第34話 死の夜

「空襲警報発令 ! ここはもうダメだ。逃げろ !」


 平田は火の粉が降り注ぐ中、懸命に叫びながら走った。

 みな兵隊にとられて若い者は自分くらいしか残っていないから、町内会での役割は重い。


「貴様、何を言っておるのか!」


 突然国民服の背中をひっつかまれた。

 腰から軍刀を下げた男が切り殺さんばかりに、鬼の形相で睨みつけていた。

 その狂気に満ちた目の光に、こいつは本気だ、斬られる、平田はそう覚悟した。

 当時は「防空法」という法律が国家総動員法の下で施行されており、自分達の家の回りや町内の持ち場の消火活動に協力しなかったり勝手に逃げたりすると、最高で死刑が適応されたのだ。

 そしてその裁量は軍や警察、自警団にゆだねられていた。


「逃げるだと!? 何を言うのだ、貴様は非国民か!?」


 ギラギラと炎を映して光る男の眼の中に、怯える自分の姿を平田は見た。


 その瞬間、うわあうわあと泣きだす子供の声が、すぐ近くでした。

 焼夷弾の直撃を受け、体が半分崩れたまま花火になって燃える母親の近くで、一歳くらいの赤ん坊が泣いている。

 だが右往左往して通りを逃げ出そうとする人々は、気付かない。赤ん坊は蹴飛ばされ、人々に踏みつけられそうになった。

 軍刀の男は猛然と赤ん坊の方に走り、抱き上げた。

 途端に、投下された大型焼夷弾の破片が、燃え残ったまま地面にバウンドした。

 抱かれた赤ん坊の頭を砕き、そのまま男の首筋を切った。

 骨ごと断たれ、皮一枚でぶら下がった首の男は火に包まれ、頭のない血まみれの赤ん坊と共に一つの火の玉になっていった。


 平田は走り出した。

 もう町内にふれて回る必要もない。誰もかれもが逃げ出している。

 路地の奥からも正面からも、右の二階建ての家々からも左の長屋からも、一斉に炎が噴き出し、遠い日に見た戦勝祝のちょうちん行列よりも明るく世界を焦がしている。

 自分の前も後ろも両脇も、炎の滝と壁だ。

 逆巻く真赤な流れが、火の付いたナパームの雨と共に人々に襲い掛かってくる。

 走りながら、平田は自分の軍帽もいつの間にか焼けてなくなっているのに気付いた。

 着ている国民服も、火の粉が飛んであちこち焦げた穴だらけ、眼は炎と煙で激痛がした。

 口を開けると熱波がのどの粘膜を焼き、ちりちりと痛む。

 背中にくくりつけた非常持ち出し袋に火が付いたので、捨てた。

 焼かれた手と背中の皮がぺろりとむけた。


 脇を走る人の背中からぼうっと火が燃え上がる。

 焼夷弾の火薬を浴びたわけではない。

 空気自体が熱くなりすぎたため、服が自然に発火したのだ。

 周りを走るもの皆、ひとりでに炎に包まれて焼けていく。

 熱さと苦痛に耐えかねて道に倒れながら、地面に背中をこすりつけて消そうとすると、今度はお腹から火が吹きあがり、のたうち回ったまま燃えていく。

 平田は道沿いに防火用水の槽を見つけ、急いで走り寄った。

 わずかな水を求めた多くの人が、頭を突っ込んだまま焼け死んでいる。

 彼はその死体を引っ張り上げ、道端に打ち捨てて空きを作り、体液と煤に汚れた水を焼死体から奪った鉄兜ですくい、全身に浴び、また走り出した。

 鉄兜はそのまま被っていた。もはや何の心の痛みも感じなかった。


 やがて人の流れに他所から更に合流し、巨大な人と大八車の奔流となった。

 江戸通りからずっと固まっている人の波は、中に巻き込まれてしまうともう身動きが取れず、押されて窒息しそうな勢いだ。

 立往生したリヤカーの持ち手に押し付けられ、圧死する者もいた。

 だがそのぐったりと動かなくなった死体ごと、巨大な手つなぎ鬼のように数珠つなぎになって、皆の体が運ばれていく。

 平田の体も言問橋の上に来ていた。

 自分の意思で歩いたわけではなく、ただ大声を上げ抵抗しても詮方なく、流されて来たのだ。

 橋の向こうの本所寺島町も既に大きな火球で、夜空の黒い色はどこにも見えない。

 ただ風の音が大きくなるたびに火がぶわっと勢いを増し、橋の両側から逃げてきた人たちを追い詰める。

 浅草側、本所側と両端から人が押し寄せたものだから、橋は押しつ押されつのぎゅうぎゅうづめになっていた。

 怒号と悲鳴と泣き声がこだまする。

 その中で、恐怖のあまり狂ってしてしまったのか、女の大きな歌声が聞こえた。


 名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ 故郷の岸を離れて なれはそも波に幾月


 国民歌謡、『椰子の実』である。

 昨日も夕方五時にラジオから流れていた。その歌声を聞いて彼女と飯を食い、そして体を交えた。

 彼女は無事だろうか。


「どけ、どけぇ!」


 橋の真ん中で、前にも後ろにも行けず停まってしまった消防車があった。

 警視庁消防隊か、地元の消防団のものだろう。

 手押しポンプの上に立って大声で叫んでいる消防士たち、そのすぐわきに髪を振り乱し。煤で汚れた顔の女がいた。


「和子!」


 平田は渾身の力で人を突き飛ばし、押しのけ、彼女のそばに寄った。


「平田さん、帽子が……」

「君こそ防空頭巾が」

「焼けたから取っちゃったの」

「そうか、俺もだ。生きてたんだ、よかった」


 炎がいよいよ迫り、二人の周りの人波は言問橋の欄干にと流れて行った。

 次々と川に飛び込むのだ。

 だが冷たい木枯らしの極寒の墨田川である。

 高い橋から水面に叩きつけられたショックと寒さで、心臓が止まってしまう。

 だが炎に追われた人々は我先にと川に落ちていく。


「和子、ごめん」


 平田は折れそうに痩せた体に渾身の力を込めて和子を抱き上げ、頭の上に振り上げると、橋の外に放り投げた。

 男の名を呼ぶ暇もなく小柄な女の体は宙を舞い、隅田川の氷のような水面に叩きつけられた。

 一度沈んでまた浮き上がるその目に、ごうっと一際強い北風が吹きつけ、橋の上に残る人びとを一気に炎が舐めて行く様が見えた。

 巨大な炎の奔流が橋の上を駆け抜け、人や荷物を焼き、消し炭にしていく。

 まるでまばゆい夜景だ。

 現代なら、さながらルミナリオか光のパレードだろうか。

 違うのはその炎は生きた人を松明にして、悲鳴と苦痛を飲み込んで燃え盛っているという事だ。


「平田さん」


 和子は呼んだつもりだったが、彼女の体は周りに寸分なくぎっしりと浮いている、自分と同じ飛び込んだ人々に押さえつけられ、浮き上がろうと引きこまれ、また水の中に沈められた。

 絡みついてくる手を振りほどき浮き上がろうとすると、今度はしがみつかれ、足を引っ張られる。

 川の水の冷たさで手が動かない者が、肩に、頸筋にかみついて浮き上がろうとする。

 狭い水槽の中に入れられ互いに食い合う鯉のようだ。

 和子も引っ張りこまれ、踏みつけられ、次第に沈められていった。


 この夜だけで、実に10万人以上が死んだ。

 浴びせられた小型焼夷弾は約40万発。

 隅田川や横十間川、木場の水路は、川底から水面まで折り重なった死体で埋まった。

 凍死、水死、水面の上に出していた頭を火災旋風で焼かれての焼死、死因は様々だ。

 最後の戦略爆撃隊が日本に着いた時、東京の東半分は炎の塊と化していて、爆撃手はもうやみくもに焼夷弾を落とし、低空で機銃掃射を浴びせた。

 下で生きながら焼かれている多くの民間人のことは頭になかった。

 なぜなら自分達の同胞の兵士も太平洋の島々でやられたからだ。


「ゲイシャ・ガールをバーベキューにしてやったぜ!」


 興奮してわめく兵士たちの歓声が、B29のコックピットの中で響いた。


 早春の夜が明けた時、東京下町は一つの巨大な燃えカスとなっていた。

 炭化した土人形のような真っ裸の焼死体が折重なり、道と言わず家の中と言わず横たわっていた。

 口をかっと開けた頭蓋骨にへばりつく、消し炭状の顔面が、最期の瞬間まで続いた苦しみと恐怖を表していた。

 からからに乾いた人の形の炭は、大きな大人から小柄な女性、子供、赤ん坊まで、北風に吹かれてばらばらになり、腕だったものや頭の半分、足先とてんでに分かれて道を転がった。

 前日、卒業準備のために疎開先から戻った国民学校の6年生たちも、多くは家族と共に焼け死んだ。

 名札を縫い付けた炭化した布をくっつけた黒い塊が、そこかしこに転がっていた。

 全身大やけどで彷徨う生き残った人は、まだくすぶっている死体に足を踏み込みよろめいた。

 踏み抜かれた胴体や頭蓋は、ぼすっと黒い蒸気を上げて潰れた。

 だが火傷を負ってふらふらと彷徨う人たちも、すぐに倒れては死んでいく。


 道やコンクリートの建物の外壁、言問橋の橋げたには、生きたまま焼かれていった人々の体液や脂が沁み込み、後々まで消えずに残った。

 東京の、全国の空襲は明けたその日も、次の日もまた次の日も続いた。

 そのたびに『逃げるな火を消せ』が声高に叫ばれ、一般人の縁故疎開も許されなくなった。


 5カ月後、広島と長崎に原子爆弾が落とされ、満州と樺太にソビエト軍が攻め入り、ようやく戦争は終わった。

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