第20話 戦犯

 不意に、ぎゃあぎゃあと激しく鳴き交わしながら、真っ黒な水鳥の群れが水辺から羽ばたき上ってきた。

 たちまちイナゴの雲のように、辺りの空が真っ黒になる。

 白い波頭を立てる川の水を埋め尽くすほどの烏たちだ。

 彼らの羽ばたきの渦中に平田は巻き込まれた。

 体と言わず顔と言わず、狂ったように飛び回る鳥たちがビシビシとぶち当たってくる。

 本来烏や水鳥は非常に賢く、人の顔を見分けて個人を認識するし、生きている人間は上手に無視してすり抜けていくものだが、この鳥たちの集団は行く手のものを察知して避ける感覚が鈍っているのか、構わず体当たりしてくる。

 平田は目をつつかれないよう橋の手すりに顔を伏せ、しゃがみこんだ。


 その時、今いる橋の真下に、橋げたに引っかかっている死体を見た。

 褐色に変色した国民服の袖から骨の腕を伸ばしている。

 顔や耳元を散々ついばまれた頭蓋骨が、窪んだ眼を合わせてくる。

 仰天し尻もちを突いた平田に、どうしたどうしたと大八車の物売りが寄って来た。

 平田は物も言わず、箸の手すりの隙間から下を指差した。

 物売りも大八車を放り出して、巡査を呼びに行った。

 その間に彼は、激しくなってきた雨煙に紛れるように、浅草側に駆け戻った。


 ふらつく身体でやっとの思いで雑踏に紛れると、平田さんと自分を呼ぶ声がした。

 隠していた実の名前を呼ばれ、彼は肝が潰れるほど驚いた。

 振り返ると大家の昭島和子が、黒い古ぼけたコウモリ傘をさし、割烹着のまま立っていた。

 手には死んだ父親のものか、これも真っ黒い雨よけマントを持っている。

 和子はずかずかと平田のもとに近寄ると、頭からマントを被せ、腕と肩をしっかり掴み、そのまま強い力で引きずって行った。


「手紙は読んで、破って捨てました」


 声が鋭く、怒気を含んでいる。

 華奢な彼女の身体のどこに、こんな強い力があるのか。

 自分で歩けるからと言いたかったが、春の驟雨に打たれ、冷え切った唇はわなわなと震えるばかりで、声が言葉にならない。

 低いうめき声を上げながら、平田は下宿へと連れていかれた。


「馬鹿なことはしなさんな」

「でも、殺されるよりは」

「あんたはまだ生きている。だったら死ぬまで生きていてごらん」

「……」


 下宿に戻った平田は有無を言わせず下着まではぎ取られ、全身を乾いた布でごしごし拭かれた。

 恥ずかしがる気持ちの余裕などふっ飛んでいたのは、二人とも一緒だった。

 階段を上る力もなくなっていた平田は、一階の和子の茶の間に布団を敷かれ、横たえられた。


「お茶はないから」


 彼女は手早く湯を沸かし、湯呑に注いで軽く吹いて冷ました。

 口元にあてがってもらった白湯を一口飲むと、熱が喉から腹の下までじんわりと染み通る。


「生きてる方がどれだけいいか」


 白湯を飲み切った平田を再び寝かせ、喉元まですっぽりと煎餅布団でくるんだ和子は、茶碗を片付けながら静かに言った。


「そうでしょうか」

「え?」

「死ぬときは自分の考えで死にたいんです。他人の尺度で生き死にを左右されるのはもう嫌なんです」


 平田は青ざめた顔を和子から背け、身を守るように丸くなった。



「さっき川の橋に引っかかって見つかった土左衛門さあ、軍警察から逃げてた戦犯だって」

「家から逃げ出して、人目を避けて逃げ回っていた男だ。1年前ぷっつりと足取りが消えて、多分そのころ逃げ切れないと入水したんだろうって」

「大勢の捕虜を殺した罪だっていうけど、哀れなもんだね」


 裏口で和子相手にお喋りしている魚屋の御用聞きの声が、やけに大きく平田の耳を打った。

 やめろ。もうやめてくれ。叫んだつもりが声にならない。喉からは掠れた息が出るばかりだった。

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