第5章 リ・チャレンジ ⑭さよなら、空。

 翌朝、早い時間に美羽と流は空を連れて家に戻った。業者が引き取りに来るまでに、返すものを揃えておかないといけない。

 最後の食事、最後のおむつ替え、最後の散歩。美羽は一つ一つを丁寧にして、「この体験を忘れないでおこう」と思った。

 レンタルしていたものを一カ所に揃えてから、三人の写真をたくさん撮った。今まで、三人で写真を撮ったことはないので、「前の時も撮っとけばよかったなー」と流は残念そうにしている。

「本物の子供ができたら、いっぱい写真撮ろうよ」

「そうだね」

 チャイムが鳴り、インターフォンを見ると業者の二人が「こんにちは、レンタルベイビーをお迎えに参りました」と挨拶した。

 二人が来るまでの間、美羽は空をギュッと抱きしめた。

「オレにも抱かせて」

「うん」

 二人で交互に抱っこする。

 男性の担当者はいつも通り無愛想で、黙々と荷物を梱包して運び出した。

 女性の担当者は、美羽が涙を浮かべて空を抱きしめている姿を見て、「大切に育ててくださったんですね。きっと空君も、お二人と離れるのが名残惜しいと思いますよ」と優しく声をかけた。

「今回は、いろいろ大変なことがあったみたいですね。でも、適切に対処されて、空君を一番に考えて守っていることが分かったので、支援機構でも好評でした。3回を通してお二人とも親としてすごく成長していらっしゃるので、できればモデルケースとして、ホームページでご紹介させていただきたいと思うのですが、いかがでしょうか」

 美羽と流は顔を見合わせた。

「そこまでたいしたことは……」

「うん、ねえ」

「そうですか。また改めてご相談させていただくかもしれませんので、考えておいていただけると助かります」

「はあ」

 それから女性は満面の笑みを浮かべて、「今回のお二人の評価はA判定でした。それも、過去10年間にレンタルベイビーを体験された方の中で、一番高得点だったんです」と報告した。

「えっ、本当ですか!?」

「マジで!?」

 美羽と流は同時に驚きの声を上げた。

「ただ、3回目に限っての結果なんですけれど。満点に近い点数で、ここまで評価が高いのは珍しいと、支援機構でも話題になっているんです。本当に、よく頑張って子育てされたと思います。もちろん、審査には合格ですので、リアル・ペアレンツになれます! おめでとうございます。後日、出産許可証が届きます」

 女性は拍手してくれた。その横をすり抜けて、男性は表情も変えずに荷物を運び出している。

 美羽と流は「すごいね」「ビックリした」と興奮した。

「空、よかったね。空のお蔭だね」

 腕の中の空に語りかける。空はつぶらな瞳で美羽をじっと見上げる。初めてこの家に来た日のように。

 美羽の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「奥様、名残惜しいのは分かるのですが……」

「分かってます。もう少しだけ。後1分だけ」

 美羽は空を抱きしめた。

「次の家に回収しに行かないと、間に合わなくなるぞ」

 片づけ終わった男性の業者が、女性に声をかける。女性は男性を睨みつけた。

「いいんですよ。別れたくないと思うのは、当然の感情です。それだけ愛情を持って育てたってことですから。それなら、一緒に下のエントランスまで行きましょうか」

 女性の提案に、男性は「ったく」と舌打ちをした。

 先頭に立って台車で荷物を運んでいる男性は、苦虫をかみつぶしたような表情をしている。女性は、美羽と流に付き添うように、「本当のお子さんのように育てていただいて、空君もお二人のところに来てよかったって思ってますよ」と語りかけてくれた。

「あの、空の記憶ってどうなるんですか」

 エレベーターの中で流は尋ねた。

「僕らのことをずっと覚えてたりとか……」

「いえ、レンタルベイビーは回収した後で、リセットされるので」

 女性が残念そうに答えると、「そうですか……そうですよね」と流はうつむいた。

 エントランスに着いた。美羽の歩みは自然と遅くなる。ここを出たら、空を渡さなければならない。そうしたら永遠にお別れなのだ。

「空、空ぁ」

 ボロボロ涙をこぼす美羽の背中を、流が優しくさする。

「次はお二人にとっての、本当の空君を育てる日が、一日も早く来ることを祈っていますね」

 女性は気の毒そうに言いながらも、エントランスを出たところで手を差し伸べた。

「ホラ、美羽」

 流に促され、美羽は空の額にキスをした。

「さよならね、空。今までありがとうね」

 何も知らない空は、屈託のない笑みを二人に向けた。

 空を受け取った女性は、何度も振り返り、空の手を振って見せながら、ワゴン車に乗り込んだ。助手席の窓が開き、女性は最後にもう一度空の姿を見せてくれた。

「空、バイバイね。バイバイ」

「空、元気でな」

 二人は走り去るワゴン車に向かって手を振った。美羽は流に支えてもらえないと立てないぐらいに号泣していた。ワゴン車が見えなくなっても、二人はしばらくその場から動けなかった。

「俺たちのことを忘れないでって言っても……忘れちゃうんだよな」

 気がつくと、流の目にも涙が光っていた。

「なんか、寂しくなるよな」

「うん」

「早く、本物の赤ちゃんと一緒に過ごそう」

 流の言葉に、美羽は何度も頷いた。流は美羽の肩を抱きかかえてくれた。

「部屋に戻ろ」

「うん」

 二人は寄り添いながら歩き出す。

「レンタルベイビーをやって、よかったね」

 美羽が涙声で言うと、「うん、ホント。やってよかった」と流は力強く返した。

 やわらかな風が2人を包む。風の底には、春の気配が漂っていた。

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