1.田沼意次の降魔祈祷で俺は現代から江戸に転移した

 天明六年(1786年)五月一五日――


 田沼意次は失脚の瀬戸際にあった。

 歴史的事実でいえば同年八月に将軍家治の死去に伴い、老中職を追われることになる。

 田沼の政治、田沼時代と呼ばれる歴史はここで終わるのだ。

 

 田沼意次は、過去においては、「わいろ政治」、「私欲を満たす悪徳政家」と悪政・悪徳政治家と評価された。

 しかし、最近では重商主義政策をとった開明的な政治家と評されることが多くなった。

 史学的な評価では、一周早すぎた有能な政治家という評価の方が大勢を占めている。


 さて、この日、その合理的な田沼意次が神仏にすがっていた。

 そこは、時代的な限界――

 まあ、21世紀でも神仏頼みをする人間は後絶たず、彼を笑うことはできないだろう。


 役職上は老中、側用人であったが、神田橋上屋敷を追われ、今は謹慎蟄居の身である。

 行動の自由は奪われ、神仏にすがると言っても、寺や神社に行くこともできなかった。


 その日の深夜、彼は祈祷師を謹慎中の中屋敷に招いた。

 そして、宇宙の原理を司る大元帥明王に「降伏ごうふく」を祈願する願文がんぶんをささげていた。


 燃え盛る火炎の前で、祈祷の儀式を行っていたのだ。


「ワシは間違ってはいない―― このままでは、ダメだ。バカどもに任せては…… 幕府は潰れる」


 赤い炎が老境の政治家の顔を照らしていた。

 命を削るかのような祈願―― 思い。 

 通常であれば、個人が行うような祈祷ではない。


 祈祷の対象である、大元帥明王は、鎮護国家の神である。


 重商主義による幕府財政の立て直し――

 その彼の政治は行き詰っていたのだ。

 天変地異もあったが、進み過ぎた彼の政治思想は周囲の反発を招いていた。

 そして、その反発が一族で周囲を固めることになる。

 結果、権勢を独占している更なる反発を産む。

 

 その帰結が、息子の田沼意知の死であった。

 彼は、若年寄りに昇進すると、城内で刺殺された。

 田沼意次の政治を継ぐべき存在。それを失っていた。


 孫の意明が家督を継いだが、まだ十一だ。


「終われぬ…… このままでは終われぬ――」


 その執念と大宇宙の根源を司る大元帥明王の気まぐれが、この時代を大きく変化させようとしていた。


        ◇◇◇◇◇◇


 俺は、トボトボと鮒橋駅前を歩く。

 無職だ。

 ニートでは無い。

 塾講師だったが、務めていた塾が潰れた。

 近くに、大手の塾が進出し、生徒が集まらなくなったのだ。


 そして職安通い。今日もそうだ。

 働く意志はあるが中々職が無いのだ。


 接客業や営業は俺には無理ということは分かっている。

 そもそも、俺を雇う奴もいないだろうと思う。

 大学時代にちょっとバイトで店員とかをやったが三日で首になった。

 向いてないのだ。


 とりあえず、前職と同じ塾講師を探しているが、正社員の口はない。

 ほとんどがアルバイト、パートだ。

 まあ、ひとり身だし、それでもいいかと思う。


「振られたしなぁ―― ひとりだから気楽だよなぁ…… はははは……」


 付き合っていた彼女にも捨てられた。

 金も女もない。職もないのだ。欲しい全部欲しいけど無い。

 俺は、どうにもならんという、人生のドン詰まりの中にいるのだ。


 五月なのにやけ熱い。もわっとした熱気とヌルヌルした空気が超不愉快。


「クソ暑いなぁ。おい――」


 真っ青な空に何の臆面もなく太陽が熱を送りこんでいるのだ。

 もしかしたら、太陽は俺だけ狙ってんじゃね? ってくらい熱い。


「やべッ」


 眩暈がした。

 くらっと来て倒れた。

 地べたがやけに熱い―――

 

「なんて、熱いんだ…… って……」


 顔を上げた俺はビビる。

 まず、目の前で火がボウボウ燃えていたからだ。

 しかも、アスファルトだったはずの地面がいつの間にか土になっていた。

 

「おおお!!! 来たぞ! 大元帥明王が降臨されたぁぁ!!」


 叫ぶ声。なにそれ?

 大元帥明王?

 ああ、仏教で不動明王と同格の神だったな…… 

 確か元はインドの――


 一応、小中高の社会科教師の免許を持ち、歴史専攻だった俺はそれを思い出す。

 専門は近現代史だったけど。


「そうか…… これが、大元帥明王? これがか?」


 しわがれた絞り出すような声。

 老人の声だ。


 俺は起き上がって、炎の向こう見た。

 

「夜? え? 夜じゃん」


 焚き火の明るさで、気が付かなかったが夜だ。

 いや、さっきまで昼だったはずじゃねーか。

 

 空を見上げる俺――

 空には満天の星と月があった。間違いなく夜。


 ここで、俺は思う。あり得ないことが、ふたつつあるのだ。


 ひとつめは、昼から夜になったこと。

 ふたつめは、満天の星空。鮒橋の空からそんなもんは見えない。

 そして三つ目を俺はみつけた。

 それを口に出す。


「ここどこ? 鮒橋じゃないよな……」


 どうみても、俺がさっきまでいた鮒橋駅前ではないのだ。

 西武百貨店もないし、フェイスビルもない。書店もないし、何もない。

 あるのは――


 なんか、ジジイと祈祷師みたいなのがいた。

 あり得ないこと四つめだった。


「チョンマゲ……」


 ジイさんはまるで、時代劇みたいな恰好をしていた。

 なにか、こう尋常じゃないことが、俺の身に起きたのではないか思った。まず確実。

 

「大元帥明王様、降臨成功ぉぉぉ! もはや、我が身は必要なし! おおおおおお! 我の法力すげぇぇぇ! では、さらば!」


 そういってなんか祈祷師が走り去った。

 

「あのぉ~」


 俺は目の前に老人に話しかけるしかなくなる。

 なんとも、鋭く、そして暗い眼をした老人だった。

 

 一体、俺に何が起きたのか……

 薄々、その可能性を頭の隅で感じつつも確認せねばならない。

 このジイさんしか、その相手はいない。


「ワシは老中・田沼意次―― 大元帥明王様なのか?」

「え? 田沼?」


 先手を取られ、向こうから訊かれた。


 田沼意次――

 俺の耳にはそう聞こえた。

 となれば、俺の脳のわきっちょにあった不安、予測、予想がもしかしたら当ったのかもしれない。


 ここは、江戸時代――

 それも1700年代後半だ。

 年号までは覚えてない。西暦なら分かるが。

 タイムスリップ―― まじか……


「老中、田沼意次って―― あの…… 株仲間奨励とか、印旛沼干拓、長崎貿易の俵物輸出での黒字化の? ですか?」

「むぅぅ―― 我が業績を滔々と…… 本物なのか?」

「え?」


 俺はあらためて周囲を見た。

 どうもここは屋敷の中庭のようだった。

 田沼意次は正座し、頭を下げずずっと下がった。


「何卒! 何卒! 我が祈願を――」

「え?」


 祈願ってなんだ?

 

「我が身は傾運し、息子・意知も喪い―― しかし、目指すご政道を完遂せねばなりませぬ。さもなくば、幕府は滅びましょう。何卒、お力を! 大元帥明王様のお力をぉぉぉ!」


 魂を振り絞るような声で、俺はお願いされた。

 しかし俺には――


『いいぜぇ、貸してやろうじゃねぇか。オイラも大元帥明王と呼ばれてるわけだ。ここまで、祈願されりゃ、無碍にも出来ねェ――』

「え?」

「なに?」


 俺と田沼意次が同時に声を上げる。

 不意に、声が聞こえたのだ。なにか、声が聞こえたのだ。

 しかし、その姿は見ない。


 俺と田沼意次はキョロキョロするが、いるのは俺たちだけ。


『田沼ぁ―― おめえぇの願いはよ、この兄ちゃんが叶えてくれるぜ』

「なんと!」


 そう言って、田沼意次は俺を見つめる。


「大元帥明王様の使い…… 」

『ああ、そう思っていいぜ。ま、正確にいえば、この時代から200年以上先の未来の日本人だ』

「なんと! 未来の…… 我が国の……」

 

 田沼意次と大元帥明王の間で勝手に話が進んでんだけど。

 俺は?

 なに? 俺は大元帥不動明王閣下がここに連れてきたわけ?

 この江戸時代に―― 18世紀末に。

 

『土岐 とき わたるよぉ』


 俺は名前を呼ばれた。なぜ知っている?

 大元帥明王だからか? 


『なんだ? 訳の分からねェってツラしてるじゃねェか』


 いや、実際に訳の分からん事態だし。

 なにこれって感じなんだけど。


「あのぉ~ 何で、俺はここにいるんです? なんで?」


 俺は端的に質問した。


『オメェさんよ、「就職」したいよな』

「はい、まあ……」

『金持ちになりてぇんだろ?』

「そりゃ、出来れば……」

『女も欲しい、それも別嬪が欲しいよなぁ――』

「まあ、男ですから……」


 俺は答えた。まあ、確かにそう思っている。

 

『オイラが全部叶えてやるよ。まあ、そういうことだ」

「え? よく分からんのですけど」

『だから、この田沼意次に協力しろってことだ。それが仕事だ』

「仕事ですか? それが」

『ああ、報酬は大判、小判ざっくざくだ。田沼からもらえばいい。どうでぇ?』


「どうでぇ?」といわれても。困る。

 いきなり、江戸時代に連れてこられ、大判、小判ザックザックになっても、困る。


 生活水準の格差ってものが存在するのだ。

 現代の最底辺の暮らしですら、江戸の上流層には勝てるのだ。

 それは、人類の積み上げた歴史であり、進歩なのだから。


 汲み取り便所で、電気、ガス、水道、通信インフラ無し。娯楽も限定される。

 最低限文化的な生活でも江戸より現代がいいのですけど。


『現代にも戻れる。自由自在に―― どうでぇ?』


 そんな、俺の思いが伝わったかのような大元帥明王の言葉だった。


「え? マジですか?」

『ああ、「時渡りのスキル」をオマエにくれてやったぜ』


 なんかここだけ、いきなり「スキル」とかネット小説のラノベみたいなこと言いだしたよ。

 大丈夫かよ、マジでこの大元帥不動明王は――


『つまり、現代と江戸を行ったり来たりして、この田沼を助けろということだ。で、オマエはそれで田沼から報酬をもらえばいいし、江戸でも現代でも勝手に商売して儲けりゃいい』


「マジっすか!」

『マジだ。大元帥明王嘘つかない』


 それは、凄いことだ。

 下手すれば、産業革命を江戸に起こして、近代の日本という国家のありようすら変えてしまうことができる。

 21世紀の文明を持ちこみ、超巨大通商国家を作るか――

 いや、世界を統一し「パックス・ジャパーナ(日本支配による平和)」を創れるかもしれないのだ。


 しかし――

 ちょっと、俺は冷静になる。

 そんな歴史改変をしていいのか…… どうなんだ……


『ああ、タイムパラドクスかい? そいつは心配ねェよ。この宇宙の理ってのは、まあ、オメェの考えているモノとは違う―― そうさなぁ『ヒルベルト空間』の理解に関しては21世紀の科学者はいい線いっているがな。量子論的世界観も近いがイマイチだな。つまり、プレーン宇宙論的な十六次元階層の折りたたまれ、零点振動する超弦的な量子捻じれの――』


 大元帥明王様が、もはや21世紀の一般人である俺でも理解不能なことを話しだした。

 もうなんか、「スキル」とか言いだしんだから、「ここ異世界だからさ」的な話にすればいいのにと俺は思った。

 でも、黙って聞いていた。


 田沼意次は呆然としていた。

 21世紀の人間でも理解できないので、気を落すことは無いのだと言ってやりたかった。


「――という訳で、オメェさんの21世紀はなんら干渉されねぇんだよ」

 

 結論だけは分かった。

 要するに「やりたい放題OK」ということだった。


「大元帥王様、しかし―― この田沼はもう……」

『ああ、そうだなぁ。田沼よ。ここからじゃキツいよな。歳だし、息子死んだし、失脚寸前だしよぉぉ』


「え?」


 俺は思う、そう言えば、息子が死んだとは言っていた。

 ということは、田沼政治もかなり終盤だ。

 失脚寸前だ。確かもう、詰んでるじゃん。

 俺は周囲をみた。確かに老中という存在が住むには狭い屋敷に見える。


 でこの後、あれだよ――

 松平定信だよ…… 

 寛政の改革だよ。

 節約で文武奨励で農本主義で、思想弾圧だよ――

 未来とか無理だと思うよ、あの人は凄く相性悪そうだし。


『じゃあよぉ、田沼も少し、時を戻すかぁ―― 息子にもあいてぇだろうよ』

「なんですと!! 意知が生きていた時にッ!」

『おうよ! 戻してやるぜぇ、もう一度、オメェの政治―― やってみろ。そこの土岐航と共にな』


 そう言い残してスッと気配が消えた。


 そして、眩暈―― 

 また眩暈だった。

 グラリときた。


「おお!! ここは!! 木挽町の中屋敷ではないぞ。神田上町の上屋敷では――いや、呉服橋御門内の江戸屋敷か…… 時も、時も渡ったのか!」


 田沼叫んでいた。

 なんか、若くなっているし。

 老人というのはちと早いくらいの歳になっている。


「土岐殿!」

「え?」


 棒立ちになっている俺に、正座し頭を下げる田沼意次。


「大元帥不動明王様のお導き―― この田沼に助力お願いいたし申す」


 お願いされた。

 歴史上の人物に。

 田沼意次にだった。


 ふぅぅぅっと俺は息を吸いこんだ。 

 これが、江戸の空気かと俺は思う。

 少し、いい空気なのかもしれん。


「やってやるか! この日本を! 大改革! 田沼の改革の開始だな!」


 俺は決心する。

 江戸と21世紀の現代を行き来し、この時代を変えるのだ。

 この田沼意次という、開明的な政治家を表に出して、江戸時代から日本を改革してやる。


 面白い――


 俺はやる気になったのだった。 

 

■参考文献

田沼意次(著)深谷克己

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