四葉のクローバー

辻川優

第1章 日常

1-1


失ってから気づくことがある。そんな言葉、ただの言い訳だと思ってた。


 あの日、私は全てを失った。


 ゼロから見えた景色は、とても、とても、美しかった。


 木下薫。十七歳。高校二年生。髪の色は先生にバレない程度に染めた茶色。中学まで吹奏楽部に所属していたけど、高校入学と同時に辞めた。だって、こんなことで楽しい放課後を奪われてしまうなんてばからしいから。放課後は友達と適当に教室で話したり、遊びに行ったり、バイトをしたり、たくさんやることはあるのに何か一つに縛られた青春なんて、つまらない。

 これが私。私というブランドだ。

 

 「薫、このあと駅前のスタバ行こうよ」

 帰りのホームルームを終えるチャイムが鳴った直後、水下果歩が私に声を掛けた。


 「いいよー。ちょっと、あの話聞かせてよ」

 私がにやついてそう問いかけると、果歩は少し顔を赤らめて「いいけど」とはにかんだ。果歩は最近、一学年上の先輩とどうやらいい感じらしい。いい感じというのはとても抽象的な表現だけど、私たちの生きる世界ではもはや標準語だ。いい感じはいい感じ。それ以外にない。

 

 私と果歩は中学からの友達だ。中学一年生の時、転校生として私のクラスに入ってきた果歩の第一印象は「可愛い」だった。今も昔も語彙のない私の中で発せられる「可愛い」は他人に告げる言葉の中でもはや最上級の言葉であり、悔しいけどそれ以上に果歩を言い表せる言葉がなかった。

 

 「優香もスタバいこうよー」

 私の席から二列離れた一番廊下側の席に座る小原優香が、果歩の声に反応してこちらを振り向く。「行く」と満面の笑みを浮かべると同時に、机の中から教科書を取り出していた手先が緩み、教科書を床に落とす。それを三人でげらげらと笑う。華の高校二年生、私たちはこんなくだらないことでも、何もかもが楽しかった。

 落とした教科書をさっさと拾い上げ、優香が「早くいこ」と私たちを急かす。

 

 「いやいや、優香を待ってたんだよ」

 こんな礼儀一つもないやり取りでも不快感を覚えない。むしろ無礼なやり取りを当たり前にできるのが「友達」という関係の特権だと、私は思って疑わなかった。

 普段通りの朗らかな雰囲気のまま、私たちは教室を出る。部活に急ぐせわしない放課後を過ごす生徒を気にも留めず廊下の真ん中を三人で歩く。人生楽しんだもん勝ちだから、自分たちの好きに生きなきゃ意味がない。これが、私のモットーであり、全てだった。そのためには、自分に関係のない人なんて、どうだっていい。例えそれが少し迷惑になろうとも、知ったことじゃない。きっと、この二人も同じような考えを持っているのだろう。同じ考えを持った人だからこそ、私たちは友達として成立している。この何も気を使わない関係が、どことなく心地いい。

 

 私たちはこれから大事な放課後を謳歌する予定だ。なのに、なのに。

 

 廊下の真ん中を歩いているはずなのに、私の肩に重たいような、どんとした感触が伝わってくる。衝撃に耐えきれなくなった私は、そのまま後ろに尻もちをついた。

 

 「薫、大丈夫」

 倒れこんだ私に果歩と優香が心配そうな表情で声を掛ける。優香に手を貸してもらい立ち上がると、果歩は私にぶつかったであろう何かをすさまじい形相で睨んでいる。果歩の目線の先には、小倉さつきがいた。自分にぶつかったのが小倉だと分かったとたん、得体の知れない怒りが一気に込み上げてくる。 

 

 「お前なんなのほんとに」

 果歩と一緒に、小倉を睨む。少し間を開けて、小倉の口からか細く「ごめん」と声が聞えた。

 

 「あんた今、わざと薫にぶつかったでしょ」

 優香が追い打ちをかけるように小倉を責め立てる。私にぶつかった衝撃で一緒に倒れこんだ小倉は、廊下に座り込んだまま、困ったような、怯えているような表情を私たちに見せた。

 

 「何か言いなよ」

 果歩の声を受け、小倉は俯きながら「わざとじゃない」と呟いた。

 「普通廊下の真ん中でぶつからないでしょ。何、私たちに言いたいことがあるなら言えば」

 私はさらに声を荒げる。

 

 「ごめん」

 「何なのほんとに。てか、いつまで廊下に座りこんでる訳、あんたが当たってきたのに、被害者ぶらないで」

 

 「ごめん」

 私たちに急かされるように小倉が立ち上がる。でも、その様子はとてもぎこちなくて、途中よろめいた小倉はもう一度廊下に倒れこんだ。

 

 「痛い」

 反射的に小倉が声をあげる。その様子が鼻についたのか、果歩が追い打ちをかけた。

 

 「ねえ、私たちがいじめてるみたいな雰囲気出さないでくれない。あんたが勝手にぶつかってきて、勝手にまた転んで、被害者は薫なの。ちょっと足が悪いからって悲劇のヒロインぶっちゃって。そんな足が悪いなら普通の学校なんてこなきゃいいのに」

 

 小倉は俯いたまま、顔をあげようとはしなかった。私たちが言い争っている中、壁に沿うようにして横切る生徒の姿が何度か横目に入る。その中に誰一人として小倉に手を貸す人はいない。

 

 「もう、こんな奴にかまってる暇なんてないよ。私たちの時間が無駄になっちゃう」

 あきれたように優香が言う。その言葉は決して小倉を庇うために言った言葉でないと、この光景を目にしていた人なら誰しも思うだろう。そう、こんなまともに生活もできないような奴にかけてやる言葉などないのだ。

 

 私たちは時間を惜しむような速足で小倉の前から離れた。去り際にまだ言い足りなかったのか、果歩が「もう学校来るなよバカ」と吐き捨て、それが面白くて私たちは笑った。誰も、このあと小倉が立てたのか、歩けたのかなど気にかけた人はいなかった。

 

 駅前の喫茶店に向かう最中、私たちの話題はもっぱら小倉の話だった。

 「ほんと何なのあいつ。まともな人間じゃないなら普通の高校なんか来るなよ」

 私が言い放つと、他の二人は笑う。

 「あいつ絶対自分が可哀そうな人だと思い込んでるよ。あいつと同じクラスの私たちのがよっぽど可哀そうだって」

 「ほんとに、あいつが普通に参加するなんて言ったから今年の体育祭負けたし」

 「わざわざ出しゃばってこなくていいっての」

 

 私たちは噂話、恋の話、そして悪口が会話のほとんどを占めている。その日によってどの割合が高くなるのか変わってくるが、今日は悪口の日だ。

 

 「知ってる?あいつ、周りに宿題忘れた人がいると決まって私の見るって聞いてるらしいよ。それくらいしか取り柄がないからって必死すぎて笑っちゃうよね」

 果歩の振った話に食いつくと、三人で笑った。どこか私たちの中には、真面目でいることが恥ずかしいことという認識があった。毎日言われた通り先生の言うことを聞いて生活するなんて、ばかげてるしつまらない。そんな私たちのルールから外れた人間はことごとく自分たちの世界から省いた。そうやって作り上げた私たちの世界こそが一番だと思っていた。

 

 「そうそう、だからあいつ、裏で便利屋ってあだ名ついてるらしいよ」

 優香の付け加えた情報がなんだか非常にしっくりきて、また笑った。

 「なにそれ、めっちゃぴったり何だけど」

 「ね、ほんとに。今度私も便利屋に頼もうかな」

 「いや、私たちきっと嫌われてるから受けてくれないかもよ」

 私の希望は果歩から真っ当な指摘で散った。そこに優香が「それは職務放棄だね」と付け足すので、またおかしくなって笑った。

 

 駅前に付くと、放課後を有意義に過ごす学生たちが蟻のようにうようよと屯っている。こんな光景は私たちにとって日常茶飯事だ。そしてここから、私たちの戦争ともいえる争いが始まる。

 「やっぱ、今日も人多いね」

 私がため息をつきながら呟くと、果歩が「タリーズなら大丈夫だよ」と笑顔で返した。

 

 そう、駅苗にはスターバックス、マクドナルドなど学生がうろつくには丁度いい場所がそろっている。その中でも駅から軽く外れたタリーズは案外空いていることが多い。

 

 「じゃあ、今日はタリーズにしよっか」

 音頭を取る優香に合わせて、私達は駅から東へと足を進める。

 「ほんと、あいつのせいでまた歩かなくちゃならないなんて最悪」

 果歩の一言に私たちは顔を合わせて頷く。普段なら駅前のスターバックスに入って涼んでいる時間なのに、今日は小倉とのやり取りのせいで学校を出るのが遅れていた。

 

 「今日暑いから早く涼みたかったのに」

 便乗する様に私は話した。季節は夏。八月の日差しは私達にとっては毒だ。もうすぐ夏休み。高校二年の夏、人生で一番楽しい時間がやってくると、何一つ疑っていなかった。

 

 思った通りタリーズは空いていた。時間はもう十七時を回っていたけどまだまだ暑い。

 

 女心と秋の空という言葉を体現するように、タリーズに入ったとたん私たちの話題は果歩と先輩の話になった。

 「正直、先輩とはどこまでいったの」

 注文したカフェオレを飲みながら、私はいきなり核心を突く質問を果歩に投げ掛けた。飲んでいた抹茶ラテを吹き出すような素振りを見せた後、「どこまでって」と果歩が恥ずかしそうな表情を見せる。

 

 「いいじゃん教えてよー」

 机に身を乗り出して、興味津々な様子で優香が問う。その表情はとても楽しそうだった。

 「どこまでって、別にこの前デート行ったくらいだよ。どこまでとかじゃないし」

 軽くむすっとした表情を見せたが、それすら私には幸せそうに感じる。「どこに」と優香がすかさず聞いた。

 

 「釜無川の花火大会」

 「えー、花火大会行ったの。めっちゃうらやましいんだけど」

 二人して同じような反応を見せてると、果歩の顔はみるみる赤くなった。恥ずかしくなったのか、果歩は「二人は何かないの」と私たちに話を振る。

 「私たちは今は何もないからなー」とふざけ調子で優香が言う。「そうそう、この夏に期待してるからね」と私もおどけたようにのっていく。

 「じゃあ、夏休み明け聞くからね」

 

 真剣に果歩が言うので、それが何だか面白くて三人で笑う。スターバックスには私たちと同じような学生たちが多くいるのであんまり気にならなかったが、少し駅から離れたタリーズには勉強している人、何か資料を作っている社会人が多くいるので、店内に響く声は私達だけだった。まあ、そんなこと関係ないんだけど。

 「そんなことよりさ、もう夏休みだよ。どこ行くか決めようよ」

 「海だよ海。夏は海で決定」

 果歩の訴えに対して優香がノリノリで答えた。答えた直後に優香が胸を寄せて「美ボディーでしょ」とウインクをしながら言うので私たちは吹き出した。周りから見たら下品かもしれないけど、私たちの世界ではこんなくだらないことが何より面白い。

 

 「ちょっと何してんの。テンション上がりすぎだって」

 笑いながら言う私を前に優香は「決定だよ決定。海いこうね」と口角を上げていった。

 私達自身も特に異論はなく今年の夏の一大イベントは海に決定した。

 「二人とも、海でいい人見つければいいじゃん」

 「そんな簡単に見つからないって」

 「わかんないよ。ナンパしてくる人とかもいるかも知れないしさ」

 「そんなナンパ男についていくほど、優香は軽い女じゃありませーん」

 「そうだよ、私もそんな軽い女じゃないし」

 「どうかなー、薫は案外ころっといっちゃいそうじゃない」

 

 他愛もない会話を続けていると時間は一瞬で過ぎ去った。喫茶店で軽く会話をして十八時四十八分の電車で帰る。このくらいの時間になると辺りもだんだんと涼しくなって、夏の夜の独特な香りがする。私はそれが好きだ。

 だけど、この時間はだいたい帰宅ラッシュと被る。それに紛れ込むように、まるで私たち自身も今日一日何かを成し遂げたかのような雰囲気を醸し出しながら電車に乗り込む。

 

 やはり、この時間の電車は混んでいた。それも、何故だか普段より人が多い気がする。

 「あ、あそこ空いてるよ」

 おもちゃを見つけた子供のように嬉しそうな声を上げ、優香は一つのシートを指した。

 

 そのシートの上には優先席と書いてあるのを私は、いや、多分三人とも重々承知していたが、それを特に気に留めることなく、私たちは優雅に五人シートを三人で使った。

 途中、腰の曲がったおばあちゃんや妊婦さんの乗車する様子が横目に入る。優先席を必要とする人たちを目にしても、シートを譲るという考えは微塵も浮かばなかった。

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