44.俺の護衛候補がやって来たんだけど……
俺は、造船所の視察を終えると、その足で杉田玄白の#天真楼塾__てんしんろうじゅく__#に向かった。
で、杉田玄白と座敷で向き合っている。
二一世紀でもないんじゃないかというくらい、上等な座布団に俺は座っていた。
「ご新居が決まったようで、なによりです」
杉田玄白が言った。座ったまま頭を下げた。
剃っているのだか自然に禿げてしまっているのか、よく分からない頭がテカテカ光っている。
「いえ、こちらこそ、本当にお世話になりました」
俺もそういって頭を下げる。
杉田玄白は、解体新書をこの世に出した功績者であり中学生の教科書にも載っている偉人だ。
この時代を代表する蘭学医であって、多くの弟子を抱えている。
俺にあるのは時代のアドバンテージだけで、人間としては玄白さんの方が数段上だろう。
この時代の中の評価でいえば「奇人変人山師」と呼ばれる平賀源内さんより上かもしれない。
とにかく、俺も玄白さんも頭を上げた。
(やっぱり、この時代の人はみんな小さいなぁ)
ふとそんなこと思った。
男でも160センチないだろうなという身長の人ばかりだ。
田沼意次もそのくらいだし、玄白さんはもっと背が低い感じがする。
源内さんが170あるかないかで、俺に一番近いくらい。
175センチと、21世紀の日本では平均的よりやや大きい程度の俺がこの時代では大男だ。
心理学的にも背が高いというだけで、相手に対し優位にたてるという学説もある。
今まで江戸時代を代表するような学者を相手に講師が務まったのも、そんな心理的余裕のせいかもしれなかった。
当然、未来知識というチートの裏付けがあってこそだけど。
「今まで杉田玄白様の『天真楼塾』に間借りしておりましたが、なんとか『土岐総研塾』も独立できました」
「本音を言わせていただければ――」
そこで、杉田玄白は言葉を切って、湯呑みを口にもっていく。
よい香りのするお茶だ。高級品だろう。
「私の塾でしばらく続けて欲しかったものです」
笑みを浮かべながら玄白さんが言った。
間接的に俺を評価してくれているということだろう。
「玄白様」
「ん、なんでしょうかな。土岐殿」
俺もせっかく入れてくれたお茶を口に運んで、一呼吸いれる。
「もしよろしければ、今後も、時々こちらでも講義させていただきたいと考えて――」
「真にござりまするか?」
俺の言葉を最後まで言わせることなく、玄白さんが声を上げた。
「いえ、玄白様がよろしければ」
「大歓迎にございます」
この時代の江戸の蘭学の中心といえば、やはり「天真楼塾」だ。
時代最高の蘭学者ネットワークを持った杉田玄白とは、親密な関係を維持しておきたい。
この時代における最先端の科学者とのコネクションを作るには、彼の名は絶大の効果がある。
「天然痘も予防の方法について、#緒方春朔__おがた しゅんさく__#殿には文を送りましたが…… 人痘から牛痘ですか――」
天然痘予防の研究に関しては江戸で最先端の研究をした医者だ。
数年後、九州の筑前国秋月(福岡県朝倉市)に移り住むのだが、今は長崎で遊学中だ。
このときから天然痘の予防の研究をしていたらしい。
天明二年には江戸で天然痘が流行する。三年後だ。もうあまり時間がない。
天然痘に#罹患__りかん__#してしまうと、俺もアウトだ。
現代に戻れば、対テロ用のワクチンとかはあるだろうが「どこで罹ったんだ?」と大騒ぎになってしまう。
そもそも、死んでしまうかもしれない。
「あとは、塾生で興味をもってくれた若手の蘭方医が何人かいましたし、江戸でも同時並行で研究は進めるべきでしょう」
「そうですな…… それにしても、人の体とはなんとも不思議なものにございますな。『免疫』とは――」
俺は『天真楼塾』を間借りしている「土岐総研」の講義で免疫について教えた。
「中学生に教える生物」のレベルであれば、ほぼ頭に入っている。
元々塾講師で、受験に必要な全教科を教えていたからだ。
そういった知識ですら、この江戸時代では「最先端知識」に変身してしまう。
免疫に関しては、中学校の理科の範囲ではないので、俺も少し勉強したが、理屈としてはそんなに難しい話ではない。
実際、この時代の医者でも、はやり風邪に一度かかると、同じ時期の風邪にかからないという事実は経験的に知っているのだ。
『なぜ、そんなことが起きるのか?』
それを医学・生物学的に本当に基本的なことを教えただけだ。
「多くの病は目に見えぬ微細な生物により起こされ、それを防ぐ機能が人に備わっている―― まったくもって理にかなったお話です」
玄白さんは静かに言った。
顕微鏡を持ち込んだのは、俺の説明に説得力をつけることになった。
そして、玄白さんは、俺がその知識をどこで知ったのか、珍奇な道具をどこで手に入れたのか?
それは問うてこない。
一応「公儀の秘密」ということになっている。俺のバックには老中・田沼意次がいることは玄白さんも知っている。
玄白さん自身も、田沼意次とは面識がある。問わないことは無言の約束事のようになっていた。
ただの学者(スペシャリスト)ではなく、社会の中で全体俯瞰して動くことにできる人物だ。
そもそも解体新書を世に出すために、田沼意次に献上し抱き込んでいるのだ。
常識的な知識人であり、柔軟な思考ができ政治的な根回しもできる人だ。
己の興味のままに、自由奔放、やりたいことを、やりたようにやる「異端の万能天才」源内さんとはタイプは違う。
「天文の方も、どうやら地動説が正しいのではないかと言っておりましたな」
「地道に観測を続けて、その答えにたどり着くことが凄いです。私の言葉などただの『説』ですから」
「いえいえ、あのような観測機械がなければ、彼らとてそうは認めなかったでしょうなぁ」
この時代の天文学の研究は「暦」の作成に関わっている。
大阪の麻田剛立を中心とする市井の天文学者ネットワークがそろそろできている時代だ。
彼は自分で取り寄せた洋書から「ケプラーの第三法則」まで理解しているという存在だ。
史実では彼の弟子が改暦を行って、正確な暦を作ることになる。
それを田沼時代でやってしまおうという計画も進んでいる。
この時代の日本は決して世界に後れをとってないし、優秀な人材はゴロゴロ転がっている。
幕藩体制という社会の枠組みがその能力を上手く活用できないだけ。
幕府も、統治機構として決して遅れた存在でもない。
同じ時代で他国と並べれば、ある意味完成されたシステムをもった行政を行っている。
すぐれた官僚となる武士人材もっており、ある程度の実力主義がとられている。
欠点はあるが、一八世紀という時代においては、優秀といってもいいくらいだ。
俺と玄白さんは「脚気対策」や「破傷風対策」についても話をした。
この時代で出来うるものはなるべく、この時代で薬を作る。
抗生物質はそんなに高くなく嵩張らないので、二一世紀のネットで仕入れて江戸で売っている。
これも、「土岐総研」の収入源にはなっているのだ。
そもそもこの時代の医者は「診察代」はとらない。
お金をとるのは「薬代」だ。医は「仁術」という考えに基づくものだ。
金を持っているものからは、たっぷり取ればいい。
完璧ではないにせよ、現代の健康保険システムを医者が現場で代行しているようなものだ。
医学分野での改革は、玄白さんを中心とした蘭学者ネットワークが中心で動いている。
これ本当に有効に機能していた。
◇◇◇◇◇◇
「新居が決まったと聞いておるが」
会っていきなり、田沼意次が切り出した。
俺は、城勤と陳情人の人がいなくなる頃合いを見て、田沼意次の江戸屋敷に向かった。
で、いきなりその話だった。まだ、何も言ってないのに、これから言おうとしていたのにだ。
「どこで知りましたか?」
「さてのぉ。まあ、ワシもだてに老中職を務めているわけではないということだ」
「そうですか」
要するに、独自の情報網を持って、俺の存在を監視(好意的にみれば陰から護衛か?)しているのだろうか?
幕政の中心にいる権力者とすれば当然のリスク対策だろうとは思う。
「あの家を選んだのはなぜかの?」
「立地も悪くないですし、なにより大きな土蔵が二つあって、外から見えないというのが理由ですね」
「なるほどな―― まあ、今後は隠さねばならぬことがより増えていくかもしれぬからな」
ニッと笑う田沼意次。開明的で有能な政治家なのだが、笑ったときの「悪人顔」はあい変わらずだ。
松平定信が書き残した膨大な田沼批判の文章以上に、この時代に人にはこの笑顔の方が評価に対する破壊力を発揮したかもしれない。
まあ、どうにもならんけど――
「幕政の動きに巻き込まれる可能性を教えていただいたのは、田沼様からですから。やはり身の回りを守れる屋敷が欲しかったんですよ」
「確かに、土蔵であれば、そうそう中は見れぬか」
俺は言ってはいないが、夜間は土蔵の中で暮らそうかと考えているくらいだ。
リフォームして、電化すれば、住めないこともないし、安全だろう。
そのくらいは、材料を二一世紀のホームセンターから持ち込めば自分でできそうだ。
「下働きを多く雇って人の目を多くしますし、密偵が入りこめないように対策は考えているんですが……」
「ほう、その下働きの者の素性は問題ないのか?」
「それは、蔦屋重三郎さんを通しての斡旋で、一応今のところは問題はないと思います」
「なるほど。あの、蔦屋か……」
ただ、出入りする人間が今後反田沼派の密偵などに買収される可能性もないではない。
それはもう、高い賃金かなにかで、恩を感じさせて取り込んでいくしかない。
後は、徹底した教育か――
まあ、そういった下働きの人たちはなんとか、裏切りさせないような仕組みを作っていかなければならない。
ただ、それはお金とか、俺の態度である程度は何とかなる可能性が高い。
それよりもだ――
「田沼様」
「ん? なんじゃ」
「田沼様の政敵が、いきなり刺客を送り込んでくるとか、あり得ますかね?」
「誰に?」
「いえ、自分にですけど――」
「今は、ほぼ無いであろうが、この先のことを考えると、安閑とはしてはおられぬであろうよ」
本当に真剣な視線を向け、きっぱりと俺に言った。
俺の不安を思い切り煽るように断言した。
まあ、訊いたのは俺だけど。
「土岐殿も、某と共に格闘技の修練を――」
同席していた田沼意次の息子、田沼意知が言った。
まだ、役職についていないせいか、ついても基本暇なので、今は日々鍛錬を続けている。彼は。
史実では、天明四年(一七八四年)に城内で暗殺されてしまう。
その歴史を知った田沼意知は、刺客を返り討ちにすべく、二一世紀の先端格闘技術を学んでいる。
俺の持ち込んだ本とかDVDを見ながらだ。
なんか、首や手が会うたびに太くなり、獰猛な気を身に纏うような存在になりつつある。
五年後にはいったいどうなってしまうのか――
「私は、二一世紀と江戸を行き来して時間がないので……」
「いや、しかし鍛錬はどこでもできますれば」
遠まわしに「絶対に嫌です」と言っているのに田沼意知が食い下がる。
色々有能な人材なのだが、行間を読む能力が全くないは分かった。
俺は中学に上がるまで無理やり、柔道場に通わされていたが、いい思い出がない。
高校に入って格闘技の時間で、無経験者を乱捕りで投げ飛ばすのは面白かったが。
ただ、基本的にインドア派の俺は、体育会系のスポーツや武道の空気が苦手なのだ。
今はもっぱら見る方と語る方専門だ。
「確かにそうであるな、土岐殿には、やってもらわねばならぬことが多い」
田沼意次は、息子の提案を即時却下した。
そして息子を見やる「無理だろそれ、だいたい、お前なにそれ、その体?」って感じで。
「身辺を守る者か――」
田沼意次が、顎に手をやり思案気にして言った。
ボディーガード、SP、用心棒、護衛、守護者――
言葉はなんでもいいんだけど、要するに俺を万が一の事態から守ってくれる存在が欲しいのだ。
江戸の治安はいいとはいっても、一撃で人を殺せる刃物をもった人間がゴロゴロいるのだ。
そして、俺の存在というのを田沼意次の政敵は薄々つかみ始めている可能性がある。
だから、田沼意次の言う「身辺を守る者」は絶対に必要だった。
「腕の立つ、身辺に問題のない浪人を集めてはいるのですがね」
「数が多いと、逆に付け込まれる可能性があるぞ。土岐殿」
「ええ、人数は最小限にしようと思ってます」
いくら身辺を守るためといっても、近距離における最強の殺傷武器、日本刀を持った人間はそんないっぱいいらない。
とりあえず、腕に信頼のおける人間がひとりいればいいかと思う。
絶対の信頼関係も必要だからだ。ある意味、命を預けるのだ。
「あてはあるのか?」
「無くはないです。とりあえず、何人か集めてひとりに決めようかと思います」
「ふむ…… 浪人か…… 腕の立つものもおるだろうが、主従の信頼まで作れるか―― なかなか難しかろう」
「それは、分かってはいるんですけどね」
腕の立つ浪人はいるだろう。信頼できる人格をもった浪人もいるだろう。
でも、両方を備えた浪人がいるのかどうか……
そもそも、どっちを優先すべきかというような問題もある。
塾講師時代に、三者面談とか、バイト希望の面談の経験はある。
しかし、護衛希望の浪人の面接などやったことがない。
少なくとも二一世紀の世界で、そんな経験をもった人間はいないだろう。
「土岐殿」
「はい、田沼様」
「ひとり、ワシの方から推挙させてもらいたいが、どうか?」
「え、田沼様の人脈から紹介していただくなら、もうそれが一番です!」
「ほう、ならば、そうするか」
「ぜひ! ぜひそうさせててください!」
素性を調べるといっても、一〇〇%の安全は期待できない。
その点、田沼意次の推挙の人であれば、まず反田沼派の息がかかっている心配はない。
この話の流れであれば、腕の方も問題はないはずだ。
俺の方の一つの課題が片付いた。
そして、俺と田沼親子は本格的に話し合いを開始する。
蝦夷地探索、江戸城電気化、飢饉対策、天然痘対策――
やらねばならぬことは本当にいっぱいあるのだ。
◇◇◇◇◇◇
「どーすんの、蔦重さん」
「いや、断ったんですけどね、ひとりだけどうにもね……」
俺の新居。
夜逃げした質屋の屋敷だった家。
その庭で俺と蔦重さんはヒソヒソ話をしているわけだ。
「その者はまだ来ませぬか?」
重々しいバリトンボイスが響く。
この時代にきて、初めてであった俺よりもでかい人間だ。
江戸時代の単位でいえば六尺(約一八二センチ)に近い偉丈夫だ。
蔦重さんが声をかけた浪人に対しては「今回は他の方に決まりました」ということで辞退してもらった。
しかし、ひとりだけ「それは筋が通らぬ」と言ってやってきた浪人がいた。
それが、今この庭に立っている大男だった。
現代基準では「大男」というほどではないが、江戸時代では目立ちまくるほどの大男だ。
この浪人は「そのものが信用に足るのであれば、それでよい」と言っているのだ。
要するに、選ばれた人間が自分より上であるということを納得したいということだった。
「どんな人がくるんです?」
「いや、俺も詳しくは訊いてないんだけど、道場の師範で無敗とのことらしい」
「ほう―― でも、この人も一応免許皆伝ですからね……」
「そうなんだぁ」
俺と蔦重さんが、ぼそぼそ話している間も、六尺の浪人はジッと入口の方を見据えていた。
「来たか……」
男が言った。しかし、人影は見えない。
そして、数秒の間をおいて、声が響いた。
「あの―― ここが土岐渡殿の屋敷でいいんですか?」
その声の主は、生垣の間の入口に現われえた。
片手に串団子をもってモシャモシャ食べていた。
「あ…… あの、なんでしょうか。確かにそうですけど」
「田沼様の紹介できたんだけど。あなたが土岐殿?」
「そうだけど――」
俺の頭の中は混乱の中に叩き込まれた。
そして、田沼様の紹介でやってきた存在をみやる。
黒羽織を着て二本差し。まるで、男の侍のような恰好をしている。
つまり、どこからどうみても、女だ――
それも、顔だちの整った現代でも滅多にいないだろという美形だ。
現代でいえば、ポニーテールのように後ろで長い黒髪を縛っていた。
そして――
背が高い。
ここで待っていた浪人と大差がないというか、もしかしたら、少し大きいかもしれない。
すらっとした体型で身長は現代でもモデル級。一八〇センチは確実にある。
なぜ、女がやって来た?
俺が頼んだのは、俺の身辺の護衛をしてくれる人だよ。なんで?
「#市山結花__いちやま ゆいか__#と申す。老中・田沼意次殿のご推挙により参りました」
先ほどまでの蓮っ葉で伝法な口調から一転し、凛とした声で彼女は言った。
田沼意次が推挙した俺の護衛候補は、美形の女剣士だった。
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