第6話 昭和最後の日の雷門
慣れない筆ペンで記帳を済ませた人々は、沿道脇の順路札に沿って戻っていく。
平田は革靴の踵を鳴らしながら、その粛々とした列に埋没して進んだ。
すぐ目の前に、他の記帳客たちのコートの背に埋もれてしまいそうな「昭島和子」の、やや丸めた華奢なコートの肩が見える。
老婦人が履くにしては高い10センチヒールにも慣れているのか、肩も頭もぶれず、膝も美しくすっすっと伸ばして歩いている。
その凛とした後姿を平田は無意識に追っていた。
一口に浅草と言っても、この地にはいくつもの「浅草駅」が存在する。営団地下鉄銀座線、都営浅草線、東武電鉄。都電から替わった路線バスも各方面へ多くのルートがあるので、バス停もそこらじゅうにある。
彼女はどの交通機関に向かうのだろう。
アパートに帰ってもどうせテレビは朝から同じ、天皇と昭和の歴史まとめ番組しかやらない。どこのチャンネルも同じ映像を延々と流しているし、コマーシャルも自粛とやらで、お堅い公共広告に差し替えられている。途中見かけたレンタルビデオ屋の盛況ぶりから察すると、これから行ってもろくなビデオは残っていない。
尾行、というつもりはなかったが、平田はこの上品で可愛らしい老婦人の後をついて行った。
記帳所から帰る列は来た道を戻る形で仲見世通りを進み、赤の色が鮮やかな雷門まで来た。
喪に服して静かとは言え観光地・浅草の華やかな世界に戻ってきたようで、平田は内心ほっとした。
「すみません、〇〇テレビの者ですが、少しお話よろしいでしょうか」
雷門前の交差点で信号待ちをしていると、黒の喪章を袖につけた男性が突然飛び出してきた。
『街の声』とやらを拾いたくて、記帳所の近くで張っていたのだろう。
参道内での取材は管理者である寺に断わられたのか、門を出た所で人々に声をかけていた様子だ。
「……」
いきなり横合いから声をかけられて、老婦人は足を止めた。明らかに戸惑っている風だったが、立ち止まったという事は了承の意思表示と、取材陣は思いこんだようだ。
「今日はどちらからいらっしゃいましたか?」
「……地元ですので……」
「昭和がとうとう終わりましたが」
「はい」
「昭和という時代をどう振り返られますか?」
「まだあまり実感がなくて……」
「この浅草という町は先の戦争では大変な被害をこうむっていますが」
老婦人の肩がビクンと震えた。明らかに動揺している。
無理もない。若い平田でさえ、勤務先の新入社員教育での会社の歴史で、死屍累々の焼け野原となった浅草の惨状に気分を悪くしたくらいだ。地元の人となれば彼以上に強い感情も沸くだろう。
だがそれを思い出さないように、心に封をしている人も多いはず。眼の前の老婦人もそのようで、赤信号をイライラした様子で信号を見上げた。
「崩御に際して天皇に思うところはありますか?」
彼女は信号を待つのをやめ雷門通りの歩道を左に歩き出した。
「お話しいただけませんか?」
昭和と共に生きたと思しき美しい老婦人を逃がすまいと、撮影用カメラを肩に担いだ男とマイクを持った男が老婦人に近寄る。
狭い歩道を行き交う歩行者の中、マイク男の肩がドンと婦人に触れた。
彼女はよろけ、ハイヒールの美しい脚が一瞬もつれた。
「危ない、昭島さん!」
平田はとっさに婦人の背中を支え、転倒一歩手前で助けた。
思いがけず名を呼ばれた老婦人は、長いまつ毛の瞳を大きく見開き、唖然と平田を見詰めた。
「大丈夫ですか?」
「やばいカメラ無事だったかな」
彼女を押したカメラマンのぼそっと発した呟きが、平田の神経を逆撫でした。
「危ないじゃないか。どこの局だよ」
取材の二人は素人の抗議を取り合う風もなく、変わったばかりの信号を渡り、行ってしまった。
河岸を替え、通行人を捕まえては同じ質問を繰り返すのだろう。
市民はマスコミの取材を受けたがっているし喜んで応えるはずだ。
そう思っているのがありありとわかる。
「全く……」
平田は自分がまだ老婦人を抱きかかえているのに気付き、慌てて手を離した。
「失礼しました……大丈夫ですか?足ひねっていませんか?」
「ありがとう。大丈夫です。申し訳ありません」
老婦人は戸惑いを隠さず答えて、少し体を引いた。
2人の周りを信号を渡ろうという記帳客の流れが、やや邪魔っ気そうに行き交う。
変ろうとする信号を見上げ、慌てて渡り始めようとした彼女を平田は留めた。
「あのう、無礼な取材陣の厄落としに一杯飲んでいきませんか? 僕、どうせ帰っても暇だし、テレビは同じ内容の繰り返しでつまらないし、どこか開いてるお店があったら」
彼は一気にまくし立てた。
驚いた顔で自分を見上げる小柄な夫人は、年齢の割には姿勢もしゃんとしていて瑞々しく可愛らしくはあるが、還暦を過ぎたと思しき老女だ。
黒いマフラーに覆われた首にも、カシミヤの手袋に包まれた手にも年相応のしわが刻まれているに違いないし、控えめな街灯と信号ではっきりとは見えないが、薄化粧を施した顔にもシミがあちこちある。
目元や口許や眉間にも深いしわが何本も刻まれている。
だが、平田はそのしわや弾力に欠けた肌さえも魅力的だと思った。
「こんな日ですし。特別な日なんで」
どうしても慣れなかった営業トークを、もっときちんと勉強しておけばよかった。
平田は特別な日、というところに力を入れながら後悔した。
ああ、変な若造が絡んでいると思われるだろう。
こんなにきちんと、質の良い素材と仕立ての服を着たご婦人だから、もしかして俺が金をせびろうとしているとでも思われるかもしれない。
「ありがとう。私も帰っても何もやることがないし、飼い猫が待っているわけでもないから、ご一緒させてもらおうかな」
彼女は口の端をキュッと上げて、楽しげに答えた。
案の定口の両端にくっきりとしわが刻まれていたが、そのほうれい線さえも綺麗に見える笑顔だった。
「え、ええ……ありがとうございます」
どぎまぎした平田は鞄を取り落としそうになり、すっかり怪しい奴と化していた。
「どこかいいところご存知? こんな日でも開いていそうなところで、気軽に呑めて小腹を満たせるような…」
「知ってます。いいとこ知ってます。行きましょう」
ちょうど変わり始めた信号を確認し、平田は老婦人の体を支えて渡り始めた。
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