

 社長の目をごまかせたからと言って、それで完全犯罪が成し遂げられるわけではない。上場企業である限り避けて通れない、会計監査である。監査を担当するのは創業より継続して、国内最大手の一つでもあるソフィア有限責任監査法人だった。

 会計監査には、大きく分けて二つの切り口がある。決算日時点の財務諸表数値が適正かどうかを直接検証する手続きと、社内の会計処理に不備がないかどうかを確かめることで、その結果として編み出される数値が相当程度確かであることを立証する手続きである。

 後者の会計処理の不備の有無とは、いわゆる内部統制の検証である。社内の担当者と上長、あるいは他部署が相互にチェックし合うことで、誤った処理は未然に防止されるというのが前提にある。これについては、中村も森本もクリアする絶対の自信があった。そもそも、監査法人がチェックするのは、金額と承認印の有無である。悪意のないミスと違って、意図的な不正行為の前には内部統制は限度があった。実際、販売データの中から無作為抽出されたサンプルにはプラトン書房のものが一件あったが、入社二年目の監査担当者は中村の用意した注文書と出荷指示書を見てあっさりOKの結論を出した。

 だが、前者の会計処理は、そうはいかない。売掛金の残高については、確認という監査手続が用いられる。これは、相手先に文書を送付して回答を監査人が直接入手するものであり、外部証拠という点からも証拠力の極めて強いものである。もちろん、送付する対象も監査人が金額的重要性あるいはランダムで選定するため、被監査会社からは手の出しようが無い。

 もともと開明社の取引先は、軽く千件を超える。そこから対象を十件ほど選ぶわけだが、残高が既に三十億円を超えていたプラトン書房も送付対象となった。プラトン書房の残高が他の取引先と比べて突出していたわけではない。さすがの中村並びに森本も、その辺りはわきまえていた。だが、金額的には重要な相手先と監査法人は判断したのだった。

 しかし、監査法人が入手したプラトン書房からの確認状の回答は、開明社の残高と全く同額だった。もちろん、回答には会社の実印もきちんと捺されていた。結局、ソフィア監査法人は無限定適正意見、すなわち開明社の決算には重要な虚偽はないという結論を出したのだった。

 そもそも監査人が選定した確認状の送付先の住所は、被監査会社が提供するものである。プラトン書房の宛先は東京都内になっていたし、送り返された封筒の消印もそれを裏付けるものだった。その住所が森本の自宅であることなど、数ある取引先の中で監査担当者が疑いを持つはずも無かった。しかも森本自身これを見越して、プラトン書房の本社所在地の登記までも自宅に移していた。

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