32.老中・田沼意次殿ですが、なにか?
JR鮒橋駅近くのデパートでは夏の間、バーベーキュービアガーデンが開催される。
で、俺は、ひとり三〇〇〇円で食べ放題、飲み放題コースを注文して座っているのだ。
田辺京子は対面に座り、俺の隣に田沼意次が座っているのだった。
満席というほどではないが、適度に混んでいる感じだ。
「先輩、飲み物を取りに行きませんか?」
田辺京子はそう言って席を立った。
「お、おう」
俺も席を立つ。
飲み物はフリードリンクでセルフサービス。
ビールだけでなく、サワー、ワイン、ウィスキー、日本酒、各種ソフトドリンクなども飲み放題だ。
かなり、お安い感じがしないでもない。
「ちょっと、お酒とってきます」
俺は田沼意次に訊いた。
「うむ――」
田沼意次も空気を読んで必要最小限の返事をする。
事前に二一世紀での「身バレ」はヤバいという説明はしていた。
ちょんまげは帽子で隠して、現代人の格好をさせている。
しかし、その身に纏った「江戸時代オーラ―」が何となく俺にも感じられる。
一つ一つ、細かい所作に、どうにも違和感がある。
まあ、気にしなければ気付かない程度ものなのであろうが。
しかし、田辺京子を前にごまかし切れるのか……
色々問題はあるが、一応、江戸時代の専門の研究者なのだ。
「すぐ戻りますんで。肉が焼けたら、先に食べてていいですから」
網の上には、牛バラスライス、ソーセージ、鶏のモモ肉が置かれている。
牛バラスライスあたりは、もういい感じに焼けてきている。
「うむ、承知した」
田沼意次はそう言ってジッと焼けていく肉を見つめる。
すげぇ真剣に見つめるその横顔を見て、俺は「やばいなぁ」と再び思う。
ビールサーバーなど、セルフサービスで飲み物を取る場所に向かう。
その場所は、座っていた席からはちょっと離れていた。
「先輩」
「なんでしょうか? 田辺さん」
客たちの喧噪というほどではない騒々しさの中、田辺京子が俺に話しかけてきた。
「あの人は誰なのですか?」
「こんどの仕事関係のパートナーです」
「私はなぜか、あの人を見ていると「ある人物」の名を思い浮かべるのです。歴史的な人物です。なぜでしょう」
「さあ……、なんでだろうね」
俺はそう言ったが、多分コイツは正解に近づいているのではないかと思った。
俺はコイツに散々、田沼意次やら、その時代のことを訊いているのだ。
小説を書いているということを理由にしてだ。
大学時代は同じ文芸サークルにいたのである。理由としてはそこそこ説得力があると俺は思っていた。
しかしだ――
そのような予備知識を持ったうえで、出会ってしまった。
やはり、非常に状況はまずい。
「あの人は、どうも変なのです」
田辺京子がポツリと言った。
俺は『オマエの方がよほど「変」だから』と思ったが口には出さない。
「ふーん。そうなの……」
「まず、匂いです。伽羅之油(きゃらのあぶら)の匂いです」
「キャラの油?」
「江戸時代の整髪料です。#蝋__ろう__#、松脂、ごま油が混ざった匂い。前に研究室で再現したことがあるのです。そっくりな匂いです」
「ふーん。体質かな…… そういう体臭の人もいるかもしれないね」
「いないと思います」
田辺京子はきっぱりと言った。
「あ、結構並んでるな。ビールでいいか、まずは」
俺たちはビールサーバーの列に並ぶ。
俺より頭一つ以上小さい田辺京子が下から俺をジッと見つめる。
「歩き方が、江戸自体の武士の所作です。上半身をあまり動かさず、いつでも抜刀できるよう訓練された歩き方なのです」
「ふーん。こ、古武道とか、やってるのかな……」
確かに田辺京子の指摘の通り。俺の感じていた違和感がそれだ。コイツは、それを完全に言語化していた。
「先輩は、あの人となんの仕事をするのですか?」
「え? ああ、色々と…… 貿易関係とか、そんな感じで」
田辺京子はクイッと丸眼鏡を持ち上げた。
「どうにも、今までの情報を整理して出てくると、あり得ない答えが出てくるのです」
「あり得ない?」
「先輩の書いていると言っていた小説は、実は小説ではないのではないということです。事実ではないかということです」
もうなんか、詰み筋に入ったような感じだった。
どうするか……
二一世紀側にも協力者が必要じゃないかというのは、前から思っていた。
現代でもやらなきゃならないことは多い。
俺は、江戸時代の小判の現金化という問題も抱えている。
江戸と現代をつなぐビジネスの規模が大きくなってくれば、俺ひとりではいずれ限界を迎える可能性がある。
しかし、田辺京子に全てを明かしていいのか?
その疑問は俺の脳裏にへばりついているのだ。
コイツがもう少しマトモであれば、それほど悩んだりしないのであるが。
俺は田辺京子を見た。丸眼鏡の奥の大きな瞳もこっちをジッと見ている。
黙っている分には、本当に可愛い顔をしているのだ。
スッと息を吸い込み、俺は口を開く。
「なあ、オマエはあの人を誰だと思ったんだ?」
今度は俺の方から訊いた。それによっては、もう腹をくくるしかない。
今後も、江戸時代の専門家として、田辺京子の協力は欲しいのだ。
「田沼意次です」
きっぱりと田辺京子は言った。
ビールサーバーの列が俺たちのとこまできた。
「それは、あれですか? 日本史の教科書に載っている田沼意次ですか?」
俺はジョッキを手に取り、サーバーからビールを流し込む。
「そうです。老中の田沼意次です。江戸時代の人間です。信じられないですが、どうしてもそうとしか思えないのです」
田辺京子も、サーバーからビールをジョッキに流し込みながら言った。
「そうか……」
「先輩、こぼれてます。ビール!」
「おお!」
俺はあわてて、ジョッキをサーバーから離した。
ボタボタとビールがこぼれていく。
もはや、選択肢は一つしかなかった。
俺はコイツに打ち明けることに決めた。
◇◇◇◇◇◇
「本当に…… そんなことがあるんですか? 先輩」
「本当だよ。本当に、老中・田沼意次殿ですが、なにか?」
俺はジョッキをトンと置いて言った。半分開き直っているのかもしれんが。
もはや、隠しておくことよりも、田辺京子を捲きこむ方がいいと俺は判断した。
今ここで取り繕っても、今後もコイツの協力を得るならば、いずれバレる可能性も高い。
「いかにも、ワシは田沼意次。して、ソナタの名は?」
田沼意次が言った。
「田辺京子といいます。え…… 学者です。史学者です」
「ほう…… このように美しい#女子__おなご__#が、学者とは―― さすが、二三〇年後か」
そう言って、田沼意次はグイッとレモンハイを一気に流し込む。
「美しいですか? 私?」
「うむ、天女のようであるな――」
くるっと田辺京子が俺の方を向いた。
「先輩、私は天女のように、美しいらしいのです。そんな私をなぜ先輩は――」
そう言って、何杯目なるか分からん、ビールをグイッと飲みやがった。
俺は「平均身長の低い、江戸時代基準じゃね?」と思った。口にはしない。
「なぜ…… 私になびかないのですか? 謎です」
トンとジョッキを叩きつけるように置いて言った。
そもそも、あの「エロビッチ発言」でなびく男がいると思っている方が謎だ。
しかし、コイツは酒が強い。
並みの人類であれば、すでにヘベレケになるくらいのアルコールを摂取している。
それでも、白い頬が朱に染まっている程度。また、ろれつも意識もしっかりしているのだ。
俺は余り酒に強くないのでそんなに飲んでいない。
この後、江戸に田沼意次を送り返さねばいけないし、本格的に酔っぱらう訳にはいかない。
今はウーロン茶を飲んでいるのだった。
「しかし、旨いの…… 持ち帰りはできぬのか……」
旨そうな匂いの焼けたソーセージを器用に箸でつまみあげ、タレを付けて口に放り込むご老中様。
田沼意次は、初老に差し掛かった人とは思えぬ食欲を見せていた。
モリモリと肉を食いまくって、ビール、ワイン、チューハイを飲みまくっていた。
酔いが回っているのか、回っていないのか、外側からではよく変わらない。
顔色はあまり変わっていない。
「失脚直前の田沼意次が、大元帥明王に祈願したことは知っているのですが……」
「うむ、大元帥明王様のお導きで、土岐殿と出会え、その協力を得て、ワシは政をやり直しておるのだ」
「そうなのですか……」
「ま、そういうことだ。信じられんかもしれんが、これが真実だ」
俺はふたりの会話に割り込んで言った。
俺はその場の空気の勢いにまかせ、今までのことを全部話した。
俺が江戸時代と二一世紀を行き来できること。
でもって、二一世紀の商品などで、小判を稼いでいること。
二一世紀の知識で、田沼政治を支え、日本の近代以降の歴史を変えようとしていること。
といっても、小説ということで、すでに話していた内容とかぶっている部分が多いのであるが。
「帽子の下は、チョンマゲなのですか?」
「む、ワシの髷を見たいと申すか?」
「み、見たいです! 見たいです! 見せてください!」
田沼意次はメッシュの帽子を伸ばして、頭頂部を見せた。
チョンマゲがそこにあるのを田辺京子は見た。
「チョンマゲなのです……」
「いかにも。江戸時代の者ゆえ、このような髪型となっておる」
ということで、二一世紀に協力者が出来た。
正確に言えば、以前から協力してもらっていた田辺京子が全てを知ったということだが。
◇◇◇◇◇◇
「なあ、このことは絶対に秘密だからな。いいか」
俺は酔いつぶれた田沼意次を背負い、アパートに向かう。
田辺京子は、ややフラフラとした足取りながら、自力で歩いている。
飲み放題一二〇分間で、コイツがどれだけ飲んだの、よく分からない。
「らいじょうぶれすよぉ~ 言ってもられも信じませんよぉぉ~」
「そうかもしれないが…… 絶対に言うなよ」
俺の江戸と現代をつなぐ能力が知れたら、トンデモナイ騒動になるだろう。
世界的な大問題に発展する可能性もあるのだ。
そんな大騒動など絶対に起こしたくはない。
そうなれば、俺の身の安全すら保障されない可能性がある。
「しぇんパイが、私の唇を塞いでしまえばいいのです。先輩のキスでもそれ以外のモノを口にぶち込むのでもウェルカムなので~す」
「てめぇ!!」
田沼意次を背負っているので叩くことが出来ない。
「きゃははは! 冗談なのです。言いません。絶対に言いませんよぉ。先輩と秘密の共有…… ああ、京子はそれだけで、蕩けてしまうのです……」
ふわふわと浮き上がっているような感じで歩く京子。
そういえば、田沼意次が起きているときは、エロビッチ発言をしなかったなと、俺はチラリと思った。
そう言えば、コイツ、高校時代から――
「先輩、今日は、私はタクシーを拾って帰るのです残念ですが、お持ち帰りはできないのれ~す」
俺が記憶を漁っていると田辺京子が言った。
「わーッたよ。気を付けろよ」
田辺京子はタイミングよくやってきたタクシーを止めるとそれに乗った。
タクシーが走り去っていくのを俺は、田沼意次を背負って見ていた。
田辺京子に全部打ち明けて、協力者になってもらったこと。
それも、まあ悪くないんじゃないかと俺は思った。
もしかしたら、俺も少し酔っているのかもしれないが。
「で、家に帰って、今度はリヤカーにご老中を乗せて四キロ漕ぐのかよ……」
俺はそう呟くとアパートに向かって再び歩き出していた。
また、明日からは忙しくなるのだ。確実にそれだけは分かっていることだ。
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