40.江戸は病原菌まみれだった

「となると、またやることは多いな……」


 ネットショップの開設は専門の会社に頼めばいいとして、受注管理、発送の仕事が発生するだろう。


 となると、法人化を考えた方がいいだろう。


 今までみたいに、専門の買い取り業者に持ち込むのではなく、自分たちで売るとなれば、そのための人手が必要だ。

 必要な人間は、パートとかアルバイトでも雇えばいいのか? 


 完全なアウトソーシングという手段もある。

 秘密を守るなら後者の方が安全か――


 田辺京子の提案は魅力的ではあるが、まだ検討事項は多い。

 ただ、突破口が見えたことは確かだ。

 俺が今以上に忙しくなることは確実であるが。


「お金儲けの話もいいのですが、もっと重要なこともあるのです。先輩――」


 田辺京子がマジ顔で俺を見た。

 その大きな黒い瞳に、一瞬ドキッとする。

 京子ごときにドキッとした俺は疲れているのだろうか?


「ん? なんだ。重要な事?」

「病気です。まあ、麻疹は予防接種していると思いますが…… 天然痘です」

「天然痘か、ああ―― 貞子のまき散らしたウィルスだな」

「小説の話では無く、江戸では現実なのです。死亡率四〇%くらいあります」

「こっちに薬あるんだろ?」

「あると思いますが、どうやって手に入れるんですか?」

「ネットで売ってね? 抗生物質とか売ってるし――」


 大抵の薬はネットで買えるのだ。

 日本で認可されていない薬すら海外経由で買える時代だ。


 どこにも問題はない。俺は思ったわけである。


「天然痘は撲滅されているのです。バイオテロ対策で確保されたワクチンしかないのです」

「なに?」

「しかも、罹患すると今でも治療薬はないのです。予防薬しかないのです」


 京子は、テーブルの上にトンと肘をつくと、口の前で指を絡めた。口元が見えなくなる。

 丸眼鏡の奥の瞳だけが真剣にこっちを見ていた。  


「そうか…… 種痘はもうやってないな」


 俺の親父の世代くらいまでは、種痘は強制的に実施されていた。

 しかし、天然痘が撲滅されると、種痘の副作用の問題で、実施が中止されたはずだ。

 多分、小説かなにかで得た知識だけど。


「そうなのです。私たちは天然痘に全く無防備。しかもワクチン接種する方法もないのです」

「保健所とか頼めば?」

「狂犬病とか、コレラとかならありますし、やっておくべきかともいます。海外に行く前にやりますので」


 江戸時代、そこはこの日本には存在しないか、滅多にない病原菌が存在する場所であるということだ。

 コレラの流行は知ってる。狂犬病も撲滅はされていないだろう。

 俺は今まで、無防備で江戸に行っていたわけだ。


「海外に行くということで、狂犬病やコレラなどは予防接種を受けられます。あ、ちなみに狂犬病の死亡率は一〇〇%です」

「え、江戸で犬には近寄らない」

「ワクチンも打っておいた方がいいです」

「そ、そうだな」


 今までそんなことは気にしたことはなかった。

 江戸の暗部というか、リスクをいきなり突きつけられた。


 田沼意次に、梅毒の治療薬の話をしたとき、喰いつきがイマイチだったことを思い出した。


 要するに、梅毒など問題にならない、致命的な病原菌がウヨウヨしているわけだ。

 梅毒で死ぬまでにはかなり長い時間がかかる。

 天然痘やコレラや狂犬病にかかったらあっという間だ。


「江戸時代の人たちの死因は、詳しい統計はありませんが、感染症が最大だと思います」

「うむ……」

「その中でも、天然痘が最大のリスクです。先輩にとっては」


 俺が行っている江戸ではそのような病気が流行っているという感じはなかった。


「先輩が行っているのは安永八年でしたっけ?」

「ああ、そうだ西暦で言えば1779年だが」


 田辺京子は脳内のデータベースをシークしているのか、拝むように口の前で手を合わせ、瞳を上に向ける。


「天明二年ですね。1782年に天然痘が江戸で流行するはずです」

「マジか!」

「だいたい、江戸は、15~20年周期で天然痘の大流行があった時代なのです」


「牛痘の膿を、うえつければいいんだっけ?」


 俺は凄く雑なジェンナーの種痘の知識を確認する。確かそんな感じだったはず。


「先輩は、医者でもないのにそんなことできないと思います。現代ですら、ワクチンには脳症のリスクがあるのです」

「マジかよ!」

「まあ、手が無いわけではないのですが……」

「長崎から、種痘の入手か――」

「ジェンナーの実験は1796年なのです。物理的にダメなのです」


 京子の手元に隠れた口がニヤリと笑ったような気がした。

 嫌な予感を抱きつつも、俺は聞かねばならなかった。


「緒方春朔という医師がいるのです」


「で?」

「この先は、条件があるのです。私のお願いを聞いて欲しいのです」


 そう言うと京子は急に顔が真っ赤になった。

 そして、大きく深呼吸をしたのだった。


 ゲスエロな要求だろうか―― おそらくそうだろう。

 どうする? どこまで許す……

 江戸と現代でビジネスを展開するためには、田辺京子は得難い人材だ。

 クソ…… 性格さえ…… 見た目は悪くないんだからさぁ……


「結婚を前提に付き合って欲しいのです」

「へ?」

「私は先輩が大好きなのです。結婚して欲しいのです」

「はぁ~」


 いきなり斜め右上の要求が吹っ飛んできやがったのだ。

 身体を要求されるかと思ったら、いきなり男女の最終解決手段を提案してきやがった。


「い、いやですか…… やっぱり…… せ、先輩好みの女になろうと私は、努力していたのです。ずっと好きだったのです――」


 あのゲスエロの田辺京子が耳まで真っ赤になっていた。

 でなに? え? 俺がずっと好きだった? マジ?

 コイツとは中学からの腐れ縁なのだが……


「先輩の後を追って、一生懸命勉強して、同じ高校、大学も行ったのです。私が歴史を好きになったのも先輩の影響なのです。この責任を取って欲しいのです」


 客観的に見て、すごく理不尽な気がする。

 ただ、いつものエロゲス発言のように、ビニールバットで叩く気にはなれない。

 マジだ……

 コイツ、マジで言っている。


「先輩が、おっぱいの大きな女が好きなのは知っているのです。でも、それはどうしようもないのです――」


「まあ、そうだな……」


 なぜ俺の性癖を知っているのかは置いておいて、田辺京子のおっぱいは「胸」でしかない。

 まあ、それはそれで…… って、何を考えている俺! 相手は京子だぞ!


「だから、ビッチ発言で落とそうしたのです。でもなびいてくれないのです。なぜなのですか?」

 

 真摯な目でとんでもないことを訊いてきやがった。

 なんで「ビッチ発言」で俺が落ちるんだよ?

 どこ情報だよ、それは?


「なんで? なんで、ビッチ?」

「高校時代に見たのです。先輩のかばんが開けっ放しで、中に本があったのを見たのです」

「何を見た」

「エロ本なのです。『エロビッチ天国』とか、『ビッチハーレム・パラダイス』とか、『ボクの彼女は超ビッチ』とか『ビッチ』ばっかりだったのです!」

「え……」


 俺は、記憶を漁りまくる。

 そう言えばだ。コイツがエロビッチ発言をするようになったのは「高校時代からだった」はずだ。

 なにそれ? なに、俺の好みが「ビッチ」だと思ってそんなのことしてたの?


 それに、あのエロ本ちゅーか、エロマンガは――


「せ、先輩の彼女だった、あの女―― あれも、見るからにビッチのホルスタインだったのです]

「あ、加藤峰子か――」

「メスブタの名前など、聞きたくないのです」


 俺が失業と同時に振られた彼女。

 ノンバンクに勤務しているキャリアウーマンである。

 確かに、見た目は派手だ。乳もでかいが――


「俺、別にビッチが好きなわけじゃねーけど……」

「なんですとぉぉぉ!!」


 叫ぶ田辺京子、がくんと頭を落として「では? 今までの努力は…… いったい…… というか――」とブツブツいっている。


「だ、大丈夫か? おい」

「やはり、結婚しかないのです。結婚してください。先輩! お願いします」


 京子はイスから立ち上がり、俺にしがみ付いてきやがった。

 意外にいい匂いがしやがる。くそ――


「えー!! ちょっと待て、落ちつけ!」


「結婚してください! 結婚してください! 結婚してください! 結婚してください! 結婚してください!」

「だから、落ちつけってッ!!」


 俺は小柄な京子の肩を掴んでしがみ付いてきた彼女を引き離す。

 ふわりと長いポニーテイルが揺れる。


「ふー、ふー、ふー」と荒い息を繰り返す京子をなんとか、イスに座らせる。


「あの本だがな…… 歴史研究部に「中」って奴がいたの覚えているか?」

「あ、中先輩ですか?」


 そいつは、結構俺と仲がよく、大学時代まではよくあっていた友人だ。

 社会人になってからは、会っていないが。


 同じ部にいた京子にとっては俺と同じように先輩になる。


「そいつが、超のつく「エロビッチ好き」で俺に薦めてきたんだよ。で、本を無理やり貸されたんだよ」


 奴は良い奴だが、性癖は生粋の変態だった。

 女は「ビッチ以外」は認めないとか言っていた奴だ。


「はい?」


 魂の抜けたような顔で俺を見つめる田辺京子。

 そして、ふらふらと倒れこむようにしてイスの背もたれに上半身を預けた。

 イスの上でイナバウワーをしていた。


「では…… 先輩は?」

「全然、俺、そういう女ダメだから――」


 で、田辺京子もぽつぽつと語りだした。それで事情は分かった。


 要するに、コイツは俺のことが好きで、俺が「ビッチな女」が好きと思いこみ、ビッチを演じていたのだ。

 高校時代からずぅぅっとである。凄まじい女だ。

 途中で気が付けばいいモノを、俺が付き合いだした彼女を見て、諦めず更にビッチ度を上げていったのだ。


「分かったよ……」


 俺はイスの背もたれに身を預け言った。

 なんか、俺も、どっと疲れたのだった。

 なにこれ? って感じだ。

 

「分かったとは? なんですか」


 京子がうつむいたまま、上目づかいでこっちを見た。

 二六歳の大学准教にして、日本史専門家。

 でもって、付き合いの長い後輩――

 おまけに、重大な秘密も共有してしまっている。


「付き合う。オマエと付き合うよ―― とにかく、彼氏彼女の関係でよければ、付き合うよ」

「マジですか!! 先輩!!」


「ああ、マジだ」


 しょうがないとか、妥協とか、同情とか、そんな気持ちがないわけじゃない。

 ただ、分かったことがある。

 長い付き合いなのに、今まで気が付かなかった。

 とにかく、コイツは「純粋」なのだ。「天然」といってもいいかもしれんが――

 

 そして、俺の中に、コイツに対する今までは無かった気持ちが出来ているというのは事実だった。

 それは、決して悪い気持じゃない。


 コイツは、マジで俺のことが「大好き」なのだ。ふざけているわけではなく「純粋に大好き」なのだ。

 選んだ手段は、アレであるが、俺のことを大好きであるというのは、本当だったのだ。

 決して、悪ふざけをしていたわけではない。


(コイツは、ずっと俺が好きだったのか…… 本当に)


 そう思われれば、悪い気はしてこない。


「私のことを好きなのですね? 愛しているのですね?」

「まあ…… それを否定できない気持ちがあるってのは、そうかもしれん」

 

 俺は曖昧な笑みを浮かべ、言った。

 いきなり、コイツに対し「好きだ」とか「愛している」という言葉を吐くのは、流石に照れというか、なんというか、躊躇がある。

 いつかは言ってしまうのかもしれないが――


「ならば、今日は先輩のところに『お泊まり』なのですね?」

「はい?」


「私の夢が叶ったのです♡ 先輩とひとなってドロドロに溶けあうのです♡ もう、朝まで寝かせないのです♡――」

「おい、ちょっと待て……」

「先輩の女になって、先輩専用の〇〇〇〇になって、ああ、京子は幸せなのです♡―― 先輩の〇〇〇〇で××××なんて、最高なのです―― パンパンになってしまうのです♡」


 聞くに堪えない凄まじいゲスエロビッチの言葉を垂れ流す京子。特殊性癖のエロマンガのキャラでしか、そんなセリフを言う奴はいない。


 しかし、それはもはや、演技とは思えない。つーか、マジモン以外の何物でもなかった。

 京子は発情しきったドロドロに蕩けた視線を俺に向けている。


「まて、京子…… オマエ、ビッチは演技で……」

「演技だったのです――」

「だった?」


 なんで、過去形なんだ? 


 京子は「ふひぃ~ ふひぃ~ ふひぃ~」と荒い呼吸を繰り返している。


 そして口を開いた。


「な、なぜか先輩に対しては、こうなってしまうのです。京子は止まらないのです。好きなのです。先輩が好きすぎてこうなってしまうのです♡」

「まて、ちょっと待て――」


 イスからゆらりと立ち上がる一四六センチの女。

 メガネと笑みを浮かべた口以外がベタに塗られたような平野耕太的雰囲気で、俺に向かって歩を進めてくる。


 演技だったのは本当だろう。

 中学時代の京子は確かにこうではなかった。

 高校時代から、演技を開始し「ビッチ」となったというのは本当だろう。


 しかしだ――

 

(こいつ、演じているうちに本物になったんじゃねーのか…… マジ物の変態に……)


 しかし、もう後の祭りだ。

 どーしようもない。


「まて! 京子、あれだ! 天然痘対策、それを教えろ。その約束だろ!」

「あ、そうです。その約束でした」


 すっと雰囲気が元に戻り、トンとイスに座った。

 俺は「ふぅ~」と肺の中につまっていた空気を吐きだした。


「緒方春朔は、すでに人痘を開始していたのです。彼に牛痘の手法を研究させれば、いいのです。より安全な予防ができるのです」


 田辺京子は日本史の専門家モードに戻って言った。


「田沼の時代、世界の歴史に名を残す『ジェンナー』レベルの医者がいたのか?」

「いたのです」


 きっぱりと田辺京子は言った。

 まるで、自分がエライみたいに、ペッタンコな胸を張っていた。


「人痘でも予防はできるのですが、危険性が高く二%の死亡率があったはずです」


 スラスラと田辺京子は言った。発情しなければ本当に頼もしい。


「となると―― 蘭学者ネットワークを使って、牛痘の開発か…… 緒方春朔を中心にプロジェクトを進めると」


「その辺りは、先輩の判断次第なのです」


 天然痘対策はとりあえず、蘭学者ネットワークを動かしてなんとか出来そうな気がする。

 で、後の問題は――

 

俺は目の前で、メガネの奥の目が淫蕩の色に支配されつつある存在を見やった。


(コイツをどうやって家に帰すかだ――)


 こっちの方も、面倒な問題だった。

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