第5章 リ・チャレンジ ④トラブル去ってまたトラブル
帰宅した流は、泣きはらした目の美羽の顔を見て、「どうしたの?」と驚いた。
美羽は話しながら何度も感情が高ぶって、涙をこぼしながら流に訴えた。流の表情は険しくなり、朱音に電話をかけて「一体、美羽に何したんだよっ」と抗議していた。
美羽は今はベビーベッドでスヤスヤ眠っている空の寝顔を、ただ見つめていた。
「ごめん、母さん、レンタルベイビーの仕組みを全然知らなかったみたいで、おもちゃを借りる感覚だったみたい。そんなんで、よくレンタルベイビーの仕事を引き受けるよなって言ってやった」
10分ぐらい経ってから、ため息交じりに流は電話を切った。
「もう二度とここには来させないから」
美羽が黙って頷くと、流は美羽の肩を抱き寄せた。
「これだから、母さんとは距離を置いてるんだよね」
流は学生時代に家を出て一人暮らしを始めてから、ほとんど実家には帰っていない。
「あんな家、大っ嫌いだ」と言うのを何度も聞いた。
父親はイタリアに愛人がいるらしく、年に2、3回しか帰って来ないらしい。だが、父親はブラホワの商品の半分ぐらいをデザインしているので、朱音は縁を切りたくても切れないらしい。流の兄は朱音の会社に入って取締役になっているが、兄とも仲が悪いと流は話していた。
「うちの家族は仮面家族だから。家族らしい家族ってどんな感じなのか、分かんないんだよね」と流はたまに言っている。美羽の家も色々問題はあるが、流の家族の話を聴いていると、「うちはまだマシなのかな」と思うのだ。
「あ、そういえば」
美羽は空を見ていて気づいた。
「何?」
「空の服。お母さんが持ってきたのを着せてたんだった。他のは投げて返したけど、これだけ着たままだ」
「1着ぐらい、もらってもいいんじゃない? それだけ迷惑なことをしたんだから、返す必要ないよ」
「そうだね」
美羽はかすかな寝息を立てている空の頬に優しく触れた。
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翌朝、仕事に行く前に空を連れて散歩に出かけた。
マンションの敷地内のあちこちに、まだ雪が残っている。今年は大雪が何回か降って、この近辺もかなり雪が積もったのだ。
頬を刺す空気は冷たいが、日差しは温かくなってきた。
――もうすぐ春だな。
美羽はベビーカーを押しながらのんびりと歩く。空はご機嫌で、歌うように「ぴきぴきぱ」「とぅくとぅく」と言葉を発しながら手を叩いている。この時期はいくつかの言葉を話せるようになると言われているので、美羽は毎日、一生懸命話しかけている。
「もしかして、それ、ブラホワですか?」
ふいに声をかけられて、美羽は振り返った。たった今すれ違った、赤ちゃんを抱っこした女性だった。女性はグレーのウールのワンピースを着て、腕の中の赤ちゃんはボア素材のピンクのパーカーを着ている。
「はい?」
「その子の着ている服、ブラホワじゃないですか? 天使と悪魔シリーズ」
「ああ、はい、まあ」
「それ、どこで買ったんですか? そのシリーズは発売日にすぐに品切れになっちゃうから、買えないんですよ」
その女性はベビーカーに歩み寄って、睨みつけるように空の服を凝視した。長い髪はボサボサで、メイクをしていないので、目の下のクマがくっきり出ている。
――この人、どこかで見たことある……。
すぐに、以前公園で会った、「公務員の知り合いがいたら紹介してほしい」と懇願してきた女性だと気づいた。あれから半年ぐらいしか経っていないので、女性の腕の中にいるのはレンタルベイビーだろう。どうやら、その女性も合格するまでに時間がかかっているらしい。
空は無邪気にその女性に微笑みかけた。
「どこで買ったんですか?」
もう一度聞かれて、「知り合いからもらったんです」と美羽は答えた。
「知り合いから? その知り合いは、ブラホワの関係者ですか?」
「そういうわけではないんですけど」
「その知り合いに、私にも天使と悪魔シリーズの服を調達してもらえるよう、頼めますか?」
「いやいやいや、それはちょっと、ムリです」
「どうしてですか? お金はちゃんと払いますよ」
「そういう問題じゃなくて、その人はお子さんが着なくなったのを、たまたま私にくれただけですから」
「他にも持ってるんじゃないんですか?」
「持ってないと思います」
「どうして分かるんですか? 聞いてみてもらえませんか」
あまりにもしつこいので、美羽はイライラしてきた。
「その人は一着しか持ってなかったんで。急いでるから、これで失礼します」
強引に話を打ち切って、美羽はベビーカーを押して足早でその場を立ち去った。遠ざかってから振り返ってみると、その女性はこちらをじっと見ている。
――いやあ、気持ち悪っ。ちょっと遠回りして部屋に入ろ。
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